ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-12-09(Mon)

 今朝はめっちゃ寒かった。夜中に目が覚めてふとんから外に出ると、その寒さに「うへ~!」っと、声が出そうになった。昼間のテレビでも「今朝は今季いちばんの冷え込み」だったと言っていた。でも、カレンダーはまだまだ12月の初旬。「これからもっともっと寒くなるんだぞ」と考えるとゾッとする。今年はいつまでも暑い日々がつづいたもので、寒さへの耐性が落ちてしまったのか、とも思う。

 昼間になってキッチンのお米のストックをみるともうあまり残っていなくって、「近々買わなくっちゃならないな」と思い、やはり先日スーパーで5キロ2600円ぐらいで売られていたときに買えばよかったかな、などと思ってしまう。その後やはりお米の価格は元の高値に戻ってしまい、今は安くっても2900円ぐらい、とかだったりするのだ。
 以前は2800円のお米も置かれていた駅前のスーパーも、最近は2980円のがいちばん安いということになってっしまった。北のスーパーで待っていればまた特売される日もあるだろうと思ったが、ちょっと待て。考えてみたらわたしは今、スーパーのとなりのドラッグストアの「1品だけ15パーセント値引き券」を持っているのだった。そのドラッグストアでも、お米は安いのなら3280円とかで売られているはず。そいつから15パーセント値引きされたら2800円以下になるではないか。消費税を入れても3000円ぐらいだ。せっかくの割引券、こういうちょっと値が張るものに使ってこそ効果があるのではないか。今ごろ気がついたよ。

 ‥‥ということで、午後から「お米」を買いに出かけたのだった。この日のスーパーでいちばん安いお米は2980円、だった。それでドラッグストアへ行ってみると、「コシヒカリ」が1袋3280円で残っていたのだった。こいつを買うことに決定。割引券と共にレジに出すと、目論見通りに、税込みで3010円なのだった。
 まあ2600円のお米には負けるが、「どうせあっちは標準米。こっちは銘柄米の「コシヒカリ」だぜ~」とか、ブランド意識丸出しに考えるのだった。ま、これで正月のお米もだいじょうぶだ。

 スーパーへの道の途中で、どこかのウチの庭の柿の木の枝に、1個だけ柿の実が残ってぶら下がっていた。その実のとなりには皮だけになってぶら下がっている「実の痕跡」が見える。そっちはきっと野鳥がついばんで食べてしまったのではないかと思うのだけれども、残っている実には鳥がついばんだ跡もないようだ。どうしたのか。この実は味が悪くって、食べようとした鳥も「これは不味いからいらない」と放棄したのだろうかね。

     

 今日は、シリアのアサド独裁政権が崩壊して、アサド大統領一族はロシアへ逃亡したというニュースにおどろいた。
 こういう長くつづいた独裁体制が倒されるのには長い内戦状態がつづいてのことではないかと思っていただけに、最近のニュースでもシリア関係のニュースはそんなに流れてなかったと思うので、「いきなり」という感じだ。
 今日のニュースでは、親アサド政権だったロシアにとっても、「ロシアから地中海」へのルートが消滅したということで痛手だろうということ。そうか、なるほどねえ。
 しかしアサド政権がつぶれたとはいっても、これからのシリアも大変だろうな。いろんな派閥が入り乱れている感があるし。
 もうひとつ興味深いニュースがあって、ルーマニア憲法裁判所が先日、先月末に行われた大統領選挙の第1回投票を「無効」との判断を下し、8日に予定されていた「決戦投票」も中止されたということ。
 この理由は「特定候補がSNSで特別な扱いを受けた」ということにあり、その背後にはまたもロシアの影がチラチラしているようで、それまでほぼ無名だったジョルジェスクという右翼の候補者(彼はロシアを支持している)がトップに立ったのだが、これは「外国国家」によって作成された約800件のTikTokアカウントが先月、突然フル稼働し、ジョルジェスク氏を支持したのだということ。
 つまりここでも「選挙」と「SNS」との関係が取り沙汰されているわけで、今の日本でも「兵庫県知事選挙」で大きな問題になっていること。
 このことに関してわたしはしばらく「社会の分断をあおるSNS」とSNSを批判しているけれども、どんどんこの流れは世界中で拡がっている感がある。
 今の日本ではそんな「SNS」などと比してテレビネットのニュースなどの情報を「オールドメディア」と批判する動きが活発化している。わたしはそういう「オールドメディア」を批判する動きは否定はしないけれども、前にも書いたけれども、その代わりに信用するのが「SNS」かよ、というのはじつに情けない話だとは思う。
 「オールドメディア」を批判してもいいけれども、そんな「オールドメディア」より遥かに「オールド」な「基本図書」を読むべきだろう、とは思う。そんな「オールド」な世界を「化石」にしてはいけないと思うのだ。
 

2024-12-08(Sun)

 「昨日観た映画は心に残るいい映画だったな」と思うのだけれども、それで元気になるわけではなく、どうも逆に、朝からダウナーな気分に陥ってしまった(映画のせいかどうかはわからないけれども)。
 午前中からただダラダラと無為に時を過ごし、「ダメだなあ、どうしょうもないな」などとは思っていた。なんとか気分を変えたいと、午後から東のショッピングプラザに買い物に出かけることにした。そのスーパーにある100円ショップで買いたいものもあったし、やはりダウナーなときは歩くのがいちばん。

 外に出ると今日も相変わらずのいい天気で、空の青がまぶしい。それでもこの日は、まさに「綿菓子」みたいな白い雲がけっこういくつもプカプカと浮かんでいて、想像力をかき立ててくれる感じ。

     

 ショッピングプラザへ着き、まずは3階の100円ショップへ行って、買いたかったものをゲット。これで今日の買い物の目的は果たしたようなものだけれども、その100円ショップのとなりにはこの地域唯一の本屋さんがあるので、昨日につづいて「書店探索」。
 おや、「ちくま文庫」のコーナーに、つげ義春の文庫(「つげ義春コレクション」の、「ねじ式」の巻)が置かれていた。「『雨の中の慾情』映画化!」の帯が巻かれていて、『雨の中の慾情』の公開に合わせて筑摩書房もがんばっちゃったようだ。
 昨日観た映画の素材になった「雨の中の慾情」と「夏の思いで」とが収録されていて、その他の収録作品も気になったので、いっしゅんだけ「買おうかな」と思ったが、とりあえずその2作を立ち読みしただけになった。ケチ!
 「雨の中の慾情」は映画と同じ展開だけれども原作にはまだつづきがあって、登場した男女はやって来たバスにいっしょに乗るのだ。そして雨のやんだ空には虹がかかっている、というラスト(コレは映画のラストにもエコーがかかっていたのではないか、などと思う)。
 もうひとつ、「夏の思いで」も読んだけれども、これは主人公が自分の目の前で車にはね飛ばされて田んぼに倒れてしまった若い女性のところに駆け寄り、彼女が気絶していることをいいことにミニスカートの彼女のパンティをずり下ろしちゃうという話。このあとに「ひき逃げ事件」として捜査が始まり、「自分が疑われる」と思った主人公がそのとき履いていた靴を処分したり、むかし警察署からもらった表彰状を必死で探すというのは昨日の映画と同じ。これもつづきがあって、主人公が歩いていると日傘をさして片手を包帯で吊った女性とすれ違い、「懐かしいな」というのだったかな? 読んでいるうちに、「あー、コレは読んだことがあるな」と思い出したのだった。「雨の中の慾情」の方はまるで思い出せなかったが。

 さて、探しているハヤカワ文庫の『国家はなぜ衰退するのか』があるかどうか、いちおう見てみたのだけれども、これが見事に置かれていたのだった。「ようやく重版されたか」と奥付けを見てみると「十一月二十五日」に重版されていたようで、多分昨日行った「紀伊国屋書店」では、入荷はしたものの早くも売れてしまっていたのではなかろうか。ま、こういう田舎(?)の書店だからこそ、まだ残っていたのかもしれない。
 「買いたい」と思っていた本だからレジへ持って行ったけれども、上下巻で3080円。う~ん、ちょっと痛いなあ。
 レジで「Tポイントカード」(今は「Vポイントカード」だな)が使えるというので提示したのだが、あとでレシートをみてみると14ポイント付加されていた。むむ、税抜き2800円買って14ポイント。0.5パーセントかよ! 1パーセントのポイントが付くAmazonにさえ負けてるじゃないかよ。ケチくさいなあ。まあ文句を言ってもしょーがないが。
 とにかくは「欲しい、欲しい」と思っていた本を入手できたのだからうれしい。書店で「新刊書」を買うのなんて、3~4年ぶりではないかと思う。

     

 今はトマス・ハーディの『月下の惨劇』というのを読んでいる途中なので、読み始めるのはそっちを読み終えてからになる。
 しかしそのトマス・ハーディ、意外とひとくせもふたくせもあって、さすがに「文豪」というか、奥深いのだ。読み終えたら感想を書くけれども、とっても面白い。

 帰宅してから「つげ義春の作品」についてあれこれ検索していたら、昔出ていた『隣の女』という作品集を見つけ、その作品集にはちょっと読みたいと思った「池袋百点会」も収録されていたし、それ以外の作品がまるで知らない作品だったことにも惹かれ、送料とも500円でお釣りが来る価格だったもので、つい注文してしまった。こんな小さなことの積み重ねでも、わたしの貧困の度合いは加速して行くのだ。

 夕方からは『世界遺産』、そしてニュースを見てから『ダーウィンが来た!』。
 『世界遺産』はハンガリースロバキアにまたがる、ヨーロッパ最大の鍾乳洞の特集。そして『ダーウィンが来た!』は「日本産ウーパールーパーを探せ」は、北海道に棲息していた「幼形成熟」をしたエゾサンショウウオ発見記。どちらも興味深くも面白かった。そのあと9時から、『日曜美術館』で「ルイーズ・ブルジョワ展」の特集を見た。ルイーズ・ブルジョワのことは何も知らなかったので、「そうだったのか」という驚きが強かった。やはり「ルイーズ・ブルジョワ展」を観に行こう。
 

『雨の中の慾情』(2024) つげ義春:原作 片山慎三:脚本・監督

  

 つげ義春はわたしの若い頃から大ファンだった漫画家(作家)で、その作品はだいたいすべて読んでいるはずなのだけれども、わたしの記憶障害のこともあり、今ではほとんど思い出せないでいる。「ねじ式」あたりまでの作品だったらある程度記憶しているところもあるけれども、それ以降はもう思い出せない。
 この映画は「雨の中の慾情」だけでなく、「夏の思いで」「池袋百点会」「隣りの女」なども盛り込まれているということで、もうだいたい、つげ義春のそのあたりの作品は何も思い出せない。そういう意味では「先入観なしに」この映画を観られるということで、わたしはけっこう「いい観客」だったかもしれない。っつうか、そういう作品の要素を映画の中に取り入れてあっても、だから映画としてどうのこうのというものでもなく、あくまでも「つげ義春の作品」は、ひとつの「契機」なのではではないかと思う。
 ただ、映画で冒頭に持って来られている「雨の中の慾情」からの展開はその後のストーリーからは独立しているのだけれども、この映画の主人公の以後の「行動原理」みたいなものを提示している感じで、優れた導入部になっていたと思う(以後のこの作品に通底する「異様なコミカルさ」もあったし)。

 これはいちおう主人公の義男(成田凌)の一人称映画ではあって、彼が福子(中村映里子)という女性を思う気もちがずっと継続している。福子は義男が知り合った自称小説家の井守(森田剛)の愛人のようなのだが、その井守と福子は義男の家に転がり込んできて3人での共同生活になり、そんな中で義男は福子と関係を持つことになるのだ。この3人に、義男の家主のオヤジ(竹中直人)も加わっての不穏な展開は「現(うつつ)」の世界での話だろうが、これがいともかんたんに(別に眠っていなくっても)、場面転換と共に「夢」の世界へと移行して行ってしまう、という感じ。
 あまりにいろいろな「夢」のシーンの場面展開があるので、わたしは早くもそれらひとつひとつを忘れかけているし、そのまますべてを書いても異様に文章が長くなるばかりだろう。

 映画を観る前から、この映画の撮影は台湾で行われたということだけは知っていたのだけれども、いくら台湾で撮影しても「日本的な風景」にはするだろうと思っていた。それが義男の住む町の情景が出てくるとどう見たってそれは「日本」ではなく、(台湾の風景を知っていれば「あ、台湾だ」と思ったのかもしれないが)どこか国籍不明の「東アジア地区」という空気である。じっさい、井守が義男の家からひとり「南に帰る」と言って飛び出て行き、義男が福子とオヤジとでその井守の「お城みたいだ」という家に向かうとき、とちゅうで「検問所」があって通行証がないと通り抜けられず、ここでは分断された「南北朝鮮」がモデルなのかと思ってしまう。そういうのでは「夢」の中で義男が一兵卒として戦場で戦うというまさに「夢」の場面は、「日中戦争」なのだろうか。
 また、義男が自分の家から出ると昼の光なのだけれども、そのまま歩いて角を曲がるとそこは町のアーケードの中というか、そこはすっかり夜の明るさになってしまうというのも面白く、頻出する、薄暗いアーケードに屋台が並ぶような背景、そしてやはり薄暗くも乱雑にちらかった義男の部屋(部屋の外には赤い照明がと、この映画の空間を実にユニークなものに仕立てていたと思う。

 わたしが惹き込まれたのは、唐突に始まる「戦闘シーン」の撮影で、実に長い距離を俳優といっしょに走るトラッキングショットにつづいて、そのままカメラは手持ちになって俳優を走りながら追いかけるショットとか。そのトラッキングショットの背景になる戦闘シーンも動的で迫力があり、このシーンはずっと目を奪われつづけたし、わたしは「これは『フルメタル・ジャケット』ではないか」と思う瞬間もあった。
 あと、わたしの大好きなシーンは、義男と福子とが「アマポーラ」をバックにふたりで踊るシーン。このシーンは忘れられないなあ。

 トータルに「夢から夢へ」というような「目くるめく世界」の連続で、見ていて翻弄される感覚もあったのだけれども、バックに「欲望に突き動かされる」心理、それと裏腹にある「恐怖の感覚」との意識が通底していると思えたし、ラストには(これも「夢」かもしれないが)すべてを未来につなげるような「ハッピーエンド」っぽいショットがあり、観ているわたしもカタルシスを得るのだった。

 たんじゅんにストーリーを追う映画ではなく、「映画ならではの表現」で成り立つ世界ではあって、「映画の可能性」ということを体験させてくれた作品ではあったと思う。スタッフ、キャストの皆さん、ありがとうございました。
 

2024-12-07(Sat)

 この日は映画を観に行くことにした。観る映画は、片山慎三という監督さんがつげ義春の作品にインスパイアされて撮ったという『雨の中の慾情』という作品。
 今は経済的にあまり余裕ないし、観に行こうかどうしようかと迷っていたけれども、多少「ま、いいか」ということもあったので、観に行くことにした。
 その作品を上映しているのは、となり駅から乗り換えてちょっと行った駅前にあるショッピングモールの中のシネコン。けっこうたいていの映画はこのシネコンで上映してくれるし、そうじゃないマイナーな映画はとなり駅のそばの映画館で上映されるので、よほどマイナーな映画でもなければ、この2館だけで観ることができる。ネットでも「ウチのあたりは映画を観るのに恵まれた地域」と書かれていたけれども、わたしもそのことは実感している。おかげでずっと、毎月のように映画を観に出かけているけれども、この2年半ほどは東京とかの映画館へ出かけたことはないのだ。

 この日観る予定の『雨の中の慾情』、知らない監督さんの映画だけれども、やはり「つげ義春」の作品からの映画だというと、観たくはなってしまうわけだし、調べるとけっこう注目すべき監督さんだと思ったわけだ。
 映画の上映が始まるのは朝の8時20分からと、めっちゃ早い時間だ。「それは早くにウチを出なければ」と、7時半よりも前に家を出た。今日は土曜日だからそれほどに電車は混んでいなかった。
 電車に乗って、乗り換えを含めて20分ぐらいで目的駅に到着。シネコンのあるショッピングモールへ行くが、まだ朝早いのでシネコン以外の店舗はまだまだ開店していないが、シネコンへの通路は開けられている。その通路のそばに、クリスマスツリーが飾られていた。もう2週間ちょっとでクリスマスだものね。商業施設としては、今クリスマスツリーを飾らなくってどうするんだ、というところだろう。わたしは今はクリスマスの時期に盛り場に出向くことも絶えてないので、こ~んなりっぱなクリスマスツリーを見るなんてずいぶん久しぶりのことに思える。

       

 時間はもう8時を過ぎていたので、チケットを買って上映スクリーンへ入る。観客は開映時でわたしを入れても6~7人だっただろうか。ま、土曜日の午前中から「欲情」なんたらという映画を観る人も、そりゃあ少ないだろう(これでも昨日までは1日に4回上映されるというヘビーローテーションだったのだけれども、今日からはこの、朝いちばんの回の1回だけになってしまったのだ)。
 映画はまさに「夢」の世界。そんな世界を、どこからが「夢」でどこまでが「現(うつつ)」かもわからぬまま突っ走る。突っ走る原理は「欲望」と「恐怖」なのだろうか。ラストが、そんな「悪夢」のなかに置きっぱなしにされるのなら、わたしもうなされていたことだろうが、ラストは「そんな世界からの脱出」を暗示しているようで、わたしも救われた。

       

 映画館を出て、下の階の「紀伊国屋書店」に立ち寄ってみた。そろそろ、買うつもりの『国家はなぜ衰退するのか』が重版されて置かれている時期かと思ったのだったが、まだ店頭には見当たらなかった。
 それで「何か新刊があるだろうか?」と「海外文学」のコーナーをみてみると、なんと、ヘルマン・ブロッホの『誘惑者』が出ていておどろいた。「新訳」かと思ったら、古井由吉の古い翻訳だった(これは定評あるヤツだからしょ~がないだろう)。わたしゃ昔、これは読んだよ。もうすっかり記憶に残っていないけれども、一部分だけ憶えている気がする。今でもブロッホの『夢遊の人々』はウチの本棚に並んでるよ。
 あと、棚にはホフマンの『牡猫ムルの人生観』の新訳も並んでいた。これも昔読んだけれども、とちゅうで挫折したのだったなあ。読んでみたい本だが。
 文庫本コーナーをみていると、ラブクラフトの「クトゥルー神話傑作選」というのもあって、刊行されたのは5年ぐらい前のようだけれども、わたしはぜんぜん知らなかった本だ。「読みたいな、買おうかな、どうしようか」と迷ったけれども、買わないで店を出たのだった。

 あとは1階のスーパーマーケットに立ち寄り、「今日のお昼はお弁当ね」と、美味しそうな弁当を買い、さっさと電車に乗って帰路に着いたのだった。
 自宅駅に着いて駅前の小さなスーパーに寄ってみたのだけれども、なんと、外側がボロボロになっていてみすぼらしいのだけれども、内側はぜんぜんOKよ、というキャベツがひと玉100円で売られていたのだった。このスーパーは農家からダイレクトに仕入れているから、他のスーパーでは店頭に並べないような「傷もの」とかでも激安で売られているのがうれしい。今はキャベツは「貴重品」。喜んで買って帰りましたよ。

 帰宅してニェネントくんに「ただいま~」とあいさつをして、買ったお弁当で昼食。いつもとちがう匂いに、ニェネントくんが「なに食べてるのよお~」と寄ってくる。おかずの「唐揚げ」を、ちょびっとだけ分けてあげるのだった。
 そのあとはこの日出かけて聴けなかった『ウィークエンドサンシャイン』と『世界の快適音楽セレクション』を、エアチェックしておいたUSBで聴くのだった。『世界の快適音楽セレクション』でかかる、わたしが生まれる前の古い音楽を聴いていると、この日観た『雨の中の慾情』のことがしっかりと思い出され、「思った以上にあの映画にインスパイアされていたんだなあ」と、あらためて思うのだった。あとから重たくのしかかってくる映画だったか。
 

2024-12-06(Fri)

 朝、わたしがリヴィングでパソコンに向かっているとニェネントくんがやってきて、わたしの近くにあるニェネントくんのトイレを覗きこんでいた。トイレ使うのかなと見ていると、トイレには入らずに、そばにいたわたしの顔をじっと見つめるのだった。それはまるで「トイレ汚いんだけど? あんた、ちゃんと掃除してるの?」とわたしに言っているみたいだった。
 「いやいや、ちゃんと掃除してますよ。ほうら、きれいじゃないの?」と思ったけれども、言われてみればちょびっと汚れていたかな。失礼いたしました~。
 ニェネントくんのトイレは2つ用意してあるので、ニェネントくんはもう片方のトイレに行ってしまった。

 今日は午前中に北のスーパーへ買い物に行き、いつものニェネントくんのネコ缶、そしてキッチンタオルペーパーなんかを買った。
 ウチはもうながいことティッシュは買わず、ずっと代わりにキッチンタオルを使っている。これはニェネントくんがゲロったりしたときの掃除に役に立つし、特にニェネントくんの朝ごはんのあとに一気食いしすぎて吐いてしまうときなど、ニェネントくんがからだを痙攣させて「おっ、もどしちゃうんだな」というとき、とっさにキッチンタオルをちぎってニェネントくんの口の下に拡げてやると、うまく間に合えば床を汚さずにキッチンタオルで受けることができるのだ。まあ間に合うのは3回に1回ぐらいのものだけれども。

 夕方になって日暮れどきにも、西のコンビニへちょっと買い物に出かけた。ちょうどほんとうに陽が沈もうとする時間で、西の空はオレンジ色に染まっていた。コンビニのちょっと先まで行くとそこから西側の土地は低くなっていて、見晴らしがよくなるので、日没の情景でも見ましょうかと少し歩いてみた。
 ‥‥やあ、このあたりからでもギリギリ、富士山のてっぺんが見られるのだな。てっぺんがちょっぴり見えるだけだから「富士山」とは気がつきにくいけれども、方角からしてもこれは富士山だろうと思う。
 太陽はそこから左の方に沈んでいくところだけれども、時期が合えば富士山のてっぺんに陽が沈むという情景も見られそうだ。

     

 わたしも少し左の方に行ってみて、ちょうど建て物のあいだに沈んで行こうとする太陽を撮影できた。

     

 この日はテレビを見ていると3時ごろに、中山美穂さんが亡くなられたという速報が入っておどろいて、いっしゅん「何かのまちがいじゃないのか」と思ってしまった。
 わたしは正直、そこまでに中山美穂さんのファンというわけではないけれども、近年の彼女は「成熟したゴージャスな美女」であられることよなあ、などとは思っていた。いい成熟のしかたをされた方、という感想だったのだが、まだ54歳。早逝も過ぎるだろう。
 それでネットをみていたら、中山美穂さんは前日に「Instagram」に投稿していて、それは彼女が森美術館で開催中の「ルイーズ・ブルジョワ展」を観に行っての彼女の撮った作品写真といっしょに「写真下手だけど、上手くてもなんにも表現できない」「2、3日心がえぐられた」と書かれていたという。
 これはホントに偶然なんだけれども、実はわたしは昨日、その中山さんの投稿を見ていたのだ。わたしはその投稿が中山美穂さんによる投稿だとは気づかなかったのだけれども、「写真下手だけど」と書かれていたのは記憶しているし、間違いないと思う。
 わたしは今「ルイーズ・ブルジョワ展」が開催されていることは知っていたけれども、その内容についてはまるで知らないでいた。
 それが彼女の投稿のおかげで、その展覧会のタイトルが「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」ということを知り、それは展示されている刺繍作品に綴られた「I have been to hell and back. And let me tell you, it was wonderful」というのから来ているのだとも知った。

      

 昨日の段階でその中山美穂さんの投稿を見たわたしは「そういう展覧会だったのか」と知り、俄然観に行きたくなってしまったのだった。森美術館の公式サイトをみて会期(1月19日まで)を知り、今は遠方への外出はできるだけ避けたいとの気分だったわけだけれども、森美術館のある「六本木」ならば、ウチから乗り換えなしに1本で行けるわけだから、何とか行ってみようと考えることになったのだった。

 妙に「意識過剰」なことを書くように思われるかもしれないけれども、わたしの意識としては、この「ルイーズ・ブルジョワ展」のことは、この日亡くなられた中山美穂さんに教えていただいたような気もちでいる。そして、「観に行きなさい!」と、背中を押されたようにも思う。
 ‥‥何としても観に行きたい。
 

2024-12-05(Thu)

 今までだいたい、毎週のように南の「ふるさと公園」へと歩いていたのだけれども、先週、南の方へ行ったときはニェネントくんを連れての動物病院行きだったから、「ふるさと公園」へは行かなかった。それでこの朝は、2週間ぶりぐらいに「ふるさと公園」に足を運んだのだった。
 今朝もこのところの毎日のように晴れ空で、そんなに寒い朝ではなかった。公園へと足を踏み入れたけれども、この朝はあまり木の上から野鳥の鳴き声も聴こえなかった。池をみても、水鳥の数もいつもより少なかった。コブハクチョウの家族も来ていなかった。

 この「デコイ」のような鳥はいっしゅんカルガモかな?と思ったけれども、顔が茶色で目のうしろが緑色っぽいので、コガモだと思う。つがいではなく、このコ1羽だけで泳いでいた。

     

 池の奥の葦原のかげにコサギがいたけれども、葦にかなり隠れてしまっていた。写真の左の方に見える黒いかたまりは、オオバンなのである。

     

 最近はいつもたくさん群れているそのオオバンも、この日はけっこう数が少なかった。写真はひとりぼっちで泳ぐオオバン。この日はみ~んなどこへ行ってしまったのだろう。
 もう12月にもなったし、そろそろユリカモメもやって来るだろうか。今年はいつまでも暖かかったから、やって来るのはもっと遅くなるかもしれないな。

     

 「ふるさと公園」を抜けて、またネコたちによく出会う祠に行ってみた。
 わたしの前から若い女の人がこちらに歩いてきて、「あれ? あの人はいつもココのネコをかわいがっている人じゃなかったかな?」と思ったら、わたしのちょっと先のところの祠の植え込みのなかへ入って行った。それで、どうやらそこでネコに出会ったみたいだった。
 ‥‥しまった、あと10秒遅れてしまったな。しょうがない。わたしは知らんぷりをして祠を通り過ぎ、ちょっと行ったところから振り返ってみた。どうやらこの日居たのはサビネコの「サビーネ」だったようだ。
 女の人が写らないように、「サビーネ」のうしろ姿だけでも撮ろうとしたのだが、「サビーネ」がしっぽをまっすぐ立てていたシャッターチャンスは逃してしまった。

     

 帰り道、駅の方へと回って駅前の小さなスーパーへ寄ってみた。バナナを買うためだったけれども、店頭にインスタントラーメンみたいな小袋に入った「スープパスタ」が78円で置いてあり、「どんなんだろう? 安いから買ってみよう」と買ったのだけれども、考えてみたら1袋78円というのはそ~んなに安いわけでもないか、などとあとで思うのだった。
 いつもの跨線橋でJRの線路を越えて帰路を歩んだけれども、この頃にはちょっと汗ばむ感じの陽気ではあった(単に重ね着しすぎていたせいかもしれないが)。

 帰宅して、この日の食事は昼食も夕食も昨日つくったクリームシチューですませる。むむ、クリームシチューというのは、つくってから時間をおくといささか「残飯」っぽくなってしまうな、などとは思うのだった。

 昨日の韓国の、尹大統領による「非常戒厳」発令のその後が気になったのだが、この日様々な記事を読むと、どうも尹大統領による単独の暴走で、政権運営が困難になったため「非常戒厳」発令して軍隊を出動させ、まずは野党国会議員を拘束しようとしたものらしい。それは乱暴だ。
 この動きに即座に市民、国会議員が行動し、市民は国会前に集まって兵士らに抗議、国会議員が国会内に入る手助けをしたという。これは去年韓国で公開されて大ヒットした映画『ソウルの春』の記憶も新しい時期に、まるで韓国がタイムスリップしようとしたかのような事態となり、「行動しなければ!」となったことがあるという。また、出動した兵士たちだって「何のための出動だ?」という疑念もあっただろうから、敢えて命令に忠実な行動に突進することもなかったのではないか。
 とにかくは今後、野党から尹大統領の弾劾訴追案が国会に提出され、与党からの賛同が出れば尹大統領は弾劾されることになる。
 ネットでいろいろな記事を読んだのだが、通して「何が起きたのか」ということをいちばんしっかりと追及していたのは、やはりイギリスのBBCの複数の記事だったと思う。日本の報道は「隣国のこと」だというのに目先の動きに振り回されていたというか、残念なところがあった。これではやはり「オールドメディア」と言われてしまうだろう。
 韓国の報道も読んでみようかと検索したのだが、これもBBCの方がストレートにわかりやすかった(少ししか読めなかったが)。
 それで今回の「非常戒厳」絡みの記事ではないのだが、「朝鮮日報」というところの11月の記事(コラム)で、「やはり李承晩は正しかった」などという記述を見つけ、「そうか、韓国の右派というのはこういう感じなのか」と納得したところがある。日本でいえば「安倍晋三路線が正しかったのだ」と語るようなものだ(韓国ではそれが60年前に典拠を求めるわけか)。やはり右派である尹大統領がコレと同じ考えだとはいわないが、近しいものがなかったとはもういえない。
 

2024-12-04(Wed)

 このところ毎夜、暗くなってからわたしが「もう寝よう」とベッドへ行くまでのあいだずっと、ニェネントくんはベッドのふとんの上、わたしの足元にあたるところで丸くなっていて、わたしがふとんに入るとちょうど足元のあたりがポカポカになっていていい具合である。
 わたしがベッドへ行こうとする姿をみると、ニェネントくんは「どうぞどうぞ、温めておきましたよ」って感じでベッドから跳び下りて、ベッドの下へ行ってしまう。それでもすぐにベッドの下から出てきて、わたしの上に跳び乗ってくるわけだ。
 寝ているときにそんなわたしの上のニェネントくんを写真に撮ってみたが、やはりどうも「性悪猫」という顔をしているのだ。まあ、かなりの「ツンデレ猫」なことは確かだけれども。

     

 今朝起きてニュースを見ると、韓国で尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が昨夜の10時半に「非常戒厳」を発令したということだった。「『戒厳令』かよ!」という感じでただ驚いた。それがどうやら深夜にもかかわらず国会議員らは議事堂に集まり、午前1時には出席した与野党議員190人全員の賛成で「『非常戒厳』の解除を求める動議」を採決し、それを受けて尹大統領は午前4時半に「国会の非常戒厳解除の要求を受け、戒厳部隊は撤収した」、「私は国会の要求を受け入れ、閣議を通じて非常戒厳を解除する」と発表したのだという。
 わたしがニュースを見たり読んだりしたのは朝の7時ぐらいのことで、まだその時点ではしゃんとした情報も得られていないようで「何が起こったのか」よくわからない。

 さいしょはクーデターの動きがあったのを「非常戒厳」の発令で抑え込もうとしたのかとも思ったが、どうもそうではなく、尹大統領が唐突にテレビ放送での演説で「非常戒厳」令を発したものらしい。大統領の「布告令」は「韓国の内部に暗躍している反国家勢力による体制転覆の脅威から、自由民主主義や国民の安全を守るため」とされ、「国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなどの一切の政治活動を禁じる」その他、という内容だったらしい。
 ちょっと理解できない。はたして韓国の状況はそんなに切迫していたものだったのか。

 そのうちにネットに写真も多く掲載されたBBCの報道の翻訳が流され、これが日本の報道よりも何よりもよくわかった。それを読むと、つまりは「尹錫悦大統領の勝手な暴走」だったということらしいのだ。
 もともと尹大統領の支持率も国内で低下していたことは伝え聞いていて、次の選挙は左派の「共に民主党」が勝つのだろうな、とは思っていたけれども、そんな状況を脱するために「非常戒厳」というメチャクチャな手段を取ろうとしたのか。
 ネット(「X」)で読んだ書き込みでは、この4日には国会で野党により「尹大統領不信任案」が提出され、それに勝てそうもないのでこ~んな手段に打って出たというのだが、こんな理由があるのならテレビやネットな「なぜこんな行動に出たのか?」といぶかしむ前にそのことを打ち出すだろうに、そういう報道がまるっきしなかったわけで、わたしはその「X」の書き込みは「フェイクニュース」というか、信用できないものだろうと判断した。

 まあ、どっちにせよこれで尹錫悦大統領もおしまいだろう。彼が大統領になってから韓国もそれまでの「反日」姿勢をくつがえして融和的な路線になっていたと思うし、バイデン大統領時代には「日米韓」共同路線も順調だったというのに。
 わたしは去年だったか尹大統領が訪米してバイデン大統領と会ったとき、ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」を歌ったわけで、「こりゃあすごいや」と思ったものだった。かつて小泉純一郎首相がブッシュ大統領に会ったときにプレスリーのモノマネをやったのなんかくらべものにならない。「アメリカン・パイ」という曲がアメリカ人にとって持っている意味も合わせてその曲を歌う尹大統領に、「大したものだ」との感想を持ったのに。
 けっきょく、来年にはアメリカの大統領がトランプ氏になるということも、尹大統領にはプレッシャーと感じられていたのだろうか(在韓米軍が撤去するとのうわさもある)。それで北朝鮮なんかはどんな反応をするんだろうか。石破首相には、まためんどくさい案件が持ち上がったものだ。
 まだ今の報道だけでは早まったことも書けないけれども、このあとの報道を待ちましょう。

 さてこの日のわたしは、夕食にホワイトシチューをつくろうと企んだ。冷凍庫の鶏肉も使いたかったし、冷蔵庫にながくしまわれたままのブロッコリーも、そろそろ寿命も近づいていたわけだ。
 わたしはホワイトシチューに市販のルーなどというものは使わない。小麦粉を使って少しとろみを出すだけ。ほんとうは白ワインを少し使うのがいいんだけれども、料理酒なんかを代わりに使った。
 ま、カレーをつくるときほどにはジックリと煮込むことはせず(それでも20分ぐらい)、ちゃっちゃっと完成。う~ん、今回は自分好みのいい味に仕上がった。成功であった。