ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『生者たちのゲーム』パトリシア・ハイスミス:著 松本剛史:訳

 1958年に発表された、ハイスミスの6作目の長編。舞台はメキシコで、ハイスミスもメキシコで綿密に取材したのだろうなという、かなり細かいリアルな描写が多い。

 読み始めるとすぐに殺人事件が起こり、これはハイスミスらしくもない「犯人捜し」の推理小説なのか、と思ってしまったが、やはりそこはハイスミスで、「推理小説」になどなりっこないし、この作品は「ミステリー」とも思えない展開をみせる。

 そもそもハイスミスが「わたしはミステリーを書きたいわけではない」と語ったことはよく知られていて、この作品などはまさに、そのミステリーに見せかけたような設定は、実はそのメインではミステリーから逸脱していることへの「アリバイ工作?」と思わせられるところもある。
 彼女は『見知らぬ乗客』でデビューして、第2作に完全に非ミステリーの『キャロル』を書いて出版しようとするが、出版社に断られる。「ミステリー」ではなかったからだという(まあ「ゲイ小説」としてスキャンダラスだ、という理由もあっただろうが)。そのときにハイスミスは刊行までにかなり苦労したようで、名前を偽って刊行する。第1作がすぐにヒッチコックにより映画化され、作家としては「ミステリー作家」とのレッテルを貼られてしまったのだろうか。
 本来ハイスミスドストエフスキーとかモーパッサンとかを愛読する「文学少女」だったわけで、そういうところからの「わたしはミステリーを書きたいわけではない!」という主張が、この第6作から聞こえてくるようだ。

 物語はすべて、テオドールという画家の視点からのみ語られる。テオドールにはリーリアというやはり美術家の恋人がいるのだが、リーリアはラモンという家具修理職人とも恋人関係にあり、テオドールとラモンというのがまた、深い友情で結ばれている。リーリアは誰もが「美しい」という美貌の持ち主だったし、テオドールとラモンとの関係もバランスよく続けていた。
 しかしあるとき、テオドールはリーリアが彼女の部屋で惨殺されているのを発見する。テオドールが思うのは、「ラモンが犯人ではないのか?」ということだった。性格的に激昂しやすいラモンのことを知っていたし、じっさいに過去にラモンとリーリアのけんかも目撃している。
 しかしテオドールは冷静に考えればラモンであるはずはないと思い、いちどでもラモンが犯人と思ったことを恥じるのである。警察はテオドールもラモンも取調べるが、ラモンへの取調べは一段ときびしいものである。テオドールはリーリアの死と警察の取調べで二重に傷ついたラモンの心をいやそうとする。しかしラモンは自ら、「リーリアを殺したのは自分だ」と警察に自白する。しかし彼が犯人だとして、彼の「自白」ではつじつまの合わないことがあり、警察は一夜の取調べのあとに彼を釈放する。

 ではこのあと、ストーリーは「真犯人」を探す方向にシフトするのか、というとそうではなく、「自分がリーリアを殺した」と言いはるラモンをなだめよう、「生」を取り戻させようとするテオドールとの対話が、場所をいろいろと変えながらもずっと続いていく。まあそのあいだにもおかしな行為をする若者がテオドールの近くにあらわれたりして、「真犯人探し」への興味をつなぐのだが。

 「無神論者」と言っていいテオドールと、敬虔なカトリックのラモンとの対話は、この種の小説としては考えられないほどに思索的なものであり、司祭や精神科医を巻き込みながら、「善」と「悪」、「罪」と「罰」について、愛について、自由についてなどを語り合うのである。その対話はおそらくこの作品が発表された当時に一世を風靡した「実存主義」的な視点を感じられ、読んでいてもハイスミスはこの小説で、ミステリー的な展開よりも、このテオドールとラモンとの対話こそを書きたかったのではないかと思えてしまう。まさにここに、「ミステリーを書きたいわけではない」というハイスミスの意志を見て取れるように思う。二人の対話からは、「この世には<絶対的なもの>など存在しない」という主張が聞こえてくるようだ。
 ただ、意外と「真犯人」がわかるまでのストーリー過程、特にアカプルコでの動的なシーンの描写は思った以上に迫力があり、そういった「静」と「動」との対比というか、「やっぱり、ミステリー作家として力量あるじゃん」ということになるのである。

 それともうひとつ、このテオドールとラモンとリーリアという三人の関係がリーリアの死で崩れたとき、テオドールはラモンとの友情を失いたくないと強く思い、先に書いたようにラモンとの対話にのめり込むわけだけれども、そこにやはりハイスミスらしい、同性愛的な関係が見られないわけではないだろう。
 今まで読んだハイスミスの作品には、「神経症的な男性」と「奔放な女性」という組み合わせが多かったが、「神経症的な男性」とはまさにラモンのことだし、その神経症はテオドールにも見られるかもしれない。この作品には「奔放な女性」は登場しないが、今までの作品でそんな「奔放な女性」の多くが画家、絵を描いていたということは、殺害されたリーリアに引き継がれているのだろうか(リーリアは決して「奔放」ではない、「理想の女性」だったようだが、二人の男性を同時に愛したということのなかに、外から見たときに「奔放な女性」とされる要素は持ち合わせていただろう。
 しかし、今まで読んだハイスミスの作品には共通して「底意地の悪さ」のようなものがあり、登場人物を嘲笑しているようなところがあったのだが、この作品でのハイスミスの筆致はどこまでもシリアスだ。テオドールとラモンをやさしく外からいたわるように見つめている。そんな感想を抱いてしまう。
 ハイスミス作品の中ではやはり異色な作品ではないかと思うが、それだけに再読を誘うような面白さがあったのは確か。