ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『見知らぬ乗客』パトリシア・ハイスミス:著 青木勝:訳

見知らぬ乗客 (角川文庫)

見知らぬ乗客 (角川文庫)

 パトリシア・ハイスミスの長編デビュー作。彼女は普通に文芸作品として書いたつもりだったらしいけれども、一般にミステリー作品と受けとめられ、以後そういうミステリー作家のレッテルを貼られたことに不満があったらしい。しかしね、殺人事件は(ふたつも)起きるし、探偵も登場してみれば、「ミステリー」と了解されてしまうのも仕方ないようには思う。いや、それでもたしかに、読んでみればこの作品は普通にミステリーとはいえないところがある。

 物語は列車の中から始まる。ガイ・ヘインズという駆け出しの建築設計家が、チャーリー・ブルーノーという金持ちの御曹司らしい男と会い、ブルーノーが父親を嫌っているという話に乗せられて、ミリアムという自分の妻との離婚話が彼女のせいで進まないこととかをしゃべってしまう。するとブルーノーは「ではオレがあんたの奥さんを殺すから、あんたはオレの父を殺せば(そもそもが接点のない相手を殺害するのだから)二人とも捕まらないだろう」という話を持ち出す。
 ガイは「この男は何を言い出すのだ」とブルーノーを相手にしないのだが、ブルーノーはガイとの会話などからミリアムの住まいを割り出し、殺害してしまうのだ。以後、ブルーノーはひんぱんにガイの周辺に姿を現すようになり、けっきょくはガイにブルーノーの父を殺すように迫るのだ。
 ガイにはミリアムと離婚したら結婚しようとしていたアンという女性がいるのだが、ミリアムが死んだせいで二人は結婚し、新居も手に入れる。しかしアンの前にもブルーノーは姿を見せるようになる。

 ブルーノーはまさに何不自由ない金持ちの御曹司なのだが、仕事も持たず生きる意味を探し持たない男であり、母親を溺愛し父を憎むという、典型的なエディプス・コンプレックスであるように見える。しかも酒におぼれるアルコール依存症らしくもあり、そのときそのときのスリル感だけを生きがいとしている人間みたいだ。じっさい、ミリアムを殺した体験こそに生きがいを感じたらしく、そこに生の充実をみている。
 では「理由なき連続殺人鬼」になってもよさそうなものだけれども、ところがどっこい、ブルーノーは列車で出会ったガイのことを気に入ったというか、それ以上の感情を持ってガイに付きまとうことになる。このあたり、ハイスミスの作品によく現れる登場人物の「同性愛的傾向」が読み取れ、この意識は一方のガイの方にもその反映が見られるとも読めるのだろうか。

 その、一方のガイは将来有望な建築設計士ではあるのだけれども、ミリアムとの離婚話を進めるために重要な仕事を断ってみたり、どうもいろいろと周囲の状況に流される「優柔不断」なところがある。そして、その初めにはブルーノーのことを嫌っていたはずが、だんだんとその感覚がアンビヴァレントなものに変化していく。それは彼の世界解釈の「世界はすべて二面性を持っている」という考えに由来するようではある。
 読んでいれば、いくらでもブルーノーとの関係を断ち切ることのできるチャンスはいっぱいあるのだけれども、ブルーノーとの関係に深入りしてしまう。ここのところにちょっと、前に読んだハイスミスの第2作『妻を殺したかった男』の主人公のドジぶりを思い出させられるところがあり、まあ執筆の順番としてはこっちが先なんだから、『妻を殺したかった男』の主人公のウォルターに、この『見知らぬ乗客』のガイ・ヘインズの影が見いだせるというところだろう。

 ここに、ガイの恋人(のちの妻)のアン・フォークナーという女性がいて、彼女はまさに「まっとうな」存在というか、大げさに言えば「真・善・美」の象徴のような存在であって、彼女こそがガイをサポートするのだけれども、ガイはけっきょく彼女に「真実」を語ることができない。ここにこそ、ガイの破滅を予感させるものがあるだろうか。
 考えてみたら、その次作『妻を殺したかった男』でも、主人公のウォルターには妻の死後につきあう彼女がいて、その彼女がまたこの作品のアンのようなまっとうな存在だったのだけれども、ウォルターは彼女にバカげたウソをついて破滅への道を加速させるのだった。

 さらに思い出してみれば、ハイスミスの作品には二人の男の緊張関係で成り立つ作品があまりに多い。この作品以外にもあの『太陽がいっぱい』がそうだろうし、トム・リプリーシリーズの『贋作』にもそういうところはあるだろう。『生者たちのゲーム』しかり。『殺意の迷宮』もそんな話ではなかっただろうか?
 別に「作家の第一作にはその後の作家の特徴があらわれるものだ」などとしたり顔に語りたいとは思わないけれども、そういう風に並べて考えると面白いことだとは思う。

 ひとつの小説として読んで、どうも作者は最後に早急にまとめようとしたのか、ラストのガイの告白や探偵の立ち位置など、ちょっと納得ができないところもある。それでもやはり、ガイ・ヘインズこそを主人公として、彼が崩壊していくさまを冷徹な視線で描いた小説として、やはり面白いものだった。
 それと改めて書いておくけれども、この角川文庫版の翻訳はひどい。読むのならあとから翻訳された河出文庫版がいいのではないかと思う。