ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『回転する世界の静止点 初期短篇集 1938-1949』(2) パトリシア・ハイスミス:著 宮脇孝雄:翻訳

 パトリシア・ハイスミスは一般に「サスペンス・ミステリー小説の作者」として知られているのだけれども、ここまで読んできた5篇の短篇はどれも、そういうサスペンス・ミステリーには当てはまらず(事件が起きないのだ)、「心理小説」という色合いを持っている。
 『見知らぬ乗客』で本格デビューする前のハイスミスが、どのような人間模様に興味を持っていたのかが読み取れるようで、彼女の以後の長篇作品の登場人物らの、深層心理をも読み取れるように思った。今日までに新しく5篇の作品を読んだが、少し「サスペンス・ミステリー」っぽい作品も出て来たのだった。

●「広場にて」(In the plaza)
 この作品はメキシコの観光地に生きる男の子アレハンドロの「処世術」を描いた作品で、彼はその容貌の魅力と頭の回転の良さでアメリカからの女性観光客に取り入り、同じように観光客のガイドをして生活する兄よりも稼ぐようになる。
 これがある「伯爵夫人」と知り合い、ちょっとしたジゴロとして生きる方策を夫人に教わり、アレハンドロは特に美しくもないアメリカの老婦人と結婚することにするが。
 ラストには「事件」も起き、アレハンドロは挫折するわけだが。

●「虚ろな神殿」(The hollow oracle)
 この作品はよくわからない。どうもアーサーはエマという女性をだましてつきあい、妊娠させてしまうのだが、エマはアーサーが話したキリスト教的な「教義」を信じ込んでいて、おかしなことになっている。
 ある夜にアーサーはついにエマを殺してしまおうと、ハンマーを隠し持ってエマを訪ねるのだが。
 わからないはわからないなりに、わたしには非常に恐ろしい作品でもあり、結末はちょっとした「ホラー」ではあろうか。

●「カードの館」(The great cardhouse)
 主人公のリュシアンは、美術作品を観る洞察力に優れているのだが、彼の「楽しみ」は、美術オークションに出品される作品の中に「贋作」を嗅ぎ当て、その「贋作」を落札することにある。それはオークションでその作品を「真作」ともてはやしていた美術批評家、愛好家への痛烈な「嘲笑」ではあるのだが、実は彼はそんな「贋作」を心の底から愛でてもいるのだ。それは彼自身の身体的欠陥とも結びついているのだが。
 ハイスミスの、のちのリプリーシリーズの『贋作』のハイスミス内での創作原点をうかがい知れるような作品で興味深い。ラストに主人公のリュシアンは、自分の精神を分かち合えるような「ピアニスト」と出会い、魂は救われるのだろうか。

●「自動車」(The car)
 この作品にも、のちのハイスミス作品の原点がうかがい知れるようでもあって面白い。
 主人公のフローレンスはホテルマンのニッキーと結婚し、ニッキーの働くメキシコへ行くのだが、フローレンスはメキシコ語がわからないし、メキシコのいろんな事象が好きになれない。おまけに夫のニッキーはやたらとわけのわからないメキシコ人の友人を家に連れて来るし、フローレンスの愛車を借りてメキシコ人を乗せてどこかへ行ってしまったりする。
 「もうニッキーに車を貸して、メキシコ人を自分の車に乗せたくはない!」と思ったフローレンスは、自分の車に乗って家を出て行くのだが‥‥。

●「回転する世界の静止点」(The still point of the turning world)
 これはちょっと「傑作」だと思う。
 ミセス・ロバートスンは、幼い息子のフィリップを連れて家の近くのちょっと寂れた公園に「公園デビュー」する。
 同じときその公園の向かいのベンチに別の若いブロンドの母親が男の子を連れて来ていて、フィリップはそのディッキーという子とすぐに仲良くなってしまう。ミセス・ロバートスンは「あの子は貧しくって、頭に虱とかいるんじゃないかしら」とか心配している。
 ここで視点はブロンドの女性に切り替わり、彼女はその公園でランスという男と待ち合わせていたことがわかる。ブロンドの女性にはバス運転手の夫がいるのだが、今愛しているのはランスで、この公園での短い逢瀬を楽しみにしている。彼女とランスとの会話が書かれるが、ランスは詩を読む趣味もあり教養と才知に富んでいるように思える(このタイトルの「回転する世界の静止点」というのも、ランスが彼女に教えたT・S・エリオットの詩の一節らしい)。
 ミセス・ロバートスンは、「こんな公園にフィリップを連れて来るべきじゃないわね」と思うのだった。
 ある種の人は、同じコミュニティで住んでいる人だろうが、どこかで自分との差異を考え、自分の優位性を保とうとするのだろう。しかしそ~んなことは考えもしない人の中に、コミュニティの狭さを脱するチャンスもあるだろうに(そこに「詩」が存在したりする)。