ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『贋作』(1970) パトリシア・ハイスミス:著 上田公子:訳

 主人公は詐欺師のトム・リプリーで、パトリシア・ハイスミスが1955年に書いて1960年にアラン・ドロン主演でルネ・クレマン監督によって映画化されて大ヒットした、『太陽がいっぱい(The Talented Mr.Ripley)』の続編になる。ハイスミスはときどき思い出したように、このトム・リプリー主人公の作品を書き継ぎ、生涯に5篇の「リプリーもの」を書いたのだった。

 第一篇『太陽がいっぱい』に引きつづいて、主人公のリプリーは自分の利害のためには殺人を厭わぬ、「倫理」の持ち合わせのない人物で、シリーズものになっていることからわかるようにさいごまで警察に捕まることもなく、このシリーズは彼の「倫理観の欠如した才知」を描きつづけた連作、といえると思う。

 このシリーズ第2作は、さいしょの『太陽がいっぱい』から15年の時を経て書かれた作品で、まあハイスミスも『太陽がいっぱい』を書いたときには、このトム・リプリーを主人公としたシリーズを書く気はなかっただろうと思えるが、「何か琴線に触れるところ」があって、同じ主人公で書いてみようと思ったのだろう。この文庫の「訳者あとがき」では、ハイスミスは「トム・リプリー」のことを、「とっておきのアイディアが浮かんだときのためのキャラクター」と言っていたらしい。

 さて、第1作では、アメリカからヨーロッパにやって来た貧しい青年だったトム・リプリーだったが、彼がその富をうらやんでいたフィリップ・グリーンリーフを殺害し、彼に扮したりもしながらも彼の富を自分のものにして「成り上がった」のだった。この第2作はその第1作から、小説の世界では6年後の話。
 その6年のあいだにもトムは確実に成り上がりつづけ、フランスの大富豪の娘エロイーズと結婚し、パリ郊外の邸宅で悠々自適の生活をおくっている。妻の実家からの仕送りがあり、そして前作で殺したグリーンリーフの遺産を巧妙に自分が相続してもいるのだが、その他にダーワットという画家の作品の売買にも関わってもいた。
 ところが4年ほど前にそのダーワットはギリシアで行方不明になってしまい、おそらくは自殺したのだろうと推測される。その時点でダーワットにいなくなられると大きな損失になるギャラリスト2人にアイディアを出し(リプリーだって、そのときにダーワットに死なれると損害が大きかった)、周辺にいたバーナードという売れない画家にダーワットの「贋作」を描かせ、2人のギャラリストはダーワットを扱う画廊を立ち上げ、ダーワットは「所在不明」だが自殺したわけではなく、どこかから(ここではメキシコということにされるが)新作を送って来るという設定にする。これが大成功というか、ダーワットは評価の高い「大画家」になってしまう。これはとっても面白い、リアリティのある話だと思う。
 物語はそんなダーワットの個展がロンドンで開催されるというところから始まるのだが、そこにマーチソンというアメリカのコレクターが「ダーワット作品の技法に、制作年代に矛盾するところがあるではないか」との「贋作説」を持ち出して、個展会場に真偽を質しに来るという。
 ここでリプリーはまず、自らがダーワットに変装して画廊で記者会見を開催して乗り切ろうとする。同時に、変装を取ってリプリー本人としてマーチソンに会い、「わが家にもダーワットの作品があり、それを見れば疑問も解けるだろう」と語り、マーチソンを自宅に招待する(うまい具合に、リプリーの妻のエロイーズは長期間の旅行に出ていて不在なのだった)。
 しかし、じっさいに会って話してみるとマーチソンはさすがにコレクターで観察眼鋭く、リプリーの手を見て「あなた、画廊でダーワットに変装してましたね」と見通してしまう。「もはやこれまで」と、リプリーは地下のワイン貯蔵庫でマーチソンを殺害してしまう。
 「その死体をどうするか?」ということであれこれあるのだけれども、そこにダーワットの「個展」に自分の贋作が多数展示されていること、また、自分が「贋作画家」だと恋人に知られて去られてしまい、すっかりノイローゼ気味の画家バーナードがやって来る。

 リプリーは「ひとりでは死体の始末はできない」と、バーナードに手伝ってもらい、マーチソンの死体を離れた町の川に投げ捨てるのだ。
 ここで、バーナードの精神状態は極めて悪化し、「自殺願望」と、自分を「贋作画家」に追い込み、さらには殺人の後始末をやらせたリプリーへの殺意も募り、いちどはリプリーを殴打して森の地中に埋めてしまい、行方をくらませる(ここで、この作品の原題が「Ripley Under Ground」だということが、納得がいくのだ)。
 このときには屋敷に戻っていた妻のエロイーズに助けられたりし(単純に、埋まっているところを手を引っ張って助けられたとかいうのではないが)、リプリーは何とかこの錯綜した問題を解決しようと策をめぐらせるのだった。

 ま、このあとの、またロンドンに行ってダーワットに扮したり、それからザルツブルグに行ったりとかするリプリーの行動には驚かされるし、ここに要約して書くことも出来ないのだけれども、かんたんに書けばバーナードは自殺し、リプリーはそれを「ダーワットの死」としてすべてにケリをつけようとするわけだ。

 この作品のひとつの面白さは、トム・リプリーと妻のエロイーズとの関係というか、エロイーズは結婚したときからリプリーの「グリーンリーフ失踪事件」のスキャンダルめいた話は当然知っていたわけで、「このダンナ、公明正大にカタギじゃないわよね?」ということは感づいているわけで、今回屋敷の中であれこれと出入りがあったとき、いちどは「もういいかげんにしてよ!」とばかりに実家に帰るのだけれども、けっきょくは「もういいわよ」って感じで戻って来るし、リプリーも「エロイーズなら話して大丈夫だろう」と今回マーチソンを殺したことは告白し、警察への証言での「協力」を求めるのだ。まあ、リプリーにいわせれば、「このエロイーズだってどこまでカタギなんだかわかったもんじゃない」ということになり、いいカップルなのだ。

 もうひとつ興味深いのは、やはり「自殺願望」を抱くバーナードの内面描写についてで、ここにいっぱしの「画家」であろうとした人物がいってみれば「アルバイト的に」手を染めてしまった「贋作制作」が彼のメインになってしまい、自分ではない「他者」の作品というものを描きつづけ、そのことで高い評価を受けてしまうアイロニーというか、バーナードからしてみれば「アイデンティティーの崩壊」であるだろうことは、わたしなど読者にも容易に了解できるわけで、ここにこの作品の一種「普遍性」というか、奥深さがあるようには思う。

 ただ、前作『太陽がいっぱい』に引きつづいてのリプリーの「他人への変装」っつうのは、「そりゃあバレるだろう」みたいには思うし、ちょっとリアリティということでは「いかがなものだろう?」という気がしないでもない。しかしハイスミスには「これは『太陽がいっぱい』の続篇なのだから」という意識も強いようだし、もちろん、ルネ・クレマンの映画化した『太陽がいっぱい』を見た上での描写もあると思う。かなり早い段階のセリフで「太陽がいっぱいだ」というのもあったと思うし、そもそも、ラストの「電話に出るかどうか?」と躊躇するシーン、映画『太陽がいっぱい』のラストでアラン・ドロン扮するリプリーが、警察の罠の「電話」に出ようとする場面を思い出したりするし、この「電話」シーンで、リプリーはまた「完全犯罪」を成就するのか、それとも映画版『太陽がいっぱい』のように奈落へ落ち込むのかの「分かれ目」という感じでもあり、ハイスミスのそのあたりの「意識」を、垣間見ることが出来る気もするのだった。