ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『血と怒りの河』(1967) シルヴィオ・ナリッツァーノ:監督

 原題は「Blue」で、これは主人公(テレンス・スタンプ)の名まえでもある(映画ではメキシコ名として「アズール」と呼ばれるが、その意味は「ブルー」である。

 1960年代に入って、アメリカ映画の重要な一ジャンルであった「西部劇」は衰退の道を進み、海外(イタリアね!)では「マカロニ・ウエスタン」が勃興し、アメリカ国内ではもっとリアルな「現代」に目を向けた、いわゆる「アメリカン・ニューシネマ」というジャンルが抬頭しはじめる時代になる。
 この『血と怒りの河』の製作された1967年には、すでにイタリアではセルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』が公開されていたし、その『荒野の用心棒』に主演したクリント・イーストウッドは、翌1968年にはドン・シーゲル監督による『奴らを高く吊るせ!』に出演してアメリカでの活動を開始するし、「最後の西部劇」とも言われたサム・ペキンパー監督の『ワイルドバンチ』は1969年。「アメリカン・ニューシネマ」と西部劇の合体の『明日に向って撃て!』もまた、1969年の作品である。
 そんな時代(よりもちょっと早くつくられた)の「西部劇」がこの『血と怒りの河』。いちおう製作には若き日のアーウィン・ウィンクラーの名も見られ、「新しい時代の西部劇」を目指して撮られた映画ではないかと想像する。
 じっさい、この映画の監督のシルヴィオ・ナリッツァーノは主にイギリスで活動していたカナダ人監督で、もちろん主演のテレンス・スタンプもイギリス人であり、いちおう「アメリカ映画」とはいえ、先に書いたようにプロデューサーのアーウィン・ウィンクラーは、そういう「イギリス映画の血」をここで導入して、「新しい西部劇」をつくろうとしたのではないだろうか。

 さて、ストーリーはアメリカとメキシコとの国境の河川地域で展開し、メキシコ人らの盗賊集団が川を越えてアメリカ人らの居住地域に攻め入るという「闘争シーン」から始まる。どうもこのあたり、メキシコ的なアイコンが目につくことからも、やはり「マカロニ・ウェスタン」的な空気が漂う。
 主人公のアズールはそのメキシコ軍団の一員なのだが、彼はメキシコ軍団の首領格の男の「息子」扱いらしい。しかし彼の出自は実は「アメリカ人」であり、幼い頃に家族をメキシコ軍団に虐殺されたときに生き残り、その首領格に助けられて「息子同然に」育てられたらしい。
 アメリカ人居住区を襲うメキシコ人ら。首領格の実の息子がアメリカ人医師の家に押し入り、そこにいた娘を凌辱しようとするのだが、そのような行為を忌み嫌うアズールは自分の仲間を撃ち殺し、自分も重傷を負う。
 娘の「命の恩人」とされて介護され、以後アズールはその医師の下で暮らすようになり、いずれアメリカ人居住区の中でも彼のことは認知される(ただし、医師の娘を慕っていた若者はアズールをかんたんには認めないが)。

 時を経て、メキシコ軍団がアズールの前に姿を現し、首領は彼に「戻って来い!」というのだが、アズールはそれを拒む。首領は「では、そのうちにおまえらの居住区をまた襲うことになるだろう」と言うのであった。

 むむむ、冒頭のメキシコ軍団の攻撃シーンの演出が、グダグダではあろう。「これは見つづけるのはキツいな」とは思うのだが、そのうちにドラマ的展開になって持ち直す。まあどこか、あの『シェーン』の展開の大人版、というところはあるというか(もちろん、医師の娘とアズールは「いい関係」になるのであるが)。

 この作品のひとつのテーマは、「アメリカ人として生まれたが両親は殺され、メキシコ人強盗一族の首領に息子として育てられた男が、ふたたびアメリカ人家族に迎え入れられて、自分のアイデンティティーのゆらぎを感じる」ということにあるのではないかとは思うのだが、むむむ、もうそういうことはすべて、テレンス・スタンプの<魅力>に預けてしまうのだね(というのはわたしの「思い込み」か?)。もしくは、ここにはまさに「現代的」な問題である「国境紛争」ということを読み取ってもいいだろうとは思うのだが、そのあたりには「腰砕け」感はあっただろうか?
 ま、言ってしまえば、ただただ「テレンス・スタンプの<魅力>に酔いしれる映画なのだ」ということであろうか。いいではないか。そもそもが、「テレンス・スタンプ主演作」というのは、それだけで<貴重>なのだ。

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 原題の「Blue」とは、テレンス・スタンプの名の「アズール」の英訳であるだろうし、また、テレンス・スタンプの<青い瞳>の謂いでもあり、映画の中で記憶に残る「美しい青い空」のことでもあるだろう。
 意外と、テレンス・スタンプの30代までの出演映画作品というのは数少なく、そんな中でもこの「西部劇」、彼のヒロイックな姿を観ることのできる貴重な作品だとは言えると思う(演出の、ほのぼのとしたユーモア感覚もまた良い)。

 ところで、ラストの「河」のシーン、水面近くの撮影からぐんぐんとカメラが上昇し、今の時代ならばこんなのはドローンを使えば簡単なことだろうが、仮にヘリコプターでの撮影としても水面にヘリコプターからの波紋も見られず、「どうやって撮影したかね?」と、感心してしまうのだった。
 まあいろいろと言える作品だとは思うけれども、そこはやはり「テレンス・スタンプ!」ですべてを乗り切れる作品ではあるだろう。保存盤。また観よう。
 

2021-07-28(Wed)

 台風は東北の方へ向かっていて、もう関東への影響もなくなったみたい。早朝に外に出ると中天に月の姿が見えた。先週末には満月だったらしいのだけれども、もうけっこう欠けてしまった。

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 空はけっこう晴れているのだけれども、駅に近くなって空を見上げると、朝焼けで赤く染まった竜のような雲が、青空をバックにしてたなびいているのが見られた。

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 今日は「何かおいしいものを食べたいな」と、仕事の帰りにひとつ手前の駅で下車して、駅の近くのスーパーに立ち寄った。実はこの日は「土用の丑の日」で、スーパーの中ではあちらこちらで「うなぎ」ばかりを売っている。たしかに「うなぎ」は食べたいが、先日「うなぎ丼」を食べてけっこうおいしかったので、「今年のうなぎはもういいかな?」みたいな気分ではある。それよりも今日は「天ぷら」などを食べたい気分で、このスーパーは前から「天ぷらの盛り合わせ」がけっこう豪華な内容で値段も安いので、まずはその「天ぷら盛合せ」を買う。
 そして、メンヘラ猫から回復したニェネントくんを祝って「何かお魚を」ということで、「かつおのたたき」を買う。それと台風も北へ行ってしまってまた暑くなってしまい、ビールの美味しい時期でもあるので「缶ビール」などを。

 帰宅して、とにかくは缶ビールを開けて飲む。‥‥うまい。それで「かつおのたたき」をスライスして、ニェネントくんに出してあげる。ニェネントくん、喜べ!

 買った「天ぷら盛合せ」は夕食にとっておいて、昼食はちゃっちゃっとすませる。この午後は、昨日届いたDVD『血と怒りの河』を観た。アメリカではもう「西部劇」も下火になっていた時代の西部劇だけれども、それだけにステロタイプな「西部劇」から逃れようとするところがあり、面白く観ることができた。感想は別に。

 DVDを観終えてみると、東京でのCOVID-19新規感染者数がついに3千人を超えたという報道があった。前から予測されたこととはいえ、このところの「新規感染者」の増加は危機的。「重症患者」や「死亡者」は少ないではないかという意見もあるようだが、「まだまだ大丈夫」などと言っている余裕があるわけもない。また、<東京オリパラ>開催とこの「新規感染者数」の増加に相関関係はない、などという輩もおられるようだけれども、たとえ一人たりと、この<東京オリパラ>開催のせいでCOVID-19に感染した人がいるならば、その感染者にとっては「<東京オリパラ>のせいで感染した」ということではあろう。
 すでに明らかにそのような、「<東京オリパラ>のせいで感染した」とみなされる人たちは存在するわけで、スカ首相が何の考えもなく「安心・安全」な<東京オリパラ>というお題目は崩壊している。
 この事態に、スカ首相は「人流は減っているし、(<東京オリパラ>の中止は)ありません」と語ったといい、「オリンピック・パラリンピックはテレビで観戦していただきたい」と語ったのだった。
 ひとつ。このところ「人流(じんりゅう)」という言葉がさかんに語られるが、そんな「人流」などという言葉はない。単に「人の流れ」といえばいいわけだし、勝手に日本語をいじらないでいただきたいものだ。
 そして、そのような「人の流れ」はいったいどこで、どれだけ減っているのか。アバウトなことをいうのではなく、例えば渋谷なら渋谷で、「一ヶ月前に比して何パーセント人出は減少している」とか、検証可能なことばを語っていただきたいものだ。
 

2021-07-27(Tue)

 今朝も夢をみていて、これは先日みたランボーとファン・ゴッホの夢に似た夢で、ストーリーのある夢ではなく、「わたしが何かを思索している」というようなものであり、それは実はもうわたしは目覚めていて、ただ「夢うつつ」の状態で何かを考えている、思索しているだけなのではないか?というようなものだ。
 今回はマンフレッド・マン(Manfred Mann)という、60年代のビートルズの全盛期に人気のあったイギリスのビート・グループについての夢(わたしもけっこう好きなグループだった)。夢の中でわたしは、そのグループのあるあまり知られていない曲のことを考えていて、「今、この曲のことを人々に知らせたいな」などと思っている。夢の中ではわたしはその曲の曲名をはっきりと認識していて、「あとでYouTubeででも探してみよう」と思っていた。けっこうソフトでメロディアスな曲だったと思っているのだが、じっさいに目覚めると同時に、その曲名を思い出せなくなってしまっていた。
 あとになって、その「マンフレッド・マン」のことも調べてみたのだけれども、わたしが夢で思い浮かべていた、彼らのそんな「ソフトでメロディアスな曲」など存在はしないようだ。さすがに「夢」ではあった。

 台風が近づいている。朝は昨日のようにNHKをみようとしたら、4時からはニュースをやるというので「オリンピック関連の報道だとイヤだな」と思い、みるのをやめ、<チバテレビ>にした。あとで考えると、そのニュースというのは東北に近づいている台風に関してのニュースだったのかと思う。
 仕事に出るので家を出ると、久々に雨だった。さすがに台風の影響なのだろう。雨のいきおいはそこまで強くはなかったのだけれどもけっこう風があって、傘が上半身防御にしか役に立たない。駅に着くころにはすっかり腰から下が濡れてしまい、あとになって、バッグもかなり濡れてしまっていたことがわかった。

 仕事の終わるころには雨もとうにやんで青空がみえたけど、そこまでに暑いということもなかった。自宅駅からは「野良ネコ通り」を歩いたが、道路から外れた雑草だらけの空き地に、前に見たミケの姿があった。

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 こういう、手前に金網とかのあるところでの撮影は、わたしのカメラの「オートフォーカス」の苦手とするところで、どうしても手前の金網をチェックしてしまい、そっちにピントが合ってしまう。マニュアルでピントを合わせられればいいのだが、これができないのだな。残念である。

 道を進むと、今日は久しぶりにハナクロに出会えた。愛らしい姿をまた見ることができて、わたしもゴキゲンになる。

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 今日はもう一枚、跨線橋を渡ったところで、向かいのマンションのベランダにアゲハチョウが来ていたのを、う~んとズームを効かせて撮影できた。チョウの撮影はタイミングの問題とかあって、なかなかに撮れない。けっこうきれいに撮れたと思う。

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 チョウとかは、「あっ!チョウがいるな」と思ったら、いいシャッターチャンスが来るまでその場で待っていればいいのだけれども(鳥でも同じだけれども)、わたしもそこまで時間を割けないから、せいぜい2~30秒のうちにシャッターチャンスが来る幸運を祈るだけ。まあ「趣味」といえるものでもない、ただ「歩いていたら出会いましたよ」ということを求めているだけだから、そ~んなにマニアックないい写真が撮れるわけではない。そういうのでは、今日のこのアゲハチョウの写真は、うまく撮れた部類の一枚だ。

 帰宅して、夕方になると日曜日に注文したDVD『血と怒りの河』が早々と到着した。けっこう面白そうで、観るのが楽しみである。

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 「テレンス・スタンプ、いいよな~」とか思っていると、他のテレンス・スタンプが出演した映画も観たくなってしまう。そういうのでは、『世にも怪奇な物語』(のうちのフェリーニが演出した『悪魔の首飾り』)こそがテレンス・スタンプの最高峰なわけだけれども、これはウチの録画したDVDをチェックすればどこかにあるかもしれない。
 それからパゾリーニ監督の『テオレマ』。むむむ、これは今は廃盤で、Amazonでチェックしてもかなりの高値である。
 あともう一作、テレンス・スタンプ出演作で思い出すのは、トマス・ハーディー原作の『遥か群衆を離れて』である。こいつをチェックすると、そこまで高い価格でもなかったもので、ついつい注文してしまった。
 皆が<東京オリパラ>に夢中になっているとき、わたしは<テレンス・スタンプ>に夢中になるのである。

 それでこの日の夕方は、溝口健二監督の『歌麿をめぐる五人の女』という手持ちのDVDを観始めたのだが、まずひとつにはセリフが聞き取りづらくって、そして溝口監督らしいカッコいい画面もなかなか見られなくって、実は観ていてうとうとと眠ってしまったのだった。
 

2021-07-26(Mon)

 四連休も終わってしまい、また連休前のように朝の4時前に起きて、仕事に出る準備をする。ひとつ目覚めて思ったのは、「今までと同じようにテレビをつけて、オリンピックの報道をやっていたりしたらイヤだな」ということだった。‥‥改めて書いておくと、わたしは日本の医療体制をひっ迫させ、なお多くの飲食店などが休業~廃業に追い込まれている中で開催されている<東京オリパラ>には開催反対の立場であり、すでにオリンピックも開幕されてしまった今も、そんな「競技中継」を含めたテレビ報道はこれっぽっちも見たくはないのであります。じっさい<開会式>以来、わたしはネットでの報道の見出しは見ることもあるけれども、テレビでそんなオリンピック関連の放送はまったく見ていないのであります。また、今のNHKなどの<オリンピック報道>はまさに<国威高揚>のために機能し、先の戦争中の国粋主義を再来させようとするものとも思え、わたしは忌避するのであります。忌避するためには見ません。
 まあ先日発見した<チバテレビ>ならばぜったいにオリンピック関連のことなどやらないから、そこにチャンネルを合わせてみる。しかしこの時間の<チバテレビ>、そのチバテレビ本社屋上からの映像なのか、まだ電車も動いていない千葉駅のホーム(すでにホームの明かりはついている)を、ビルの上から映している映像が延々とつづいているだけなのだ。無音だし、何の動きもない。それではわざわざテレビをつけてみている意味もないではないか。
 「こんな早くからオリンピックの中継もやらないのではないか」とNHKをみると、ふだんいつもこの時間に放映しているイメージ映像と同じというか、「ヨーロッパ、トラムの旅」というのをやっていた。ただひたすら、ヨーロッパのどこかの街を走るトラムからの車窓映像をナレーションなしにずっと映すだけの番組で、わたしの好きな番組だ。「ここは平常運転でよかったよかった(トラムも平常運転である)」と、見つづける。
 4時15分に「ヨーロッパ、トラムの旅」が終わると、その次は「Deep Ocean」という、同じようなイメージ映像番組。こちらは「深海」である。素晴らしい。なんか、仕事へ行く準備とかやめて、ずっと見つづけていたい番組ばかりだ。
 ‥‥というわけにもいかないから、出勤時間になって仕事に出る(わたしの出勤時間になるとテレビの映像は愛くるしいワンコやネコちゃんの映像に切り替わり、それが「さあ、出かけよう!」との合図になるのだ)。やはり四連休のあとはかったるいというか、ヤル気もない。仕事をしていても「早く帰りたい」、そればかりだ。

 今日は帰りに「ふるさと公園」を通り抜けて帰ったが、この日もコブハクチョウの家族には出会えなかった。

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 帰宅して、いちおう「テレビ番組表」をチェックしてみるけれども、もうNHKは<NOHK>(日本オリンピック放送協会)だね~、って感じでオリンピック中継一色だし、民放だって中継やってるし、そうでなければ「報道バラエティ」の中でオリンピックをやるだろう。やはり<オリンピック禍>から逃れるには<チバテレビ>、もしくは<テレビ東京>しかないみたいだ。<テレビ東京>はハリウッド映画みたいなの放映していて、「オリンピック見ない人は見に来て下さい!」っていうような姿勢が気もちいいのだけれども、ちょっと見つづける余裕がないし、<テレビ東京>は完全に<東京オリンピック情報>をオミットしているわけでもない。ここはやはり、ちゃんと見てなくっても<チバテレビ>をつけっぱなしにする。「必殺!仕事人」などをやっておるのである。

 さてわたしは「これから歯科医をどうするか?」ということをまだ考えていて、今日は「仕事が終わったあとに勤め先の近くの歯科医に通うのはどうだろう?」と考え、そんな勤め先近辺の歯科医を検索してみた。
 近そうなところが2軒ほどあって、ネットで見てみたのだが、そのうちの1軒にはホームページに「診察料」について書かれていたのだが、それがなんと!100万とか200万とか平気で書かれている。まあ都心の高級住宅地ともいえる土地柄、「こういうのもありなのだなあ」とは思うが、わたしがその歯科医の受付を通過したらすべてを失ってしまうではないか。却下。
 もう1軒の歯科医。今はネットで検索すると口コミ情報で顧客の評価が書きこまれているわけで、まあそこまでに信頼するつもりもないのだけれども、その歯科医はおどろくほどの「低評価」が並んでいる。ここまで低評価ばかりというのも見たこともなく、読んでも「そりゃダメだな」というようなものばかりで、まあこれだけの「低評価」をものともせずに受付を通過することはむずかしいだろう。悪いけど「却下」である。
 やはり自宅駅に近い歯科医がいいのかな?

 今日もわたしが帰宅してからは、ニェネントもリヴィング周辺でゴロゴロしつづけていて、ついこのあいだまでの「押し入れに引きこもりつづけていたメンヘラネコ」とは思えないのである。ニェネントくん、「Welcome Back!」である。

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『ストーカー』(1979) アルカージー・ストルガツキー、ボリス・ストルガツキー:原作・脚本 アンドレイ・タルコフスキー:監督

ストーカー [DVD]

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 なんというか、「おとぎばなし」みたいなストーリーではある。何かの理由であるときから「立ち入り禁止」にされた、「ゾーン」と呼ばれるエリアがある。しかしその「ゾーン」の中には、そこに入ると何でも願いがかなうという部屋があるという。その「部屋」へ行くことを望む人らを、そこまで案内するのが「ストーカー」と呼ばれる人。この映画では、「ストーカー」は「作家」そして「教授」の二人を「ゾーン」へと案内するのだ。
 「ストーカー」には妻子があるのだが、妻は彼に「もうゾーンへ行かないでくれ」と哀願する。まだ幼い二人の娘は、「ストーカー」が「ゾーン」へと行く影響からか、足がないのだと語られる。
 「ストーカー」自身が「部屋」へ入り、自分の望みをかなえればいいのではないかということになるが、「自分が本当に望むことがかなう」ということへの「畏れ」が「ストーカー」にはあるのだろうか。部屋に入って富を得て、そのあとに自殺した人の話を「ストーカー」は語る。

 「望むことがかなう」ということは、宗教的な祈願ではあるだろう。「ストーカー」は、自らをそんな人々の希望のための「使徒」「僕(しもべ)」とでも考えているようではある。どう見てもこの作品の背後には宗教への思い、思索があるだろうとは思うが、わたしは「宗教」についてマジメに考えたことのない人間なので、こういうのはホントに苦手である。だから映画ラストの一種の「奇蹟」についても、何をどう判断したらいいのかわからない。

 ただやはり、この作品の演出について、そして「映像美」については、観ていて「すごいなあ」と惚れ込むしかないところはある。「壮大な作品だなあ」とは思うが、わたしの知らない世界についての作品ではあり、この作品を観たからってどうのこうのということはないのだ。
 それでもやはり、「いつかまたゆっくりと見直してみたいものだ」とは思う作品なのだった。
 

2021-07-25(Sun)

 今までの歯科医はもう行かないつもりになって、「ではどこにしようか?」と探すのだった。まあ今までの歯医者はウチから目と鼻の先だったから、通院するのは楽だったけれども、それ以外の歯科医はちょっと遠い。まずは北のスーパーへ行く手前に1軒あるのだけれども、実はわたしは「インプラント治療」も視野に入れているわけで、その歯科医では「インプラント治療」はやっていないようなのでちょっと除外しようかと。それで西の方にある歯科医を調べたのだけれども、そのホームページに掲載されていた院長先生以下スタッフの顔写真が、みんなわたしの苦手なタイプの顔立ちをされていたのでこれは「パス」(笑)。いや、こういうのは重大な問題なんです。
 そうすると、あとはいつも使う駅のそばの2軒。1軒はインプラントなしなので省いて、残るは1軒。ここは担当医以下スタッフの人数も多いようで、まあわたしの嫌いなタイプの顔は見当たらない。難はウチからちょっと遠いことで、いちど仕事から帰って夕方とかに出直すとなると、往復で30分ぐらいの時間を通院のために考えなくってはならない。仕事の帰りに通院できるかどうかというと、ちょっと厳しいところがあるかもしれない。このことは聞いてみないとわからないが。

 その治療中の「歯」の状態だけれども、さいごの治療のときにあまりに時間がかかったのでわたしも苦しくなり、早く終わらせたということもあり、どうも最後の仕上げがちょっと問題があったようで治療中の歯が口内を傷つけている感じがあり、傷むのである。とにかくは早く次のステップを決めて次の治療を始めないといけません。

 今日は早い時間から、DVDでタルコフスキー監督の『ストーカー』を観た。この映画を前に映画館で観たのはもうかれこれ20年は前のことで、それっきりだからたいていは忘却の彼方に行ってしまっていたけれど、それでもラストシーンはしっかり憶えていて、「これからこうなるんだぞ」みたいに先が読めたのだった。

 あとは昨日観た『ランボー/地獄の季節』のことをあれこれと想い、やはりカッコいいテレンス・スタンプの映画をもっと観たいものだなどということになり、「そういえばこの時期にテレンス・スタンプは西部劇に出ていたはずで、けっこう評判も良かったんじゃなかったっけ?」と思い出す。その映画は原題が「Blue」で、邦題は『血と怒りの河』だったということもわたしは記憶していた。
 それをAmazonで検索してみると、なんと千円以下の価格でDVDが買えるのだった。すぐに注文をした。

 それから想いは「アフリカ時代のランボー」のことに及び、高額な『ランボー伝』に頼らずとも、もっと別にないものかと調べる。ランボーがアフリカから出した書簡について書かれた『ランボー、砂漠を行く』という本があることは知っているし、いずれこの本も買うべきかとは思っているが、今日調べたのでは昔の紀伊国屋新書から出ていた『ランボーの沈黙』という本が、アフリカ時代のランボーを客観的に書いていてなかなかに良さそう。しかも300円で買えるので、これもちゃっちゃっと注文してしまった。

 さらにネット内で「紅玉薔薇屋敷」という、いったいどなたが書かれたのかわからないサイトがあり(書かれたのが既婚の女性だということはわかるのだが)、そのサイト内に「ランボーの右足」というタイトルの、相当な分量の(おそらくは新書一冊分に相当するような)緻密なアフリカ時代ランボーの評伝があるのを発見した。
 ここにそのサイトをリンクさせていただくけれども、いきなりその「ランボーの右足」だけをリンクさせるのも「失礼」かと思い、その「紅玉薔薇屋敷」のトップページをリンクさせていただく。そこのメニューの上から五番目に、その「ランボーの右足」がある。

     「紅玉薔薇屋敷」

 ‥‥そんなにすぐに読み終えられる内容でもなく、わたしもこれからじっくりと読みたいのだけれども、ちょびっと「ななめ読み」したところでは、昨日観た『ランボー/地獄の季節』、意外とこの「ランボーの右足」に書かれていたことが映画にもそういう描写があったというか、この当時知られていた「事実」と思われることが描かれた映画だったようではあり、そこまで「創作」だったわけでもないようだ。

 今日は『ストーカー』を観たあとはじっくりと読書に励もうかとも思っていたのだけれども、そうやってついつい所謂「ネット・サーフィン」的な世界にハマってしまい、時間はいつしか過ぎていくのだった。
 おかげで今日も<東京オリパラ>から逃れ、これっぽっちも競技の中継も報道も目にしないですませられたのだけれども、ついつい夕方6時からのテレビ通常放送「世界遺産」を見逃すところだった。

 今日もニェネントくんは押入れから出てきて、リヴィングでくつろぐのだった。「あれ?どこにいるのかな?」と思うと、リヴィングの出窓の上でゴロリと横になっていたりして、ついわたしも、そんなニェネントくんをかまうのだった。幸福な夏の夕方。

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『ランボー/地獄の季節』(1971) ネロ・リージ:監督

 イタリア映画である。監督のネロ・リージという人は自身が詩人でもあり、映画監督としては十数本のドキュメンタリーを撮っていたらしい。劇映画監督としても、この作品の前の年(1970年)にはジーン・セバーグ主演の映画を、次の年(1972年)にはヘルムート・バーガーの主演映画を撮っていたようだ。しかしながら、監督が詩人だからといって、この映画の脚本も彼自身が書いたもの、というわけではなかったようだ。
 この時期、主演のテレンス・スタンプはイタリア映画との縁がつづいていたようで、同じ1968年のフェリーニ監督の『悪魔の首飾り』(オムニバス映画『世にも怪奇な物語』の一篇)、パゾリーニ監督の『テオレマ』とにつづけて出演している(ちなみに、一昨日7月22日は、テレンス・スタンプの82歳の誕生日だったのだ)。

 映画は若き日のランボーテレンス・スタンプ)とヴェルレーヌジャン=クロード・ブリアリ)との出会いから破局までのいきさつ、そしてそれから十年以上後、詩を放棄してアフリカで武器商人となって活動し、だんだんに「死」へと向かって行くランボーの姿とが、交差して交互に描かれる。
 この映画撮影時にテレンス・スタンプはすでに30歳を越えており、さすがに十代の青年詩人を演ずるのはキツかったというか、じっさいにランボーが詩人になろうとパリに出奔するのは16歳のときのことなのだが、この映画ではそのあたりを脚色して「20歳でパリに出てきた」ことにされている。それでもやはり、残されているあのランボーの写真とここでのテレンス・スタンプを見比べると、かなりの違和感は感じるかもしれない(若きランボーの不遜な精神はみごとに演じていただろうが)。
 しかし、アフリカ時代のランボーはまさにテレンス・スタンプのはまり役というか(このとき、年齢的にもテレンス・スタンプランボーとだいたい同い年であろう)、詩を放棄してヨーロッパでの生活をも捨てたニヒリスト的な精悍さが感じられ、じっさいに残されているアフリカ時代のランボーの写真(不鮮明ではあるが)は、この映画でのテレンス・スタンプに似ていると言える(そうは思わない人もいるだろうが、わたしはこの時代のランボーを演じるのにこのときのテレンス・スタンプはまさに適役だったろうと思うのである)。

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 さて、どうしてもこういう映画作品を観ると、「事実関係がちゃんと描かれているのか」とかいうことばかりが先に気になってしまうのだけれども、だいたいそもそもわたしはランボーの生涯については先月読んだ『ランボーはなぜ詩を棄てたのか』という本ぐらいでしか知らないし、アフリカ時代のランボーのことなど何も知らないといっていい。
 そんな自分の知っていたこととの照合でいえば、さいしょのパリへの出奔の年齢を変えてある以外は、ヴェルレーヌとの関係など正確に描かれていたと思うし、パリの高踏派詩人連中の会合の雰囲気(壁に大きなボードレール肖像画が貼られている)、そこでのランボーの「狼藉ぶり」とかも(ここは「テレンス・スタンプならでは」という魅力で、比較できないかもしれないが、わたしは、フェリーニの『悪魔の首飾り』での彼の鬼気迫る演技を思い出したのだ)、きっとこんな雰囲気だったのだろうとは思わせられた。

 アフリカ時代のランボーに関しては、そもそもほとんど知られていないのだから「創作」もかなり取り入れているものと思われ、晩年に病身のランボーの面倒をみたアフリカの女性が出てくるが、わたしが調べた限りではそのような女性はいなかった。また、ランボーが村を襲われてひとり生き残っていた少年を連れ帰り、ずっと自分の周辺に置いていたというのはもちろんフィクションだろう。というか、アフリカ時代のランボーをドラマにするにはフィクションの混合も避けられなかったのだろうが、ちょっと「ヒューマニズム」に寄り添いすぎている気はした。終盤にランボーが奴隷売買にも関わったような描写もあって、わたしもそういう記述を何かで読んだこともあったのだが、今ではそのようなことはすっかり否定されているそうだ。

 それで、アフリカ時代のランボーにはパリ~ロンドン時代の不遜さ、傲慢さも失せ、見た感じでは特に個性も見せない、特徴のない普通の「武器商人」(しかも商談に失敗するし)でしかないというあたりが、何とも残念ではあった。ランボーはアフリカを「地獄」とも言い、そのラストの「死への道行き」からも、彼のアフリカでの生は失敗だったような印象になる。しかし、ここはどうせフィクションなのだし、いったいランボーはアフリカに何を求めていたのか(もしくは何から逃れてきたのか)を、もう少し強く描いては欲しかった。ここでもっと、いかにもテレンス・スタンプという「狂おしい」さまを観たかったものである(ラストにちょびっとあった?)。

 しかしこの映画、特に室内の美術は色彩設計、照明などとても美しいもので、細かいところまでスタッフが神経を使っているのが読み取れた。撮影も見事なものだった。
 アフリカに関しては少しばかり「非ヨーロッパ」ということに気をつかいすぎた感じで、さいごにランボーに付き添う女性にせよ、紋切り型の「エキゾティズム」になってしまったようだ。

 やはりわたしは、「アフリカ時代のランボー」というものをもう少し知りたく、今出ている「ランボー伝」だとか、そういう本を読んでみたくはなるのだった。