ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ベルファスト』(2021) ケネス・ブラナー:脚本・監督

 じっさいに9歳までベルファストで暮らした監督のケネス・ブラナーの、ベルファストでの思い出を描いた自伝的映画だけれども、ケネス・ブラナーの現実の家族は弟と妹がいるわけで、すべて「自伝的」というわけではない。

 モノクロ映画(カラーになる場面もあるが)で、ベルファストという街への郷土愛と、そして家族愛とを子供の視点から描いた映画とみるならば、ウェールズの炭鉱町を舞台としたジョン・フォード監督の『わが谷は緑なりき』を思い出すけれども、わたしはその『わが谷は緑なりき』の内容はほとんど忘れてしまっているので、比較するわけにもいかない。
 ただ『わが谷は緑なりき』で記憶しているところでは、父が働く炭鉱で労働組合をつくる動きがあって父が反対していたという、地域の中での分裂・対立は描かれていたわけで、「アイルランド紛争」での地域の分裂を描いた、この『ベルファスト』との類似はあるだろう。

 映画は現在のベルファストの海からの遠景ショットで始まり、カメラはベルファストの街にぐんぐん接近し、その海沿いのブロック塀を越えると画面はモノクロになり、それは1969年の世界だ。カメラはそのままワンショットで道路を進んで行き、道沿いの建物のドアを開けてバディのお母さんが「バディ~!」と呼んでいる。カメラはしばらく道路を進んで行く。
 この導入部はあまりに素晴らしく、見ていると自然に「現代」から「1969年」へと入って行くし、カメラ位置も低く、つまり「子供の目線」に同化して行く。

 時は1969年8月15日。カトリック系住民からなるIRAが、街頭での武装闘争を開始したのだった(その1969年8月15日というのは、アメリカではまさに「ウッドストック・フェスティヴァル」の始まった日でもあるけれども)。
 主人公のバディの家族はプロテスタント系で、どうやら住んでいるのはカトリック系住民の多い地域のようだ。だからお母さんはバディに「外に出ないように」という。
 バディの家は父母とお兄さんとの4人家族。近所にはおじいちゃんおばあちゃんも住んでいて、バディもおじいちゃんの家に行っておじいちゃんといろんなことを話もする。
 お父さんはロンドンに働きに出ていて、2週間おきぐらいにしかベルファストに帰って来ない。だからなおのことこんな紛争下のベルファストで、お母さんはバディのことなど心配するわけだ。

 しかし映画はそんな紛争を正面から描くのではなく、あくまでバディの視点からユーモアを交えて、おじいちゃんおばあちゃんら家族のこと、学校のことなどが描かれて行く。紛争は小康状態になり、家族は皆で映画を観に行ったり芝居を観に行ったりする。それが『恐竜100万年』や『チキチキ・バンバン』などの映画、そして『クリスマス・キャロル』の芝居だったりするけれども、そんな映画の画面、芝居の舞台の上だけは「カラー」になる。
 家のテレビのニュースでは、ベルファストの紛争の様子として、バディの家のすぐ前の通りの様子が映されたりしている。そしてバディはお兄さんといっしょに、テレビで放映される西部劇も見る。それは『リバティ・バランスを撃った男』だったり、ゲイリー・クーパーの出る『真昼の決闘』だったりするが、その有名な主題歌が、お父さんがIRAの男と対峙する場面で流されたりもする。

 そのうちに、お父さんはロンドンの会社から「家族でロンドンに出てこないか?」と、住宅も提供するといういい条件を提示され、家族での転居を考えるのだが、そのときはバディが「まわりはみんな友だちの、どこもかしこも知っているこのベルファストから出て行きたくない」と言う。
 でも、そのうちにまたIRAの蜂起があり、スーパーマーケットが襲われて商品が略奪される。バディは近所の年上の女の子モイラに「略奪しよう」と誘われ、気乗りしないままスーパーマーケットへ行き、「バイオ洗剤」をひと箱家に持って帰る。それを見たお母さんは怒り、洗剤を戻しにいっしょにスーパーへ行く。スーパー周辺には軍隊も出動していて暴動を鎮圧しようとしているのだが、そんな中、IRAの男が逮捕されないよう、お母さんとバディを人質に取ってしまう。そこにお父さんがあらわれ(このときに『真昼の決闘』の主題歌が流れるのだ)、カッコよくお母さんとバディを救う。
 そのことでIRAの恨みを買ったであろうお父さんは、ついに家族でベルファストを出て行くことを決めるのだった。

 ベルファストを発つ前に、ライヴ・スペースのようなところでお父さんが生バンドをバックに歌い(ここでお父さんが歌うのは、1968年にLove Affairが発表して全英No.1になった「Everlasting Love」という曲だ)、お母さんが踊り、あとはデュオで踊るという、ストーリーの流れとまるで関係のないシーンがあるのだけれども、このシーンだけ、お父さん役のジェイミー・ドーナン、お母さん役のカトリーナ・バルフの、映画の役から離れた「素」の姿が見られたように思った。二人ともカッコいいのだ。

 音楽はヴァン・モリソンの曲がふんだんにフィーチャーされていて、クレジットにも「Music:Van Morrison」などと出てきたのだったが(じっさいに映画で使用されたインスト曲もヴァン・モリソンが作曲し、1曲の彼が歌う新曲もフィーチャーされた)、わたし的には、バディが学校でテストの成績が良くって、好きなキャサリーンと並んで座れることになって「やったね!」というときに、ヴァン・モリソンの「Jackie Wilson Said」のイントロが流れてくる場面が大好きだ。その曲の内容も「君が笑えば僕は天国にいるよ」というものだから、まさにピッタリだった。

 バディがおじいちゃんに算数の宿題を教えてもらっていて、「数字を書くときに1だか7だか紛らわしく書けばいい。2と6もな」とか教えて、バディが「でも答えはひとつでしょ」と言うと、おじいちゃんは「答えがひとつなら紛争は起きないさ」と答える。
 

2023-12-02(Sat)

 午前中、北のスーパーへと買い物に出かけた。
 この日も晴天で、ピリッと寒い。家を出てすぐの木立にスズメがとまっていたのでデジカメを向けると、飛び立つ前にいい構図で撮ることができた。
 しかし、帰ってから撮った写真を見ると、スズメの手前の木の枝にピントが合ってしまっていた。これはもう、このデジカメの大きな欠陥で、被写体の手前にこういう木の枝とかがあるとどうしてもそっちにピントが合ってしまい、これは手動でもどうしようもないのだ。今のスマホのカメラ機能も充実していて持っているデジカメに引けを取らないようでもあるし、これからは写真を撮るのもスマホを活用しようかとは思うのだった。

     

 スーパーへ行くと、ちょっとだけしなびたダイコンが1本まるごと50円で売られていた。
 実は昨日、朝ドラの「ブギウギ」を見ていて、屋台のおでん屋の場面でおいしそうなダイコンのおでんが写っているのが「おいしそうだなあ」と思っていたわけで、おでんはともかく、ダイコンを使った料理をつくってみようかなあ、という気になってしまったのだった。
 「50円は安いけれども、丸ごと1本は大きすぎるかなあ。無駄にしてしまう気もする」と、買おうかどうしようかとしばらく逡巡したのだけれども、やはり「50円はお買い得だ」ということで買ってしまった。

 帰宅して「ダイコンを使った料理」を調べ、「豚バラ肉とダイコンの煮物」というのがお手軽そうで、こいつをつくることにした。
 それでまずは「ダイコンの下茹で」から始めるのだけれども、以前「ダイコンの下茹で」にはコメのとぎ汁を使うというのを読んでいて、たしかに前回ダイコンを料理したときにはそうやったのだけれども、それではコメを炊くときと同期しないといけないので面倒。今日調べるとダイコンをゆでるときにいっしょに白米をスプーン1杯とか入れればいいことがわかり、気が楽になったのだった。

 それで下茹でしたダイコンと豚肉を鍋に入れ、水をはって味付けをして火をつけ、あとはレシピの時間をタイマーにセットして放置した。そのあいだわたしはテレビを見ていて、キッチンを振り返ることもなかったのだけれども、タイマーがアップしてキッチンを振り向いてみるとなんと、鍋からは煙が噴き出しているのだった。
 おどろいてあわてて火を止めて鍋の中を見ると、もうすっかりおつゆの水分は飛んでしまっていて、鍋の底はまっ黒になっているようだった。
 おかしい。ちゃんとレシピの通りの水量でレシピの通りの時間煮込んだのだけれども、なぜなんだろうか。火が強すぎたのだろうけれども、ここまで焦げつくとはびっくりだった。
 むむ、これで前回「ダブリン・コーデル」をつくったときにつづいて、2回連続で鍋を焦げつかせてしまったわけか。

 料理本体はそこまで焦げついているわけではなく、しっかり煮えていたのだが、やはり味は残念なことになってしまっていた。
 まだダイコンは半分残っているので、このリヴェンジは近いうちにやってやろうと思うのだった。

 この日はテレビで「全日本障害馬術大会」の模様が放映されていたのを、しっかり見てしまった。
 そもそも「障害馬術」というものを見る機会もなかったし、いろいろ興味をもって見たのだけれども、これはとっても面白かった。
 要するに「障害馬術」とは、競技場内のさまざまな障害物を馬で飛び越えていくという、ハードル競技のような競技で、「時間内に競技を終えられなければ減点」「障害物を落下させれば減点」というのが基本ルール。騎手と馬との心がどれだけ通い合っているかという競技で、騎手の指示をしっかり馬がこなすということ。そこに騎手と馬の技術、その一体感とが求められるのだな。
 出場する騎手も40代、50代の方が多く、馬も10歳を超えるものが多い。そして騎手と馬とのコンビが5年ぐらいになるというコンビが多い。しかも騎手は男性、女性の性別を問われず、同じ大会に男女の騎手が共に出場して技を競う。
 じっさい、この日の大会でさいごに競技を行ったのは女性の騎手で、この騎手がノーミスで協議を終えれば優勝されるところだった。惜しいことに障害を1個落下させてしまい、優勝はならなかったけれども。
 おそらくはそんな騎手の方と競技馬とは普段から心を通い合わせ、騎手は馬のことをしっかりと理解しようと努められているのだろうな。わからないが動物への「虐待」ということが起こり得ない世界だとは思えるし、「競馬」の馬のように5歳になる前には引退、たいていは殺処分されてしまうという世界とは大きな違いだと思った。
 もしもこれからもテレビで「障害馬術」の大会が放映されるならまた見てみたいし、こういう競技なら(実は競技のことを何もわかっていないことを隠して)競技会場に観戦に行ってもいいとも思った。

 夕食のあと、この日で「Amazon Prime」での配信が終わるという、ケネス・ブラナー監督の『ベルファスト』を観たのだった。
 

『手討』(1963) 田中徳三:監督

 意外と初めて観る市川雷蔵。なるほど、魅力的な俳優さんだなあと納得。
 この作品は岡本綺堂の『お菊と播磨』を八尋不二が脚色したもので、怪談の「番町皿屋敷」の怪談要素をなくした、武家の悲恋ものである。監督は先日観た『怪談雪女郎』の田中徳三

 時代は明暦2年。徳川幕府も落ち着き、世は泰平ムードではあったが、江戸幕府創立に力のあった旗本らは疎んじられているとの思いも蔓延していて、大名との対立も顕然化していた。
 あるとき、城内で加賀藩の藩主が能を舞う上覧能が催されたとき、列席していた旗本の新藤源次郎(若山富三郎)が退屈のあまり大あくびをしてしまう。舞っていた藩主は源次郎の処分(切腹)を幕府に迫った。理不尽な大藩の要求に旗本たちは反発し、旗本に理解のある大久保彦左衛門と旗本の代表として青山播磨(市川雷蔵)を通してとりなしを願い出るが不調に終わり、騒ぎとなりそうになった。このとき源次郎は「自分一人が腹を切ればすむこと」と、いさぎよく切腹の儀を受け入れるのであった。
 表向きの大名と旗本の対立は解消されたかにみえたが、旗本らのうちには不満がくすぶっていて、旗本らは白柄組というグループを結成する。播磨はグループの暴走を食い止めるのが自分の役割と、白柄組の頭領になる。
 一方、播磨は腰元のお菊と将来を約束した仲ではある。そんな中、白柄組と大名との調停のため、加賀藩の縁続きの女性と播磨との結婚を画策し、見合いの席を設ける。播磨はその縁談を蹴って途中退席するのだが、そのことを知らないお菊は播磨の心変わりと思い込み、播磨を試す気もちもあって青山家伝来の家宝の皿を割るのであった。
 戻った播磨は話を聞き、「過失であるならば許そう」とするのだが、故意であったとの目撃もあり、これを許すわけにもいかずにお菊を手討にする。さらに播磨は破談の責を取って切腹に臨むのであった。

 江戸時代初期のの旗本と大名との不和、軋轢(あつれき)を背景に身分の違う男女の恋を描き、身分差ゆえに男を信じ切れなかった女の行動は悲しいが、その心理は現代になってもわかりやすいのではないかと思う。

 ストーリーはなかなか面白いのだけれども、正直言うとこの作品、演出に問題がある。
 もっとじっくり落ち着いた演出にすればよかったと思うが、不要にカメラが動いたり人物に寄ったりと落ち着かないし、カット割りにも疑問がある。また、お菊を演じた女優はそのメイクも所作も「現代女性」っぽくもあり、そのせいでお菊の心理に現代に通じるものをみて、理解しやすかったのかもしれないが、これが江戸時代の城中の物語とは思えないところもあった。残念。
 

2023-12-01(Fri)

 ついに12月になってしまった。2023年もあとはこの1ヶ月だけ。まあ今年の反省は大みそかにでもやろう。
 今日もいい天気だったようだけれども、けっこう寒くなった。さすがにニェネントくんも寒がっているようで、引きこもっている和室に行ってもニェネントくんの姿が見えない。押し入れの中にもいなくって、「どこへ行ってしまったんだろう」と思う。それでベッドの上のふとんをめくってみると、そこにニェネントくんがもぐり込んでいたのだった。まあこれは毎年のことだけれども、「そういう季節になったのか」という感じである。

     

 今朝の「ブギウギ」ではついにようやく、菊地凛子演じる茨田りつ子が「別れのブルース」を歌うシーンがあった。なかなかに素晴らしいもので、朝からこういうシーンを見られるのもちょっとした至福ではある。
 スズ子もりつ子にアドヴァイスをもらい、自分の楽団「福来スズ子とその楽団」というのをつくって、来週からはまたステージの場面が増えそうだ。しかし「福来スズ子とその楽団」なんてバンド名じゃなく、「ビッグブラザーホールディングカンパニー」とかにすればよかったのに。

 2025年の「大阪万博」まであと500日も切ったそうで、前売り券も売り出されたという。参加国もさらに減りそうだし、そんな参加国のパビリオンの建設に、まだほとんど着手されていないと聞く。今から開会に間に合わせるには、いろいろと手を抜かなくっちゃならなくなるのではないだろうか。そもそも、いまだに「いったい何が展示の目玉なのか」とっともわからない。「それ、見たい!」と思えるようなものがあるのか。まさか例の「木製リング」というわけでもないだろう。
 おそらく維新の会や関係者らは、万博入場者の数を増やすためにはど~んなことだってやりそうだ。「入場料は無料にして、おみやげも付けてあげますから来て下さい!」な~んてことにならないだろうか(「おみやげ」があの「ミャクミャクくん」のぬいぐるみ、な~んていうんじゃ誰も欲しがらないだろうが)。

 一方政界では、自民党5派閥が「政治資金パーティーの収入を収支報告書に過少記載していて、最大派閥の安倍派による組織的な「裏金づくり」として捜査の手が入っているという。またもや「政治とカネ」の問題で、今の自民党にはまたまた「大きな痛手」となりそうだ。
 この問題をスクープしたのは「しんぶん赤旗」で、共産党への逆風吹き荒れる中、大ヒットといえるだろう。というかこの裏にも、「ジャニーズ問題」のように「大手新聞社は知っていたけれども書かなかった」ということもあるのではないのか。それはそれでまた「大問題」である。「しんぶん赤旗」はそのあたりも追及、報道していただきたいものだ。

 この日は夕方から『手討』という映画を観た。岡本綺堂の原作で、あの「番町皿屋敷」から怪談的要素を抜き去ったストーリーになっているのだという。
 

2023年11月のおさらい

 今月は大映京都の「怪談映画」をいっぱい観たけれども、もうこれでおしまい。でも、しばらくは邦画を観つづけようと思う。

映画:
●『ザ・キラー』(2023) デヴィッド・フィンチャー:監督

Book:
●『消しゴム』(1953) アラン・ロブ=グリエ:著 中条省平:訳
●『愛しすぎた男』(1960) パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳
●『熊 人類との「共存」の歴史』(2005) べルント・ブルンナー:著 伊達淳:訳
●『象の物語 神話から現代まで』(1990) ロベール・ドロール:著 南條郁子:訳 長谷川明・池田啓:監修

ホームシアター
●『怪猫有馬御殿』(1953) 荒井良平:監督
●『四谷怪談』(1959) 三隈研次:監督
●『怪談累が淵』(1960) 安田公義:監督
●『怪談蚊喰鳥』(1961) 森一生:監督
●『怪談鬼火の沼』(1963) 加戸敏:監督
●『けんかえれじい』(1966) 鈴木清純:監督
●『怪談雪女郎』(1968) 田中徳三:監督
●『四谷怪談 お岩の亡霊』(1969) 森一生:監督
●『台風クラブ』(1985) 相米慎二:監督
●『地獄の警備員』(1992) 黒沢清:脚本・監督
●『CURE』(1997) 黒沢清:脚本・監督
●『ニンゲン合格』(1999) 黒沢清:脚本・監督
●『回路』(2001) 黒沢清:脚本・監督
●『インスタント沼』(2009) 三木聡:脚本・監督
●『ネイチャー』(2013) パトリック・モリス、ニール・ナイチンゲール:監督
 

『象の物語 神話から現代まで』(1990) ロベール・ドロール:著 南條郁子:訳 長谷川明・池田啓:監修

 著者のロベール・ドロールという人は、以前に『動物の歴史』というけっこう分厚い本を読んで知っていた。この「象」の本は、創元社の「知の再発見双書」の一冊として刊行されていたもので、わたしはこういうシリーズ本が出ているのはまるで知らなかったが、「絵で読む世界文化史」ということで、歴史、宗教、芸術など様々な分野にわたっての文化史全般の入門書的立ち位置か。すでに200冊ぐらい刊行されているみたいだ。知らんかった。
 元の版はガリマール社の「ガリマール発見叢書」で、その版権を創元社が買い取ったらしい。それぞれの巻を日本人の専門家が監修して執筆している。刊行リストを見ているとあれこれと読みたい本がある。

 この『象の物語』を読んで、やはり何よりも全ページカラーで掲載された図版が魅力的。本が小さいし、本文のすき間にはめ込まれてさらに小さくなり、ページのレイアウトに合わせてカットもされてはいるけれども、特にこの巻では今まで見たことのない絵や写真にあふれている。巻頭には全ページ使って8ページにわたって、インド、ティムール朝の『バーブル・ナーマ』という本からの挿画が掲載されているのがうれしい。やはりインド~中近東の中世美術は素晴らしい。

 この本、4つの章からなる本文と、「人と象、その交流をめぐる考察」という、日本人監修者のまとめた14の小文から成っている。4つの章は以下の通り。
 1:象の生態
 2:アジアとアフリカ:生と死のイメージ
 3:ヨーロッパの記憶
 4:狩りから大量殺戮へ

 「象の生態」では、マンモス絶滅の理由を探ることから、今地上に残るアジアゾウアフリカゾウ、それぞれの身体的特徴からその生活を紹介。「アジアとアフリカ:生と死のイメージ」では、神格化もされて家畜化されることも多く、狩猟や戦闘にも駆り出されたアジアゾウと、荒い性格で人に馴れることもなく、ただ狩りの対象とされたアフリカゾウとのことが書かれる。アジアの人々がいかにしてゾウを捕らえ、家畜として飼いならしていくか、という記述はとても興味深い。
 ヨーロッパ人のゾウとの出会いはアレクサンダー大王の東方遠征から始まる。このときアレクサンダー大王の一隊はまず、ペルシア帝国軍の15頭のゾウと戦い、さらにインドのぽロス王軍の200頭のゾウとも衝突した。ヨーロッパ人にとってゾウはまずは軍事用の武器であり、自分たちもさっそくゾウを入手して「戦象」として鍛えたのだった。しかし戦争の様式の変化と共にゾウは戦いに適応できなくもなり、のちには動物の闘技に引っ張り出されるようになる。
 その後長いあいだヨーロッパではゾウのことは忘れ去られ、19世紀のサーカスによって人々はゾウのことを知るようになる。
 そのあと、銃などの武器の発達によってゾウは狩りの対象とされてしまうし、さらに「象牙」の価値が増したことから、「狩り」を超えてゾウは「大量殺戮」されるようになった。
 そのような殺戮行為は20世紀中盤には停められたが、象牙目当ての密猟は後を絶たず、ついに1989年に象牙の輸出入が国際的に禁止されることで、絶滅寸前まで数の減少していたアフリカゾウはようやく、その数を増加に転じることになった。
 一方、象牙アフリカゾウに比べて大きくなかったことから、象牙目当ての猟の対象にはならなかったアジアゾウだが、棲息地域の開発が進むことでその活動が人間の脅威ともなり、駆除の対象にもされるようになっている。ここには今の日本の「熊問題」とも重なる問題があるように思える。

 巻末の付録的な「人と象、その交流をめぐる考察」には、古代から現代にいたるさまざまな文献資料に書かれた神話、ゾウの観察記、人間とゾウとの交流(争い)、そして象牙の流通についてのことがらを読むことができる。

 アジアゾウは賢いがゆえに強引に家畜にされたり戦場に引っ張り出されたり、人間に虐待されたわけだし、アフリカゾウは大量虐殺の犠牲になってきた。ゾウは妊娠期間も長く、子供が生まれたあとはしばらく(2年ほどは)子育てをするため、その数は人間のハンティングによっても絶滅の危機におちいることになる。20世紀に人間が「狩りをやめてゾウを守らなければいけない」としなければ、おそらく今頃はアフリカゾウは絶滅していただろうという。
 ゾウは幸福からほど遠い逆境に人間のせいで追いやられても、その従順さというか「あきらめて運命を受け入れてしまう」という生き方を選んでいるように思え、動物園で飼育されるゾウを思っても「虐待」なのではないかと思ってしまう。
 「地球の陸上でいちばん大きな動物」というせいか、どこの動物園もゾウを飼育したがるようだけれども、ゾウにとっては不幸なことでしかないように思える。じっさい、動物園での繁殖例は自然下より少なく、成長過程での死も多いようだ。
 例えば「カモノハシ」などはオーストラリアが海外に出すことを禁じ、オーストラリア以外では世界中どこもカモノハシを見ることはできない。同じように、ゾウも「動物園での飼育を禁止する」とかやってもいいように思う。そんなことを、この本を読んで考えるのだった。
 

2023-11-30(Thu)

 この日も、そこまでに寒くはなかった印象で、長期天気予報では「この冬は暖冬になるだろう」ということだった。やはりこういうこと全体が「地球温暖化」のあらわれなのだろうか。冬は暖かに、夏は涼しくなってくれればいいのだが。

 ちょっと心配していたニェネントくんのおしっこのことだけれども、その後問題なく出ているようで安心した。ウンチの方もこの頃は毎日出ているようだし、今はとっても健康なんじゃないだろうか。
 でも、去年の年末に子宮の腫瘍で手術を受けていなければ、もう今頃は生きてはいなかったんだろうな、などとは思ってしまう。ニェネントくんももう更年期。これからもまた健康の問題も出てくることだろうから、まずは普段の健康状態をしっかり見ていてあげないといけない。それから「健康診断」だ。前に健康診断を受けてから半年後、来年も春になって暖かくなってからしっかり診断を受けよう。

 今日もニェネントくんは昼間、和室のキャットタワーの上で日なたぼっこをしているのだった。気もちよさそうだ。

     

 ネットのニュースで、千葉県で小型のシカ科の動物「キョン」の数が増加して、農作物などに被害も出ているということ。このキョンは、かつて勝浦にあって2001年に閉館した「行川アイランド」という観光施設から逃げ出して繁殖してしまったらしいが、今は7万頭が千葉県内に棲息しているらしく、その繁殖力の強さからどんどん数を増やしている。
 もちろん「キョン」は特定外来生物で、問答無用に駆除の対象なのだが、なかなか駆除作業は進まないし、そんなキョンが罠にかかると哀れな鳴き声を上げ、猟師の心はその鳴き声で気もちがくじけてしまうともいうし、またまた「駆除反対」の声も上がっているという。
 しかしもともと日本に棲息しない動物ではあるし、その数が今のように増加してしまうと、明らかに生態系が狂ってしまう。千葉県では「千葉県キョン防除実施計画」というのを立て、キョンの完全排除を目指しているとのこと。
 それで駆除したキョンは毛皮をとったり、食材として活用もできるわけだ。
 例えば北海道のエゾシカなども生息数調整のために毎年数を決めて駆除し、その肉はジビエとして販売されている。わたしも何年か前に「エゾシカの大和煮」の缶詰を買って食べたが、それはめっちゃ美味しかったものだった。キョンの肉も相当に美味しいというし、キョンがいなくなるまでは「千葉の名産品」とすればいいのではないかとも思う。

 ‥‥などと思ったら、そうやって「キョンがおいしい」となると、キョンがいなくなったら「それでおしまい」になってしまうし、「では」とキョンを養殖してしまう人も出てくるおそれがあるという。「食用キョンのための牧場」とかつくったらば?とか思ったけれども、採算を取るためには広大な広さの牧場をつくらないとならないのだろう。

 読んでいた『象の物語』を読み終えたのだが、象も昔はアフリカでは貴重な食物だった。しかし外からアフリカにやってくる連中はその肉よりも「象牙」に目をつけ、象を大量に虐殺したのだった。「象牙」は海外に輸出され、その大きなお得意様のひとつがこの日本だった。つまり高級印鑑の材料などにされたのだ。
 その『象の物語』の巻末に「参考文献」リストがあり、その中に「ちょっと驚く」本のことが書かれていた。
 それは砂本悦次郎という人が1931年に出版した『象』という本のことで、その本は上下巻2300ページ、当時知られていた限りの象の生態、伝承などがびっしり書かれているという。著者の砂本悦次郎という人は「象牙商」で財を成した人で、その職業上の知識と好奇心、そして象への贖罪からこの本を執筆したのではないかということ。
 この本の膨大な量の情報は、今ではすっかり古いものになってしまっているというが、もうひとつこの本で凄いのはその装填。上下巻各1000部、その表紙にはすべて「象の皮」が使われているのだという。これじゃあ著者の「贖罪」というのもまゆつばモノだけれども。
 「自費出版」同然に刊行されたこの書物、そのうち500部は国内の図書館などに寄贈されたといい、今も国立国会図書館などの蔵書に残っている。また、今でも大きな古書店は所有しているようだし、実は検索するとAmazonにも売りに出ているのだ。その価格、40万円。びっくりであった。