ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『犬ヶ島』(2018) ウェス・アンダーソン:脚本・監督

 「ストップモーション・アニメーション映画」として、今月のはじめにテレビで放映されていた『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』と比べたくなるが、わたしは『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』をしっかりとマジメに観たわけではないので、わたしにはそういうちゃんとした比較はできないだろう。ただ、この『犬ヶ島』と『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』との双方が、「日本」を舞台にしているということは挙げられると思う。

 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』は中世の日本を舞台として、魔法の三味線をあやつる主人公の少年が冒険の旅をするというものだったと思うが、いわゆる「説話」、「冒険譚」として正統な展開だったようには思う。

 しかし、この『犬ヶ島』、「プロローグ」において「少年侍と首無し先祖」という昔の伝説が語られる。猫を愛でた「小林王朝」は犬たちを攻撃し、「ついに犬らも全滅か」というときに少年の侍があらわれて負け犬らの見方をし、小林王朝の頭の首を切り落とし、犬たちを絶滅から救ったというのであった。絶滅を免れた犬たちであったが、結果として小林家に服従し、多くは「ペット」として生きながらえたということなのだ。

 ここで物語は「今から20年後」の話になる。その「今」がいつの時代なのかわからないが、これはまちがいなく日本だろう。しかし見た感じでは「昭和」の時代のようにも見える(テレビは白黒のブラウン管テレビだし)。
 場所は「メガ崎市」という架空の都市で、そのとき犬が感染する「ドッグ病」が蔓延していた。市長は小林で、市内の犬たちをみんな「ごみ島」に隔離することを画策していて、まずは自分の養子であるアタリの飼い犬であり護衛犬であったスポッツを「ごみ島」に送り出す。以後も市内の犬たちはつぎつぎに島に隔離され、「ごみ島」は「犬ヶ島」となる。
 アタリは「もういちどスポットに会いたい」と、単身飛行機で「犬ヶ島」へ行くのであった。
 つまり、プロローグの「少年侍と首無し先祖」をなぞるように話は展開して行くのだ。
 アタリ少年は犬ヶ島で出会った5匹の犬の助けを借り、スポットを探そうとするわけだが、小林市長の派遣した部隊やロボット犬の妨害を受ける。一方のメガ崎市にも動きがあるのだった。

 一見「ディストピアSF」風でもあるし、ネガティヴな描写もグロい描写もある。「子どもといっしょに見たら楽しいだろうか」などと考えると、後悔することになるだろう。
 しかし作品全体が「小ネタ」の連続で、画面の細部にわたって「こんなものも出てくる」とかいうのもあるし、ウェス・アンダーソン映画らしい画面のつくりも堪能できる。「ストップモーション・アニメ」として、誰もが好きになるのは「寿司の調理」の場面とかだろうし、わたしは終盤の「腎臓手術」の場面も好きだ。あと、犬たちが土ぼこりを巻き上げながら乱闘するというマンガっぽい場面とかで、巻き上がる土ぼこりがモゾモゾ動く「白い綿」で表現されるのが気に入った。
 ウェス・アンダーソン監督はこの作品を撮るにあたって、黒澤明宮崎駿らの影響を語り、YouTubeで見た来日時のインタビューでは、三船敏郎志村喬香川京子らの名前も語っていた。
 確かに「サムライ映画」の影響はあるだろうし、わたしは『どですかでん』のことも思い浮かべたし、「メガ崎市」など、随所に『千と千尋の神隠し』の湯屋みたいなところもあっただろう。だいたいこの「カタキ役」の小林市長とその執事とかの存在にはどこか「ヤクザ映画」っぽいところも感じられる。小林市長が政敵を毒殺し、インチキ選挙で圧倒的な支持を集めて再選されようとする場面など、まるっきし今げんざいのロシアのプーチンのやってることと同じで笑ってしまったが。

 ネットで読んだ範囲で、この作品への批判はいろいろとあるわけで、特に多い批判は、「日本人キャラクターが日本語をしゃべり、(海外では)英語字幕も付かなかった」ということにあるらしい。
 これは日本でこの作品を観て、「英語」に対しては「日本語字幕」が付くということが「あたりまえ」に思っているとわかりにくいことかもしれない。しかし、「それゆえに」か、ウェス・アンダーソン監督は日本語のセリフを短くし、非日本語圏の人が聴いても「なんとなくわかる」というところにとどめていると思う。これはもう一つの大きな批判、「アメリカから日本への交換留学生」のトレイシー・ウォーカーが「ホワイト・ウォッシング」ではないのかという批判ともつながるのだろう。この批判はわたしもわからないでもないけれども、けっきょく英語圏の観客のため、この「セリフの多い」役が英語をしゃべらないというのは、興行的にも難しかったのだろうか。
 この映画全体が、そういう「非英語」を、どう英語圏に伝えるか、という問題もはらんでいるわけで、フランシス・マクドーマンドが声をやる「通訳ニュース記者」の存在をどう考えるか、ということでもある。
 「犬たちがみ~んな英語をしゃべっているではないか」という「英語至上主義」については、そもそも本来、犬たちは「犬語」をしゃべっているわけで、「それをどうするか?」という問題なわけで、「じゃあどうするか?」ということになるだろう。少なくとも、この作品は「アメリカ映画」なのだ。

 もうひとつ、英語版Wikipediaに面白い記述が載っていて、それは去年亡くなられた日本の著名なミュージシャンの語られたことだというが、「I think it's a well-crafted movie. Its aesthetic is so perfect, I think. People could enjoy that. But as a Japanese, you know, to me, it's kind of the same thing again. Old Hollywood movies, they always used their mixed image of Japanese or Chinese or Korean or Vietnamese. It's a wrong stereotypical image of Asian people. So I cannot take it.(昔のハリウッド映画では、いつも日本人、中国人、韓国人、ベトナム人の混合イメージが使われていました。それはアジア人に対する間違ったステレオタイプのイメージです。だから私は受け入れられません)」と語られたという。
 ではだからわたしは言うが、今のハリウッドでは日本人はあたかも「名誉白人」として、中国人や韓国人、ベトナム人とは差異化して描かれなくってはいけないとでもいうのか。ロシア人とイギリス人との見分けもつかないで映画を観ているのが日本人ではないのか。わたしはこの作品で描かれる「日本人」は、特に戦中戦後、昭和時代の「日本人」像として納得の行くものだと思ったし、こういうところで普段「リベラル」なような顔をして、「日本人=名誉白人」のようなことを語る、「超反動的」「真実は保守派である」人物こそ、排除されなければならないとは思ったりするのだ(もうこの方はこの世にいないからいいのだが、わたしの大っ嫌いな方ではあった)。

 あと、ラストのクレジットを見ていて、(どこで使われていたのかわからないけれども)1960年代のカルトバンド、「West Coast Pop Art Experimental Band」の曲が使われていたらしいのには驚いてしまった。ウェス・アンダーソン、やはりタダモノではないのだ。
 

2024-03-18(Mon)

 また新しい週が始まる。天気予報の言っていた通りに、昨日よりはずっと寒い朝だった。
 昨夜はわたしが寝るときからニェネントくんはわたしのそばでわたしと並んで寝てくれて、朝目覚めたときもわたしの上にいるのだった。わたしが寝てしまっているときに何をしているのか知らないけれども、「これから寝るよ」というとき、そして「目が覚めたよ」というときにわたしのそばにいてくれるのはうれしい。

 今日は天気はいいのだけれども、風が強い日になるということだった。いつもの月曜日のように「ふるさと公園」へと歩いたけれども、たしかに風はいくらか強いとはいえ、そこまでの「強風」というのでもなかった気がする(夕方にテレビで見た報道では各地で相当な強風が吹き、ブロック塀が風で倒れたり、トラックがひっくり返ったりしていたようだ)。
 この日の「ふるさと公園」は、先週1羽残っていたユリカモメの姿も見えなくなったし、コブハクチョウも来ていなくって、わたしが目にした鳥の種類は少なかったか。ムクドリオオバン、ドバトの姿が目立ったが、1羽のコサギが来ていたし、先週は数も少なかったカモたち、コガモカルガモらのカップルの姿が多く見られた。

     

     

     

 今日は芝生でドバトたちにエサをあげている人もいなかったので、わたしが芝生に足を踏み入れると、いっせいにドバトたちがわたしのうしろに集まってくるのだった。わたしへの「食べるものをちょうだいよ!」というプレッシャーが強いのだ。

     

 「ふるさと公園」からの帰り道、近くの道沿いにあるどうぶつ病院に立ち寄り、先週電話で注文してあった、ニェネントくん用のキャットフード(カリカリ)を買って帰った。
 以前、そのどうぶつ病院のお勧めで買ったキャットフードだけれども、あきらかにニェネントくんには「めっちゃおいしい」キャットフードらしく、毎朝、朝食に出してあげるときのニェネントくんの反応が、それまでとまるで違うのだ。もうニャンニャンないて「早くちょうだいよ」と催促する。それまで買っていたキャットフードの倍以上の価格なのだけれども、こんだけ反応が違うとやめることはできなくなる。いろいろと栄養値もいいのだろうし。

 この日もまた、駅前の小スーパーに立ち寄って、生麺のラーメンとかを買ってから帰路に着いた。
 帰りはいつもの「野良ネコ通り」を歩かず、ひとつ南側の道を歩いてみたが、歩き始めてすぐに、わたしの目の前50メートルぐらいのところを1匹のネコが道を横断するのが見られた。「今はこっちの道の方がネコも多いのかな。これからはこっちの道を歩こうか」などと思った。
 そのあと渡る跨線橋の風がこわかったが、被っているキャップを手で押さえ、何とか渡り切って帰宅した。

 午後からもういちど、ウェス・アンダーソンの『犬ヶ島』を観て、そのあとは今日から始まった「センバツ高校野球」をチラチラ見たりした。この日の試合はどれも、「手に汗握る」接戦、好ゲームだったみたい。
 高校野球も面白そうだけれども、ぜんぶしっかりと見ているとすっごい時間がかかってしまうのが難。
 その点、秒単位で勝負の決まる「大相撲」は、頭のわるい持続反応力のないわたし向きの競技だ。今場所は平幕の尊富士とか大の里の活躍が目立っているけれども、ここは優勝は貴景勝だろう、とか大胆な予想をしてみたい(別に貴景勝のファンではない)。この日、大関の豊昇龍にあっという間に勝ってしまった翠富士、そのインタビューはかわいかった。

 寝る前はパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を読み進めたが、今のところ、これはハイスミス作品でも「傑作」という展開だ。まさにじっさいに「あり得る」展開だし、ヴェンダースがこの作品を映画化しようとした気もちもわかる気がする(まあ、このあとどんな展開になるのかわかっていないで書いてるが)。
 

2024-03-17(Sun)

 今朝もまた、目覚めるとニェネントくんがわたしの胸の上で寝ていた。夜にわたしがベッドに行くときには、ベッドの外側、わたしの足元の段ボール箱の中で丸くなっているのだけれども、夜中のうちに、寝ているわたしの上に移動して来るのだ。

     

 成長をつづけている「猫草」、もう15センチを超える背丈にもなってきたし、そろそろニェネントくんにも「食べごろ」にもなったかと、ニェネントくんの食事トレイのそばに置いてあげた。
 ところがニェネントくん、猫草には見向きもせずに、まさに「ネコまたぎ」状態なのである。せっかく育てたのに、これはショックだ。やはり葉の先端がいちど枯れかけて茶色くなってしまっていることが、食欲をそそらないのだろうか。
 そのうち気が向いて食べることもあるかもしれないので、しばらく食事トレイのそばに置いておこうと思う。

 今日も気温の高い日になった。部屋にいてもセーターなしで過ごした。でも予報では明日からはまた気温が下がり、最高気温も今日よりも7~8度も低くなってしまうという。しばらくはそんな気温がつづくらしいので、桜の花の開花も少し遅れるのだろうか(たいていの開花予想では、21日だと予想しているようだが)。

 日曜日の朝はいつもとテレビの番組も異なるので調子が狂うのだが、毎日曜日、7時45分からは「さわやか自然百景」だ。この日は奄美群島沖永良部島周辺の冬の海。北の海から子連れのザトウクジラがやって来て、まだ産まれて間もない子どものザトウクジラが、お母さんクジラの周りで泳いだりする珍しい映像。産まれて間もないといっても、もう体長は3メートルを超えるのだ。
 もっとゆっくりと観たかったが、わずか15分の番組なので、そんな貴重な映像もあっという間に終わってしまう。取材ではもっともっと長時間撮影していることだろうに。

 日曜日で先週のまとめのニュース番組がつづくのだけれども、国会は参議院予算委員会で、自民党の「裏金事件」への追及がつづいている(もう「裏金問題」ではなく、「裏金事件」と、その呼称の重要度がランクアップしている)。共産党の小池議員が森元首相らの追加聴取を要求し、岸田首相も「森元首相も含めて検討する」との答弁だった。ここまで言っておいて、「やっぱりやらない」とはならないのではないかと思うが。

 ガザ地区の人道状況はさらに悪化していて、ユニセフは現段階で2歳未満の子どもの3人に1人が栄養失調の状態にあるとしているし、ガザ地区の支援物資配給所をイスラエル軍空爆したという。こんな酷い話は聞いたことがない。ネタニヤフ首相は、子どもたちや一般市民も殺戮すればまぎれてハマスも多少は倒すことが出来るとでも考えているのだろうか。

 あとのニュースは、アメリカのアカデミー賞で日本映画が受賞した話だとか、大リーグの日本人選手が結婚したとかのニュースばっかりで、もう見る気も起きないのだ。「買い物にでも行こう」とテレビを消して出かけるのだった。
 それでもって今日もまた、「豚なんこつ」を買ってしまったのだった。いったいどんだけ買えば気が済むのか、これでトータル9袋も買ってしまったのだ。コラーゲンをたくさん摂取して若返ろう!

       

 昼からは、ウェス・アンダーソン監督のストップモーション・アニメーション映画、『犬ヶ島』を観るのだった。
 先日、別のストップモーション・アニメ映画のことを「ストップモーション・アニメの良さを理解していない」、「CGと変わらないじゃないか」と批判したのだったけれども、この『犬ヶ島』はまさに「ストップモーション・アニメーション映画」の良さを生かした、楽しい作品だった。ウェス・アンダーソンらしい「小ネタ」も盛り込まれ、何度も観たくなるような作品だった。
 面白かったこともあり、明日もう一度観てみようと思う。感想もそのあとに。

 夕方からはテレビの大相撲中継を見て、6時からは「世界遺産」、そして7時半からは「ダーウィンが来た!」を見るというのが、だいたいの日曜日の過ごし方だ。
 寝る前に本を読もうとしたのだが、睡魔に襲われてしまい、ほとんど読めないままに眠ってしまったのだった。
 

『ローマ帝国の滅亡』(1964) アンソニー・マン:監督

 この作品、前作『エル・シド』を撮っていたアンソニー・マンは、本屋の店頭でギボンの『ローマ帝国衰亡史』を見つけて買って読み、スペインに行ったときに製作のサミュエル・ブロンストンにこの本の映画化を売り込んだことから始まったらしい。
 って、原書でも全6巻ある大書をどう映画化するつもりだったのかと思うが、映画はその第1巻のさいしょのところ、マルクス・アウレリウスのローマ治世の時代から彼が暗殺され、息子のコンモドゥスが皇帝となり、そのコンドモゥスも死ぬまでの話。

 アンソニー・マンもプロデューサーのサミュエル・ブロンストンも、またチャールトン・ヘストンソフィア・ローレンの共演を考えていたらしいが、チャールトン・ヘストンフィリップ・ヨーダンの脚本が気に入らなかったらしく、同じサミュエル・ブロンストン製作の『北京の55日』の方に出演することになる。
 それでヘストンの代わりは『ベン・ハー』で彼と共演したスティーヴン・ボイドになり、映画のための架空の人物、ガイアス・リヴィウスを演じた。コンモドゥスは『サウンド・オブ・ミュージック』のクリストファー・プラマーマルクス・アウレリウスは『アラビアのロレンス』のアレック・ギネスが演じ、その『アラビアのロレンス』からはオマー・シャリフアンソニー・クエイルとかも出ている。あとは『ロリータ』のジェームズ・メイスンとかも出演。さすが「ハリウッド大作映画」の時代、出演者はたいていそ~んな「大作」に出演している。
 あ、ソフィア・ローレンはコンドモゥスの姉で、リヴィウスを愛するルシラを演じている。このルシラ、史実でもコンドモゥスを暗殺しようとして失敗するが、そのあとカプリ島に流されて亡くなったそうである。

 というわけで、あれこれと史実と異なってるところも多い。ラストにはいきなり、コンモドゥスが実はマルクス・アウレリウスの子ではなかったな~んて話が出てくるし、「歴史のお勉強のつもりで見てはいけません」という映画。ま、コンモドゥスが暴君だったことは事実だが。

 映画の前半、マルクス・アウレリウスが暗殺されてその葬儀になるまでの展開はけっこう地味で、「どうせウソなんだから、マルクス・アウレリウスの暗殺シーンなんかもっと派手にやっちゃえばいいのに」とか思ってしまう。

 しかしそのあと、コンモドゥスの即位の式典とかは絢爛豪華、「どんだけ力と金をこめてこのセット作ったんだ?」とか「エキストラいったいどれだけ集めたんだ?」とか「エキストラは隅から隅まで全員ローマ兵の服装してるのか?」とか、呆れかえって画面を見つめることになる。あとはローマ軍と反乱軍とのかなりごっつい戦闘シーンもあり、このあたりがこの映画の見せ場だろうか。
 室内の元老院の会議のシーンとかはなかなかに見せてくれて、会議場の真ん中で演説をぶつ長老を、カメラがゆっくりとその周囲を回りながら撮るのなんかはイイ感じだった。
 それから音楽はディミトリ・ティオムキンで、実に壮大な音楽を聴かせてくれる。

 ラストはコンモドゥスとガイアス・リヴィウスとが衆目の下、一対一の決闘となるのだけれども、近距離で撮影して隠しているとはいえ、2人の役者さんはそこまで剣術に巧みではないようだった(どんな役者さんでも剣術に巧みな人などそうはいないだろうが)。
 けっきょく、このラストでローマ帝国がすぐに崩壊するわけではないけれども、内部の腐敗が最終的には崩壊につながるということだった。

 それで観終わってみてこの映画、まさにいかにも当時の「ハリウッド大作映画」というところなのだけれども、精神的な「奥深さ」というものが描かれているとも思えず、つまりは「精神」に対する「物質」の勝利を示したモノなのだろうか。「名匠」と呼んでもいいアンソニー・マン監督も、この作品ではどこかで計算が狂ったのだろうか。残念なことだ。
 この作品、製作費に1600万ドルかけたらしいのだが(当時ではすっごい額だ)、興行収入は480万ドルにとどまり、結果として、製作のサミュエル・ブロンストンは破産してしまったらしい(前作『エル・シド』は製作費700万ドルから900万ドルだったのに対し、興行収入は2660万ドルもあったという~英語版Wikipediaによる~)。
 

2024-03-16(Sat)

 今朝も夜中に夢をみていた。今朝の夢も映画の夢で、詳しく書くと長くなるから要点を書くと、それはある家族の話なのだけれども、要するにその母親が息子と性的関係を持つようになってしまうのだ。夢はその関係をじっくりと捉えた映画についての夢で、わたしは夢の中で「それはミヒャエル・ハネケの『愛』という映画だろう」と思っている。現実にハネケには『愛、アムール』という映画はあるけれども、決してそういう内容の映画ではない。目覚めてからも「なんでそんな夢をみたのかなあ」と、いぶかしく思ってしまう夢だった。

 「観ようかな」と思っていた、ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』が今、となり駅の映画館で上映されているのだけれども、今はあんまり観に行きたいという気分でもなくなってしまった。それより、今日から上映の始まるフランス映画の『12日の殺人』という作品が観たい気分だ。先日観たフランス映画の『落下の解剖学』が面白かったし、同じフランス映画の「殺人事件」を扱った作品、観てみたいのだ。
 そのとなり駅の映画館では、再来週末からはヴィクトル・エリセ監督の『瞳をとじて』も上映されるのだが、いっしょに『ミツバチのささやき』も『エル・スール』も上映される。『エル・スール』は観たい。
 そして来月には、トーキング・ヘッズのライヴの傑作『STOP MAKING SENSE』もやってくれるのだ。まあそこまでに大きなスクリーンの映画館ではないけれども、やはり映画館のスクリーンでいちど観てみたい。

 遅くなったけれども、2月の支出の決算をやった。去年の12月、そして1月2月と、度を越さない安定した支出で「無問題」だと思う。

 この日は「春真っ盛り」みたいな天候で、気温も上がった。東京は20℃を軽く超えていたようで、このあたりも同じだったろう。午前中に北のスーパーへ買い物に出かけたが、少し薄着で家を出たつもりだったけど、帰りには汗ばんでしまった。
 しかし道の途中で出会ったスズメは、まだ冬仕様の「もっこり」体形ではあった。

     

 スーパーでは店の片隅に「ぷるるんトロうまなんこつ」というレトルト食品が置かれていて、「正価600円のところ160円」とかで売られていた。おいしそうなので一つ買って帰って、昼過ぎに食べてみたのだけれども、これがめっちゃ美味しくって、「わたし好みの味」だった。「正価600円ってほんとうだろうか?」とネットで調べていたらほんとうで、ネット通販のいちばん安いのでも400円近くした。別に賞味期限が迫っているわけでもなく、「これはぜったい、もっと買っておこう!」と、夕方からそれを買うためだけにまたスーパーへと行ったのだった。あまりに安いので「売り切れているかもな」とも思ったけれども、まだまだいっぱい残っていて、3つ買って帰った。もっと買ってしまっても良かったな。

 昨日半分だけ観ていたアンソニー・マン監督の『ローマ帝国の滅亡』、「もう観なくってもいいかな」とも思ったのだけれども、いちおう最後まで観てしまった。後半はハリウッドらしい豪華さも増していたが。
 これでアンソニー・マンの映画もサブスクで観られるものはおしまい。さあ、明日からは何を観ようか?

 大相撲は、テレビ放映されない十両の取組みで、ひいきの碧山も玉正鳳も今日で2勝5敗。幕下に陥落の危機もある。碧山は引退してしまう可能性もあるなあ。玉正鳳も若くはないし。
 幕内では、横綱照ノ富士もやはり今日から休場。今日まで幕内の全勝は、新入幕の尊富士という力士だけになってしまい、このところ新入幕の力士がいきなり活躍する、という流れがつづいている気がする。

 読んでいるパトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』は、ついにトム・リプリーも事件に絡みはじめて、とっても面白くなってきた。今のところ、「変装」などというこざかしい技を使っていないのもいい。まだようやく半分読んだところだけれども、これからははかどりそうだ。
 

2024-03-15(Fri)

 早朝、まだ外も暗い時間に目が覚めると、ニェネントくんがわたしの胸の上で、わたしにお尻を向けて丸くなっていた。

     

 そのとき、夢をみていたことを思い出したけれども、その夢は今でも少し憶えている。それは先日のアメリカでのアカデミー賞授賞式で、助演男優賞ロバート・ダウニー・Jrが受賞したとき、壇上に上がってプレゼンターの去年の助演男優賞受賞者、アジア系のキー・ホイ・クァンに目も合わせずにオスカー像を受け取って、「人種差別では?」と問題になった報道を、もういちどおさらいするような夢で、ただニュースを再現するような夢だった。
 わたしはその報道を見ていて、「ああ、たしかにロバート・ダウニー・Jrキー・ホイ・クァンを無視しているな」とは思っていたけれども、そこまでに「これはひどい」とかの感想を持っていたわけでもなかったので、こうやって夢でみたことにはちょっと驚いた。

 そのあとわたしはもういちど寝てしまい、そのときにまた別の夢をみていた。その夢でわたしは渋谷の映画館に映画を観に行こうとしていたので、前の夢の「続き」ともいえるのかもしれない。
 夢は夜で、わたしは地形的には渋谷の道玄坂にあたる場所を上の方から降りてきていて、駅に近いところにある映画館へ行こうとしている。しかしこの夢での道玄坂の街並みは現実とはまったく違っていて、現実には道玄坂の途中に映画館はない。
 そして、その夜の道玄坂通りにはひとっこひとりいなくって、車も走っていない。さらに道玄坂の下、スクランブル交差点の手前には道路を横断する大きなゲートがあって、そのゲートのシャッターが降りていて、渋谷駅の方には行けないのだった。
 映画館はそのゲートのちょっと手前にあったのだが、そこにたどり着く前に雨が降り始め(わたしはさいしょは「雪」かと思っている)、映画館に着く頃にはどしゃぶりになっていた。
 思っていたよりもずっと小さな映画館はまるで「名画座」という大きさで、1階にチケット売り場があって、上映するのは上の方の階のようだった。しかしチケット売り場は閉まっていて、映画館には入れない。
 そのチケット売り場のとなりに雑誌の置かれた棚があって、そこに「ぴあ」が置かれていた。「ぴあ」を見れば、どこで自分の観たいえいがをやっているかわかるだろうと、わたしは「ぴあ」を手にしたのだった。そんな夢。
 「ぴあ」とはまた懐かしいが、夢の中でもその表紙は記憶の通りに及川正道氏によるイラストだった。

 というわけで、この朝はわたしは2回つづけて夢をみたのだった。

 この日は暖かい一日になった。わたしは一歩も外に出なかったが、夕方には室内もずいぶんと暖かくなった。しかしわたしは精神的に不調で、何もする気にならない一日。
 ずっと観ているアンソニー・マンの映画も、さいごの一本『ローマ帝国の滅亡』を残すだけになり、これがまた3時間に及ぶ長編なもので、午前中から観始めたのだけれども、またまたエキストラや馬のたくさん出てくる「ハリウッド大作」。
 昨日観た『エル・シド』は、チャールトン・ヘストンソフィア・ローレンの主演二人を中心にドラマは盛り上がったけれども、この『ローマ帝国の滅亡』では前半の主役であるマルクス・アウレリウス役のアレック・ギネスは今にも死んでしまいそうだし、その娘のソフィア・ローレンもなすすべもなく見えるし、そのあとドラマを引っ張るべきリヴィウス役のスティーヴン・ボイドは、わたしにはまるで魅力のない俳優なのだ。
 午前中にマルクス・アウレリウスが死ぬところまで観て、「はたしてこの映画、最後まで観る価値があるだろうか?」と考えてしまった。それよりは今観ることができるウェス・アンダーソンの『犬ヶ島』を観たい気がする。

 午後はやる気もなくぼんやりと過ごし、「国会中継」を見てそのあとに「大相撲中継」。
 この日も大関の豊昇龍が負け、そのあとは横綱照ノ富士も土俵を割ってしまった。照ノ富士は立ち合いに力強さが感じられない。もう休場する可能性が高いかな。わたしも休場したいが。
 読書もはかどらないし、どこかで早急に気分を入れ替えないといけないと思う。
 

『エル・シド』(1961) アンソニー・マン:監督

 昨日観た『グレン・ミラー物語』(1954)からこの『エル・シド』までの数年間に、アンソニー・マンジェームズ・スチュアートとの西部劇やゲイリー・クーパー主演の『西部の人』など、10本の映画を撮っているのだけれども、どの作品も「Amazon Prime Video」で観ることが出来ないので、いきなりこの超大作である。
 この『エル・シド』の前、アンソニー・マンカーク・ダグラスが製作/主演の『スパルタカス』の監督に雇われ、1959年の初めには撮影も開始していたのだが、カーク・ダグラスアンソニー・マンの「会話よりも視覚を優先する」演出姿勢に疑問を持ち、彼を解雇したのであった。もちろん、このあとスタンリー・キューブリックが監督となるわけだが。
 このあと、アンソニー・マン叙事詩的西部劇の大作『シマロン』を撮るのだけれども、映画会社と考えが合わず、実はマンは途中降板している(作品はアンソニー・マンの監督作品とされているが)。

 それでアンソニー・マンはこの壮大な歴史ドラマ映画『エル・シド』の監督に雇われるわけだが、彼はこの映画のことを「スペイン西部劇だ」と言っていたらしい。
 主役の二人はチャールトン・ヘストンソフィア・ローレンに決まったが、チャールトン・ヘストンは前年に『ベン・ハー』に主演したばかりだったし、ソフィア・ローレンは当時最も出演料の高額な女優ではあった(アメリカ映画には、彼女はすでにけっこう出演していた)。当初はオーソン・ウェルズもオファーされていたらしいが、最終的に彼は外された。音楽は『ベン・ハー』も担当していたミクロス・ローザ
 撮影はほとんどがスペインでの屋外撮影で、最後の一ヶ月はローマのチネチッタ・スタジオで撮影されたという。70ミリ映画ではあるし、映画会社の入れ込み方がわかる気がする。アンソニー・マンも、「ヒット作を生む監督」と認められていたのだろう。

 この作品、プロデューサーのサミュエル・ブロンストンが当時の駐米スペイン大使に「スペインで映画撮影したら?」と勧められたことに始まるようだけれども、スペインのフランコ総統は自らをこの映画の主人公のロドリコに喩えており、ブロンストンはこの作品を撮ることで、そんなフランコ政権を支援したわけではある。
 なお、撮影の2日前になってソフィア・ローレンは脚本を読み、自分のセリフに不満を抱き、別の脚本家を呼び寄せて書き換えることになった。もともとこのロドリゴの物語はピエール・コルネイユの戯曲『ル・シッド』として著名でもあり、その『ル・シッド』のエッセンスを脚本に加えたらしい(アンソニー・マンの『秘密指令』で脚本に協力したフィリップ・ヨーダンも脚本を手伝った、という話もある)。

 物語は11世紀、ベン・ユーサフに率いられたムーア人の侵略に脅かされるスペイン。 若き勇将ロドリゴチャールトン・ヘストン)は、戦闘の末にムーア人大公らを捕らえるが、彼らを王に引き渡すことなく逃がす。これに恩を感じたムーア人らは、ロドリゴに「エル・シド」の称号を贈る。しかし、捕虜を逃がしたことでロドリゴは反逆者扱いされ、婚約者であるシメン(ソフィア・ローレン)の父親に侮蔑され、決闘の末彼を死に至らしめる。また王位継承の争いに巻き込まれて追放の身となる。婚約していながらも父親を殺され、いちどはロドリゴを憎んだシメンだけれども、ロドリゴの誠実さにふれて、行動を共にするのであった。

 この旅の途中でロドリゴはラザロに出会い、祝福を受けるが、いかにもこれは創作であろう。その先では少女に出会い、納屋に案内されて夜露をしのぐのだが、朝になって2人が戸を開けると、外には実に大ぜいの兵士らが待ち受けていて、ロドリゴエル・シドに従うことを誓うのだった。このシーンは撮影も素晴らしく、感動的だった。

 そしてその直後再びムーア人がスペインに攻め入り、スペイン滅亡の危機が訪れる。彼は祖国のために立ち上がり、バレンシアの地でムーア軍と闘うのである。

 とにかくこの作品、馬と人の物量作戦というか、ロケーションの規模に驚かされる。画面いっぱいに馬に乗る騎士、そして兵士が拡がっていて、カメラは横移動するのだけれども人も馬も画面から途切れることはない。「どんだけの人、どんだけの馬を集めたんだ」と呆れかえるが、これがまた壮大な戦いを繰り広げるのだ。矢は射られるし、投石器で炎に包まれた石(?)は飛んでくる。観ていても、そんな石が戦う人々の群れのど真ん中に落下するわけで、「あぶないやんか!」とハラハラしてしまう。あれでケガ人や馬のケガは出なかったのだろうか。
 クライマックスではムーア人のリーダーのベン・ユーサフが倒されて落馬し、何頭もの馬が駆け抜けるその馬の足元に転がるのだが、あれでよく馬に蹴っ飛ばされなかったものだと思ってしまう。
 今だったら当然、こういうシーンはCGとかVFX処理されるのだろうけれども、これがすべて「実写」なのだから恐れ入る。当時の「飛ぶ鳥をも落とす勢い」のハリウッドの力だろうか。
 かつての、フィルム・ノワールの頃のアンソニー・マンジェームズ・スチュアートと組んだ西部劇のアンソニー・マンの良さは希薄になった気もするけれども、もうこの時期、彼も「ハリウッドを代表する監督」の一人になった、ということなのだろう。

 ただ、「Amazon Prime Video」での配信、音楽などの「音」のボリュームに比べて、人の会話の音声が極端に小さく、「字幕」で観ているとはいえ、セリフが聴こえないと気色悪いのでテレビのボリュームを最大限に上げるが、それでもあんまり聞こえない。その代わり、音楽や物音になると異様なまでに大きな音になってしまい、「これはないよな~」と思ってしまったのだった。