ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『スモールg(ジー)の夜』パトリシア・ハイスミス:著 加地美知子:訳

 パトリシア・ハイスミスの遺作で、彼女の亡くなった1995年にイギリスで出版された作品。その前に彼女の作品をいつも出版していた出版社は、この本の刊行を見合わせたらしい。日本では折しもこの時期の「ハイスミス・ブーム」に乗っかって、1996年という早い時期に翻訳が出ている(もう「絶版」だけれども)。今になってみると、この「ハイスミスらしくもない」作品が、一度でも翻訳出版されていたということは、かなりの「僥倖」だったのではないかと思える(わたしはこの本を読んで「大好きだ」となったわけだが、いわゆる「ハイスミス作品」を追い求める人たちに向いているとも思えない作品だ)。

 原題は『Small g:Summer Idyll』で、まずはここの「Small g」というのは、どうやら観光案内などでそのスポットが「ゲイの集まる場所」として記載されるとき使われる符号らしい、というのをどこかで読んだ。この作品はスイスのチューリヒにある「ヤーコプス」というカフェ・バーと、一方の主人公のリッキーのアパート・仕事場アトリエを中心に進んで行くわけだけれども、その「ヤーコプス」が「スモールg」と呼ばれているわけだ。ここは夜になるとゲイの人々が集まるスポットで、日本でいえば「新宿二丁目」なのかと思ったりするけれども、このバーは特に「発展場」として「相手を捜し求めるゲイら」の出入りする排他的なナンパスポットではなく、もっとひらかれたスポットというか、ゲイの人らもノン気の人らも同じ場で、差別意識もなくその時を楽しむような、ステキなスポットのようだ(この、「差別意識を乗り越えよう」というのが、この作品の陰のテーマでもある)。
 もうひとつ、「Summer Idyll」の「Idyll」とは「牧歌・小物語詩・小抒情詩」などの意味があるようで、この作品がハイスミスらしくもなく、「不条理な暴力的展開」のないことを暗示しているだろう。というか、この作品はまるで「ミステリー」ではないだろう(それ故に、それまでハイスミス作品をずっと出版しつづけた出版社は、あえてこの作品を自社から出版しなかったのかもしれない)。

 わたしが思うに、この作品の出版された1995年に白血病で亡くなったハイスミスは、この作品が「自分の最後の作品」になることを意識していたのではないかと思う。そう読むと、自身がゲイであったハイスミスのメッセージが読み取れるようにも思う。この作品には何人ものゲイである人物が描かれ、そんな人物らが皆が「幸福」を求める、極めてポジティブな作品と読める。
 先日読んだ彼女のこのひとつ前の作品『孤独の街角』でも、登場人物が「ゲイ」であることがひとつのファクターになっていたけれども、それは「幸せな結末」に結びついたわけではなかった。
 この作品でも、自らの「ゲイ志向」を隠し、ホモフォビア(同性愛嫌悪)にはけ口をみて自滅する人物も出てくるが、中心になる二人のゲイ(もしくは「ゲイ」になろうとしている人物)は、「自らの幸せ」を見つけられるのかもしれない。ハイスミスが語るのは、「相手が男だろうが女だろうが、そんなことはどうでもいいのよ。ただ、相手をしっかり愛しなさい!」ということではないかと思えた。
 ハイスミス作品には珍しく、女性同士の濃厚なベッドシーンも描かれていて(あの『キャロル』以来のことだろうか?)、その描写を含めてちょっとおどろいたのだけれども、これもハイスミスが「最後にきっちりと描いておきたかった」という意志の表れのようにも思った(そういうのでは、「葬儀」のディテールをしっかりと描いた場面、老いた女性を見て「老醜」ということに心をはせるような描写もあったし、ハイスミスの「これが最後」という気もちのあらわれのように思えた)。

 主な語り手というか、物語のほとんどの展開の視点でもあるリッキーという人物もゲイなのだけれども、読んでいると、このリッキーという人物が、ハイスミスのシリーズ作品の「トム・リプリーもの」のトム・リプリーのようにも読めてしまう。例えば『アメリカの友人』でのリプリーでは、自分が「犯罪」に引きずり込んでしまった男に憐憫の情を持ち、危険を厭わずに彼を助けるのだけれども、この『スモールg(ジー)の夜』でも、彼はもう一人の主人公でもあるルイーザの「解放」のために力を尽くすのだ。もちろんリプリーシリーズのリプリーもゲイなのだが、普通に結婚しているというのも、この作品に通底するところもあるように思える。

 さてさて、実のところこの小説、わたしはこれはグリム童話の『ラプンツェル』の翻案だろうと読んだ。
 物語のメインは、レナーテという女性裁縫師(魔女)の下でまるで監禁されているかのような生活をする魅力的な女性、ルイーザ(彼女はもちろん、レナーテの下で裁縫をやっている)を、いかにしてレナーテから解放してあげるか?というようなものなのだけれども、彼女を「救える」はずの最初の男が、まずは夜の街頭で刺殺される(このことは背後関係はなく、単に突発的な事件だったようだが)。
 次にテディーという、まさに「王子様」のような、若くてハンサムでリッチな男がルイーザに惹かれる(同時に主人公のリッキーも、強く強く、このテディーに惹かれるのだが)。しかし、ルイーザを囲っているレナーテはテディーのルイーザへの接近を嫌い、レナーテの思いのままになる「家来」のような男に、夜中にテディーを襲わせるのだ(テディーは大ケガはするものの、命は救われている)。
 ルイーザは、リッキーらの協力を得て何度もレナーテのところから逃れようとするのだが、なかなかに果たせない。「それでは」と、リッキーはある計画を練るのだが(ここでリッキーは、「王子」のテディーを助ける「騎士」という役どころだろうか?)。

 レナーテが「裁縫師」であり、その仕事場にはルイーザの他4人の下働きの裁縫従事者がいる。これは『ラプンツェル』物語というより、わたしが思い出したのは、レメディオス・バロの描いた『ラプンツェル』の作品である。
 そこには、高い塔に監禁されて「編み物」をする数人の女性がいて、そんな女性を監視するように、魔女っぽい人物の姿が描かれている。

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 わたしの憶測では、ハイスミスはこの『スモールg(ジー)の夜』を書くにあたって、おそらく間違いなく、このレメディオス・バロの作品を観ていることと思う。わたしには、この『スモールg(ジー)の夜』のストーリーと、このバロの作品とはあまりに符合しすぎているように思えるのだ(このバロの作品は、のちにトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』でも重要なポイントを占めることになるが)。

 終盤に「網膜症なのよ!」と黒い眼帯をはめるレナーテは、もともと足が不自由なだけによけいに「魔女」っぽくなってしまうし、「王子様」のテディーを助けようとする登場人物らの活躍は、なおさらに「おとぎ話」っぽくもなってしまうだろう。
 しかし解放されたルイーザは必ずしもテディーを選ぶのではなく、さいごの作戦で協力してくれた女性のもとへ行き、ゲイとしての生き方を選ぶのかもしれない。「発展家」のリッキーもまた、実はバイセクシュアルで妻帯者の男と、まさに堅固な関係を保ちつづけられるのかもしれない。

 これまでのハイスミス作品のような「犯罪」の匂いは希薄なのだけれども、わたしは読んでいて終盤にはちょっと涙した。パトリシア・ハイスミスの、その最後のメッセージを受け止められた気がした(わたしは自分は「ノン気」だと思っているが、ゲイの人らへの偏見は持っていないつもりだ)。