ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『レベッカ』(1940) ダフニ・デュ・モーリア:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督

レベッカ(字幕版)

レベッカ(字幕版)

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 原作は同じヒッチコックの『鳥』の原作者でもあるダフニ・デュ・モーリアによるもので、一方で『鳥』のような動物パニックもの(?)を書き、一方でこの『レベッカ』のような「現代のゴシック・ロマン」といえる作品をも書くような作家とはどういう人なんだろうと、彼女の作品を読んでみたい気になるのだった。

 映画は、ヒロイン(ジョーン・フォンテイン)が焼けたマンダレー館をふたたび訪れる「夢」の場面から始まるのだけれども、このシーンでひとつ、マンダレー館の閉ざされた鉄格子の門の、(とてもカメラがすり抜けられるわけもない)格子のあいだをカメラがすり抜けてマンダレー館の敷地に入っていく演出があって、ちょっとおどろいてしまう。それはアントニオーニの『さすらいの二人』のラストで、室内から窓越しに外の風景を撮っていたカメラが少しずつ前進し、鉄格子の窓を抜けて外に出てしまうシーンを思い起こさせられる。短いシーンだけれども、ヒッチコックの創意工夫にうならされるシーンではあった。

 思ったのだけれども、この映画、キューブリックの『シャイニング』を思わせるところがある。この「マンダレー館」は前の女主人のレベッカの魂の宿る建物であり、ヒロインはそのレベッカの「魂」にだんだんと追い詰められていく。そして、そのレベッカの「魂」が乗り移り、マンダレー館に<生命>を与えているのが、屋敷を取り仕切るダンヴァース夫人(ジュディス・アンダーソン)であろう。『シャイニング』でいえばジャック・ニコルソンの役どころだろうけれども、マンダレー館の主人、ヒロインの夫であるマキシム・ド・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)もまた、死せるレベッカの「影」に苦しめられている。
 ヒロインはダンヴァース夫人の有形無形の圧力に苦しめられ(「自殺しなさい!」とまで詰め寄られる)、夫もまた時に精神の均衡を失いヒロインに対して感情的になることもあるが、夫はレベッカの「影」を忘れるためには、無垢な美しさを持つヒロインを必要としていることを、心の奥では理解しているだろう。しかし、夫の心を覆う<レベッカの「影」>が、まさに実体を持って表ざた(おもてざた)になる。

 ここからはそれまでと打って変わって第三者を交えての「取調べ」劇となり、マキシムは「レベッカ殺し」で告発されるのか、ということにまでなるのだが、レベッカが死の前日に診察を受けた医師の証言で、まさに「どんでん返し」となる。
 崇拝したレベッカの失墜によって「生きるよすが」を失ったダンヴァース夫人は、レベッカの「魂」の棲まう「マンダレー館」に火を放ち、つまりレベッカと共に燃え尽きてしまうのである(『シャイニング』の原作でも、舞台となったオーヴァールックホテルはラストに爆破され、焼け落ちてしまうのだった)。

 ダンヴァース夫人の威圧的な態度を怖れ、夫のマキシムの時のとつぜんの怒りにもおびえるヒロインは、スクリーンから観た感じでもいつもおどおどしてみえるのだけれども、これはWikipediaをみると、まずはローレンス・オリヴィエが当時の恋人のヴィヴィアン・リーとの共演がかなわなかったことでジョーン・フォンテインに冷たく当たり、そのことに気づいたヒッチコックは「これはヒロインの造形にぴったりだ!」と、スタッフ、キャストの皆に「ジョーン・フォンテインに冷たくするように」というとんでもない指示を出したことにもよるようだ(それでもジョーンは翌1941年にもヒッチコック監督の『断崖』に出演し、この作品でめでたく「アカデミー主演女優賞」を受賞するのだった)。
 そこでわたしが思い出すのはまた『シャイニング』のことで、『シャイニング』撮影時、監督のキューブリックは「それは<パワハラ>だろうが!」という次元でニコルソンの妻役のシェリー・デュヴァルにつらく当たって彼女を精神的に追い込み、その上でジャック・ニコルソンシェリー・デュヴァルの対峙の場面を撮影したということ。映画人の「パワハラ」とは、えげつないことをやるものである。

 しかし映画で描かれるダンヴァース夫人のレベッカへの崇拝ぶりはちょっと異常で、ヒロインをレベッカの衣装室に案内し、そのまま取り置かれたレベッカの衣装を見せるシーン、レベッカの毛皮コートを自分の頬にあてたり、レベッカの下着を手に取って「透けて見えるでしょう」などとヒロインに見せるシーンなど、異常を越えて同性愛的なものを見てしまう。

 映画はマンダレー館の豪華な調度品とセリフ劇をうまく組み合わせているのだけれども、特に後半の「取調べ」段階ではセリフによる説明が先行する感じになってしまう。しかし、それだけにこの作品は舞台向きだなあと思ったのだが、じっさいに「ミュージカル」として演出され、日本でも上演されているのだった。しかし、この劇をどうやって「ミュージカル」にしてしまえるのだろうか?
 

2020-07-11(Sat)

 朝起きてリヴィングへ行くと、窓からまぶしいぐらいの陽光が射しこんでいた。こういう「窓からの陽光」というのを、すっかり忘れていた気がする。今年は長い長い梅雨だけれども、もうそろそろ終わりにしてもらいたい。

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 土曜日なので朝はFMで「ウィークエンド サンシャイン」をエアチェックしながら聴く。以前はMDにエアチェックしていたのだけれども、今はUSBを使っている。USBの録音時間はすごい。今は16MのUSBを使い、音質も最高音質では録音していないのだが、60時間以上の録音ができる。前ならば金曜日とかになると「明日の朝のエアチェックの準備をしておかなければ」と、数少ないMDの中から消去してもかまわないMDを選んで、中身を消去してセットしていたのだけれども、今はもうUSBをジャックに差し込んでそのまま。まだまだ今でも空きは45時間以上あるようなので、当分はこのまま放置しておいて大丈夫だろう。
 ただ、前にも書いたけれども、和室のラジカセでコレを聴こうとするとラジカセではUSBが聴けないので、「どうしても」というときにはリヴィングのコンポの方でUSBからMDにコピーしてやらなくてはいけない。自然、ラジカセで新しい録音のを聴くことは少なくなった。そもそもMDディスクで使えるものが少なくなってしまったので、まだ買えるうちにまた買っておこうかと思っている(まだ売られているのだろうか?)。

 今日は一歩も外に出なかったのだが、夕方にはまた窓の外の空は曇り、雨でも降りそうな天気になってしまった。いつまでこんなはっきりしない天候がつづくのだろう。週間予報をみると、少なくとも来週の木曜日までは「くもり一時雨」という予報が出ていた。

 今日は、先日買ったヒッチコックのDVDの収録作品に観たいものがたくさんあり(基本、10枚組のすべての作品が「観たい」作品なのだ)、その中から『レベッカ』を選んで観た。以前観た作品なのだが、例によってストーリーはすっかり忘れてしまっていて、「そんな映画だったのか」とおどろいてしまった。
 

2020-07-10(Fri)

 今日は東京でのCOVID-19新規感染者数は243人に増加した。それでわたしの勤務先のビルのとなりに、「兄弟会社」といってもいい会社の入ったビルがあって、わたしの勤めるビルとの人の行き来が多いのだけれども、その隣のビルに勤める人に、COVID-19陽性感染者が出たという。これだけ感染者が増えてくれば「いつかはこうなる」ということは当然考えられたのだが、そういうことになってしまった。わたしの住まいのとなりの市の保育園だかで保母さんの感染者が出たということも聞いていたし、「脅威」が身近に迫ってきたという気がする。このまま、ニューヨークのようになってしまうという考えを否定することはできない。
 まだ「コロナは風邪のようなもの」と言っている人もいて、そういうのが都知事選に立候補してそういうポスターを貼っていたりもしたけれども、志村けん岡江久美子もCOVID-19で亡くなられたし、まだ若い20代の相撲力士も感染して亡くなられている。わたしとて、そこまで極端にCOVID-19禍を怖れているわけでもないのだが、まずは「自分が感染することは他の人に感染させることにつながる」ことにもなるわけで、今まで以上に身の周りの衛生面に気をつかいたい。
 奇怪なことにこの日の夕方のニュースは、そんな東京都でのCOVID-19感染者の数が過去最高になったことと並んで、この7月下旬から政府が「GoToキャンペーン」を実施し、国内旅行を推奨するという報道をやっていた。もはや日本中にCOVID-19をまん延させたいのではないのかと思ってしまう愚策だと思うのだが、例えばこうやってCOVID-19の感染の拡がる東京から、「GoToキャンペーン」ということで地方へ旅行に行く人がいたとして、受け入れ先の地方で「よくいらっしゃいました~」ということになるものだろうか。つい先日まで「都道府県境をまたいでの移動は控えよう」と言っていた日本。他県ナンバーの乗用車をチェックして「帰れ!」とかの貼り紙をしていた日本だというのに。

 勤め先の近くの雨で濡れた舗道の脇で、ノロノロと這っている「ヒル」を見つけた。ほとんど「ミミズ」みたいな細い体型だが、頭がハンマーのようなかたちをしている。

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 ケータイで調べるとこれは「コウガイヒル」という種類で、人の血を吸ったりするわけではなく、ミミズなどを食べているのだということ。この種類のヒルは前にも見かけたことがあるが、こんな都心に棲息していたとは意外。やはり都心には思ったよりも豊かな生態系があるようだ。

 それで仕事の帰りに駅の反対側のドラッグストアに買い物に寄ったのだけれども、その道の途中にある公園に、きのこがいっぱい成長しているのを発見した。毎日のように降る雨で、すくすくと大きくなったのだろう。何種類ものきのこがあって、まるで公園が「きのこのテーマパーク」になってしまったようだ。

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 昼間見た「ヒル」といい、この「きのこ」といい、今年の梅雨の長雨のせいでわたしの目の前にあらわれたのだろうか。

 帰宅して昼食を取ったあと、しばらく休息して近くの内科クリニックへ行った。あいかわらずロビーには診察を待つ人の姿も少ない。担当医師に「何か変わったことはありますか?」と聴かれたもので、自分のことではないが勤め先のとなりのビルにCOVID-19感染者が出たことを話した。考えてみたら、あとでクリニックではわたしが「濃厚接触者」だったかもしれないと、ロビーとかの消毒に力を注いだかもしれない。

 夕方には「GYAO!」で『女囚さそり 第41雑居房』を観た。「たまにはこういうのを観るのもいいのではないか」と思ってのことだったが、いやはや何と申しましょうか。でも、梶芽衣子と若き白石加代子の「目の力」競演は楽しんだ。
 

『見知らぬ乗客』(1951) パトリシア・ハイスミス:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督

見知らぬ乗客(字幕版)

見知らぬ乗客(字幕版)

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 パトリシア・ハイスミスの原作の出版が1950年のことだから、よく言われるように翌1951年にヒッチコックが映画化・公開したというのはいかにもスピーディーなこと。このときヒッチコックは「自分の撮りたい作品を自分で選ぶ権限」を持っていたので、ヒッチコック自らがこのハイスミスのデビュー作を映画化することを決めたことになる。それにしても早い。おそらくは原作が出版されてすぐに読み、すぐに映画化を決めたんだろう。この作品でデビューしたまったくの無名作家の小説を選ぶとは、ヒッチコックの選択眼の「偏見のなさ」、「確かさ」に感服すべきか(誰かヒッチコックの周辺の人間がこの作品をヒッチコックに推したのだとすれば、その人物もすごい!)。
 さらによく言われるように、ヒッチコックはこの原作の「交換殺人」というアイディアに飛びついたのだということで、ハイスミスの原作のこのアイディアはけっこう画期的なものだったらしい。
 しかし、ヒッチコックハイスミスの原作の持つニューロティックな性格は「娯楽作品」には向かないと考えたのだろう。主人公のガイ・ヘインズの性格、行動を原作から大幅に変更し、特に映画の後半はハイスミスの原作とはまったく異なったものになっている。
 ここで、映画のクレジットには脚本にレイモンド・チャンドラーの名前が見られるので驚くのだが、ヒッチコックは最初チャンドラーに脚本を依頼するものの完成した脚本に難色を示し、別の脚本家にリライトさせたという。そのチャンドラーの脚本も読んでみたいものだけれども。

 さて、主人公のガイ・ヘインズこそ建築設計家からテニス・プレイヤーに変更されているけれども(このことは例のテニスの試合でのシーン、その観客の描写でフルに活かされるだろう)、映画の前半はかなり原作に忠実に進行していく。特にブルーノーによる遊園地でのミリアムの殺害の場面は、まさに「原作の視覚化」という感じで、原作ファンとしてはうれしい演出だった。
 前半での原作との大きな違いは、ガイ・ヘインズが列車の中に忘れるのはプラトンの本ではなく、のちに結婚するアンから贈られたライターということにされていて、そのライターにははっきりと「A to G」と彫り込まれている。このライターは終盤に大きな役割を果たすことになる。
 ミリアムを殺害したあとにガイの周辺にひんぱんに姿を現すのもだいたい原作通りで、ガイの姿を遠くから見守っていること、ガイの参加するパーティーに勝手に割り込んだりすることなども原作のプロットに沿っているし、さらにそのパーティーで失神して追い出される展開も原作からの踏襲だろう(失神する理由は、映画では彼の「殺人」に深く関わっていたのだけれども)。

 しかし、このヒッチコックの作品がハイスミスの原作と大きく異なるのはガイ・ヘインズの性格の組み立てで、原作ではそれこそニューロティックなところのあったガイだが、この映画版ではまったく健常な精神の持ち主であり、ブルーノーから「交換殺人」を持ちかけられても「冗談じゃねえよ」という反応である。ここでミリアムが殺されたあとにガイがすぐに警察に行かなかったのは、原作と違ってガイ自身のアリバイがはっきりしないことと、ブルーノーに「警察に言えばおまえからミリアムの殺害を頼まれたと言うからな」という脅しに抗えなかったことによる。ここでガイの婚約者のアンは上院議員の娘であり、実はガイ自身もテニスには見切りをつけて政治家になろうとしているわけで、スキャンダルはどうしても避けなければならないのである。とはいっても、ミリアム殺害事件のアリバイのはっきりしないガイには警察の張り込みが始終行われているのだけれども(原作の「探偵」は登場せず、映画版では張り込みする警官がその役割を果たすようにみえる)。

 ブルーノーから「早くオレの親父を殺せ」とせっつかれるガイだが、彼にはまったくそのようなことを実行する気はない。一度、原作をなぞるようにブルーノーの指示する通りに銃を持ってブルーノー邸に忍び込み、「やはりブルーノーに従うのか」と思わせるシーンもあるのだが、それはブルーノーの父親にブルーノーを病院に入れた方がいいとの忠告をするためだった。この計画はブルーノーに見破られるのだが、「ガイに父殺しをやる気はない」と判断したブルーノーは、一転して「ミリアム殺し」の犯人をガイに仕立てるべく、ガイが列車で忘れたライターを遊園地のミリアム殺害現場に置いておこうとするわけである。その計画を読んだガイは、その日のテニスの試合を「圧勝」で早く終わらせ、尾行する警官をまいて遊園地へと急ぐのである。
 ここでのテニスの試合が、側溝にライターを落としてしまい必死に拾おうとするブルーノーの手と交互に映されて緊迫感を増し、「やはりこれはヒッチコック映画だ」と思わせられるのだが、ラストの遊園地、メリーゴーラウンドのシーンはもうほとんど「パニック映画」で、ここにはすでにパトリシア・ハイスミスの原作の面影はみじんもない(しかし、現場にガイのライターを置いてくることがそこまでに「決定的な証拠」になるのかというと、現代の捜査方法に慣れたわたしなどからみて、疑問に思うところもあるのだけれども)。

 やはり、観終わって印象に残るのはさいしょの夜の遊園地での「ミリアム殺し」のシークエンスで、ここではハイスミスの原作を相当忠実になぞりながらも、いかにもヒッチコックという演出の冴えをみせてくれる。
 まずは明かりに照らされて騒音につつまれた遊園地のメインの場があるのだけれども、ここで友人らと遊ぶミリアムと、彼女をつけるブルーノーとが接近し、また離れていく緊迫感。これがボートに乗って遊園地の中の「島」に移動すると、それまでの喧騒がウソのように暗闇と静けさに包まれる。この転換が印象に残るし、その途中には先に進むミリアムたちの姿に、うしろから迫るブルーノーの影がかぶさるという、いささか「表現主義」的な場面も見られるだろう。
 じっさいの「殺し」の場面は、地面に落ちたミリアムのメガネの、そのレンズに映った映像で示されるのだけれども、このメガネはのちに、やはりメガネをかけたアンの妹(ヒッチコックの娘のパトリシア・ヒッチコックが演じている)をブルーノーが見たときに精神の均衡を失うシーンへとつながっていく。

 サスペンスとしても娯楽作品としても一級品のすばらしい映画なのだけれども、やはり観終わると、ハイスミスの作品の神経症的なところというのは決して「万人受け」するものではないだろうということで、この映画で具体的に言うと「ガイ・ヘインズ」という男を、精神も肉体もどこまでも「健康」な存在、「善」なるものと描くことで、一方の「悪」を象徴するブルーノーとの対比こそを、この映画を展開させる原理としていることだろう。
 観客はもちろんそんな「健全な」ガイに感情移入して映画を観、ラストのメリーゴーラウンドの崩壊と同時にカタルシスを得ることになるのだろう。

 ところで、作品の中でブルーノーの母親(彼女もちょっとおかしい)は「奇妙な絵」を描いているのだが、ハイスミスの作品には「絵を描く登場人物」、とりわけ「絵を描く老女」というのがひんぱんに登場する。しかし、このヒッチコックの映画はハイスミスの第2作よりも先にできているわけで、ハイスミスが以後の作品で「絵を描く老女」というのを何度も登場させているのは、彼女がこのヒッチコックの『見知らぬ乗客』を観たことの影響によるのではないだろうかと思ってしまうのだった。

 この映画では、ブルーノーを演じたロバート・ウォーカーという俳優のファナティックな演技が印象に残るのだけれども、このロバート・ウォーカーという人、どこかパトリシア・ハイスミスの小説の登場人物のような屈折した私生活をおくり、じっさいにアルコール依存症でもあったそうで、この『見知らぬ乗客』の1年後、アルコールと鎮静剤同時服用の急性アレルギー反応で亡くなられたという。この作品での演技が評判になったところだったのに、とても残念なことだった。
 

2020-07-09(Thu)

 7月に入って、スーパーやコンビニでは「レジ袋」が有料になった。わたしはずっと前から「マイバッグ」を持参して買い物してたのでいちおう関係はないが、ただ、これまでポイントカードに「エコポイント」とかいってポイントが加算されていたのがなくなってしまったのが残念だ。
 それで今になって「マイバッグ」としてトートバッグが売れているらしく、「そうか、今、ネコのイラストとかの描かれたかわいいトートバッグを売る店をやっていたら儲かるだろうな」などと昨日の夜に思ってしまった。
 そのせいだろうけれども夜に夢を見て、「まだ誰も目をつけていないあるもの」を商品として売れるではないかと気づいたわたしは、その品を自分でアレンジして店に並べてもらうのだけれども、予想通りに売れて、わたしは皮算用として「これなら1年にこれくらい儲かるな」などと計算しているところで目が覚めた。「なんだかなー」という感じである。
 自分の「マイバッグ」はいつもバッグに入れてある。それで帰りに2つ手前の駅で降りてスーパーに立ち寄り、先日もらった「10パーセント割引券」を利用した。「特に今すぐに必要なもの」もなく、保存のきくマーガリンだとか出しスープの素などを買い、「今日はまあいいか」と、お弁当なども買ってしまった。こういうのは無駄遣いであろう。帰るときにまた、来週いっぱい使える「10パーセント割引券」をもらったが、そう毎回毎回スーパーの商法に乗せられるものではない。

 今日も、行きも帰りも駅への道を国道沿いではない道を歩いた。まだ今のうちは毎日のように「発見」があり、気もちがリフレッシュされる。今日はまず、小さな畑に赤く色づき始めたミニトマトを見つけた。

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 うちに近い場所の公園では、その地面一面にクローヴァー(シロツメクサ)がびっしりと生え、白い花がたくさん咲いていた。これは普段の年ならば子どもたちが遊びまわる「グラウンド」で、草など生えないはずなのが、今年は子どもたちも遊びに来ないので一面にクローヴァーが生えてしまったのではないか、などと思った。

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 帰宅して落ち着いてみると「疲労度」が強いというか、すっごいくたびれた感覚だったので、「昼寝しよう昼寝しよう」と、4時過ぎまで午睡した。
 午睡から起きてヒッチコックの『見知らぬ乗客』を観て、そのあとテレビ放送に切り替えると、なんと今日のCOVID-19の東京都の新しい感染者数は224人になったという。周辺の神奈川、埼玉、千葉でも感染者数は増加している。NHKのニュース解説は、この感染者数の増加はPCR検査数が増加したからだと言い、まるで「心配することはない」という口調ではあった。そりゃあ、全都民にPCR検査してその結果で224人なら、そこまで心配することはないと思うこともあるだろうけれども、いくら検査数を増やしたといってもせいぜい多くて1万人。東京都の人口が9千万だとして、単純計算で1万の9千倍になる。感染者数が224人としてそれを9千倍すると、2百万人になるのだよね。これはあくまでもどんな事情も考慮しない単純計算だけれども、ちょっと凄まじい数の感染者が存在する可能性はあるのではないだろうか。国や東京都の「あわてることはない」という対応、それをフォローするメディアの報道には大きな不信感がある。

 夜寝るときに本を読んでいたら、すっごい久しぶりにニェネントがベッドに跳び乗ってきて「にゃあお」となき、「遊んでよ!」という催促だった。しばらく抱き上げて遊んで、それでニェネントもベッドから降りていったのだけれども、またすぐにベッドに上がってきた。どうやら遊び足りなかったようだ。今夜は「かわいい」ニェネントくん、なのだった。
 

『見知らぬ乗客』パトリシア・ハイスミス:著 青木勝:訳

見知らぬ乗客 (角川文庫)

見知らぬ乗客 (角川文庫)

 パトリシア・ハイスミスの長編デビュー作。彼女は普通に文芸作品として書いたつもりだったらしいけれども、一般にミステリー作品と受けとめられ、以後そういうミステリー作家のレッテルを貼られたことに不満があったらしい。しかしね、殺人事件は(ふたつも)起きるし、探偵も登場してみれば、「ミステリー」と了解されてしまうのも仕方ないようには思う。いや、それでもたしかに、読んでみればこの作品は普通にミステリーとはいえないところがある。

 物語は列車の中から始まる。ガイ・ヘインズという駆け出しの建築設計家が、チャーリー・ブルーノーという金持ちの御曹司らしい男と会い、ブルーノーが父親を嫌っているという話に乗せられて、ミリアムという自分の妻との離婚話が彼女のせいで進まないこととかをしゃべってしまう。するとブルーノーは「ではオレがあんたの奥さんを殺すから、あんたはオレの父を殺せば(そもそもが接点のない相手を殺害するのだから)二人とも捕まらないだろう」という話を持ち出す。
 ガイは「この男は何を言い出すのだ」とブルーノーを相手にしないのだが、ブルーノーはガイとの会話などからミリアムの住まいを割り出し、殺害してしまうのだ。以後、ブルーノーはひんぱんにガイの周辺に姿を現すようになり、けっきょくはガイにブルーノーの父を殺すように迫るのだ。
 ガイにはミリアムと離婚したら結婚しようとしていたアンという女性がいるのだが、ミリアムが死んだせいで二人は結婚し、新居も手に入れる。しかしアンの前にもブルーノーは姿を見せるようになる。

 ブルーノーはまさに何不自由ない金持ちの御曹司なのだが、仕事も持たず生きる意味を探し持たない男であり、母親を溺愛し父を憎むという、典型的なエディプス・コンプレックスであるように見える。しかも酒におぼれるアルコール依存症らしくもあり、そのときそのときのスリル感だけを生きがいとしている人間みたいだ。じっさい、ミリアムを殺した体験こそに生きがいを感じたらしく、そこに生の充実をみている。
 では「理由なき連続殺人鬼」になってもよさそうなものだけれども、ところがどっこい、ブルーノーは列車で出会ったガイのことを気に入ったというか、それ以上の感情を持ってガイに付きまとうことになる。このあたり、ハイスミスの作品によく現れる登場人物の「同性愛的傾向」が読み取れ、この意識は一方のガイの方にもその反映が見られるとも読めるのだろうか。

 その、一方のガイは将来有望な建築設計士ではあるのだけれども、ミリアムとの離婚話を進めるために重要な仕事を断ってみたり、どうもいろいろと周囲の状況に流される「優柔不断」なところがある。そして、その初めにはブルーノーのことを嫌っていたはずが、だんだんとその感覚がアンビヴァレントなものに変化していく。それは彼の世界解釈の「世界はすべて二面性を持っている」という考えに由来するようではある。
 読んでいれば、いくらでもブルーノーとの関係を断ち切ることのできるチャンスはいっぱいあるのだけれども、ブルーノーとの関係に深入りしてしまう。ここのところにちょっと、前に読んだハイスミスの第2作『妻を殺したかった男』の主人公のドジぶりを思い出させられるところがあり、まあ執筆の順番としてはこっちが先なんだから、『妻を殺したかった男』の主人公のウォルターに、この『見知らぬ乗客』のガイ・ヘインズの影が見いだせるというところだろう。

 ここに、ガイの恋人(のちの妻)のアン・フォークナーという女性がいて、彼女はまさに「まっとうな」存在というか、大げさに言えば「真・善・美」の象徴のような存在であって、彼女こそがガイをサポートするのだけれども、ガイはけっきょく彼女に「真実」を語ることができない。ここにこそ、ガイの破滅を予感させるものがあるだろうか。
 考えてみたら、その次作『妻を殺したかった男』でも、主人公のウォルターには妻の死後につきあう彼女がいて、その彼女がまたこの作品のアンのようなまっとうな存在だったのだけれども、ウォルターは彼女にバカげたウソをついて破滅への道を加速させるのだった。

 さらに思い出してみれば、ハイスミスの作品には二人の男の緊張関係で成り立つ作品があまりに多い。この作品以外にもあの『太陽がいっぱい』がそうだろうし、トム・リプリーシリーズの『贋作』にもそういうところはあるだろう。『生者たちのゲーム』しかり。『殺意の迷宮』もそんな話ではなかっただろうか?
 別に「作家の第一作にはその後の作家の特徴があらわれるものだ」などとしたり顔に語りたいとは思わないけれども、そういう風に並べて考えると面白いことだとは思う。

 ひとつの小説として読んで、どうも作者は最後に早急にまとめようとしたのか、ラストのガイの告白や探偵の立ち位置など、ちょっと納得ができないところもある。それでもやはり、ガイ・ヘインズこそを主人公として、彼が崩壊していくさまを冷徹な視線で描いた小説として、やはり面白いものだった。
 それと改めて書いておくけれども、この角川文庫版の翻訳はひどい。読むのならあとから翻訳された河出文庫版がいいのではないかと思う。

2020-07-08(Wed)

 朝、家を出てみると、東の空に薄く、朝焼けがみられた。このところ毎朝暗い雲に覆われた空だったので、晴れた空ではないのだけれども気もちは少しさわやかになる。

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 それでも日中にはまた雨も降り、いったいこれで何日、雨の降る日がつづいているのかと思う。この日も九州とかでは豪雨がつづいていた。
 仕事を終えて帰宅して、「雨が降らないようならば買い物に出たい」と思っていたのだが、夕方には窓の外に陽が照っているようになった。「では買い物に出よう」と外に出てみると、ほんとうに久しぶりに青空をみることができた。そして、太陽の光が眩しい。

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 今日の買い物はニェネントの「猫砂」がメイン。バックパックを持って出て、「うまくバックパックの中に2つ入れることができればいいのだが」と思っていたけれども、ギュウギュウと押し込んでやって、なんとか2つ入れることができた。
 それとこの日のもうひとつの買い物は「しょう油」。ついに使っていたしょう油のペットボトルが空になった。やはり1パック1リットル使い切ると「よく使ったな」と感慨深いものがあるというか、いったいどのくらいの期間でこの1リットルを使い切ったのだろうと思うのだが、ほとんど空になったペットボトルをみると賞味期限は今年の12月になっているので、「まあ順調に使ったわけだな」と思う。おそらくはやはり1年前ぐらいに買ったのだろう。「大さじ1杯とか2杯」とかずつでも使いつづければ、結果として1年に1リットルぐらいは使ってしまうわけだ。
 しょう油の方はバックパックの前のポケットにつっこんでバックパックは「満杯」という状態で、金額的には大した買い物ではないのだけれども、量的にはすごいことになってしまった。

 読んでいたハイスミスの『見知らぬ乗客』を読了し、それでこの日は注文してあったヒッチコックのDVD10枚組も到着した。もちろん『見知らぬ乗客』も収録されているが、明日にでも観ようかと思う。
 それで本の方は次に何を読もうかと考えるのだが、やはりさすがにハイスミスを連続して読んでいると心がねじれてしまうというか、「犯罪小説ばかりを読んでいると犯罪者になる」などというのではないが、ちょっとパトリシア・ハイスミスからはなれて、次は先日買ったナボコフの『ベンドシニスター』を読もうかと思う。まあ『ベンドシニスター』にしても、ナボコフには珍しい『一九八四年』みたいなディザスター小説で、決して読んで明るい気分になるような本ではないが(というか、わたしの本棚に並ぶ本で、「読んで明るい気分になるような本」なんてあったかしらん?)。