ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2019-12-11(Wed)

 仕事を終えて帰宅して、部屋のドアを開けると、珍しいことにニェネントくんがドアの前で「お出迎え」をやってくれていた。「いったいどうしたことだろう?」と思ったら、部屋の中が妙に暖かい。リヴィングに行ってみると、ファンヒーターのスイッチが入りっぱなしになっていた。つまり、ニェネントは「あら、今日は暖かいじゃないのさ!」と、いつものように布団の中にもぐり込んで寒さを耐え忍ぶのではなく、「今日は快適!」と、室内で遊びまくっていたのではないかと想像した。それでわたしの帰宅にも気がついたということなんだろうか。
 相変わらず、昨日配送されたキャットフードの配送段ボール箱に、吸い寄せられるように入ってしまうニェネントくんなのだ。ネコの性(さが)というものは、もうなにものも逆らえない。

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 帰宅して、そのつけっぱなしのまんまだったファンヒーターの前にバッグを置いてしまった。しばらく放置して「あらら」とバッグをどけたのだが、ファンの送風口に近かったポケットの中に昨日代金を支払って発券してもらったチケットが入っていて、コレを出してみると「熱」で黒く変色していた。ヤバい。あやうく、全面真っ黒けの「黒紙」になってしまって、チケットでも何でもなくなってしまうところだった。
 このチケットを発券してくれたコンビニは、いまだにチケットなどの発券を「感熱プリンター」で出力しているわけで、発券されたチケットがこうやって高温にさらされると、全面が「感熱」して真っ黒けになってしまうおそれがある。今はいろんなコンビニでそういうチケットを発券してくれるけれども、このコンビニだけはいまだに「感熱プリンター」でのプリント~発券である。まあ普通はこういうバカな「事件」は起こさないだろうけれども、ほんとうにヤバいところだった。

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 顔の「皮膚炎(?)」は、処方してもらった軟膏を塗ることで(見た目にも)少しはやわらいだ感じだけれども、もちろん「完治」ということではない。そもそも、いったいどのような疾病なのか、医師も病名を語ってくれなかったのでしかとはわからないのだけれども、「乾癬」というヤツか、それとも「脂漏性皮膚炎」かのどちらかなのだろう。感じとしては「脂漏性皮膚炎」なのかという気もして、コイツだとつまりは「アトピー性皮膚炎」みたいな感じでなかなかに完治しないという。やっかいだ。まあ今は、とにかくは医師の診断と治療に頼るしかない。
 そういうことで(仕事はしょうがないけれども)あまり外を出歩いて人に顔をさらす気にもなれず、まあ映画とかはいいのだけれども、しばらくは「引きこもり生活」をしようかとも思う。少し、自分の部屋に引きこもって「自分」を見つめ直す機会にもするべきだろうか。

 今日はけっこう気温が上がるという予報だったけれども、それほどに「温暖」という日でもなかった。仕事の帰りに駅から近いドラッグストアまで行き、「顔を隠す」マスクなどを買うのだった。ついでに店内をみてまわると、このドラッグストアは、例えばハムのパックだとか、お豆腐だとか、近隣のスーパーなどよりも安いことがわかった。これからもっと、このドラッグストアを利用しようと思った。
 

『ならず者』(1943) ハワード・ヒューズ、ハワード・ホークス:監督

ならず者 [DVD]

ならず者 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ファーストトレーディング
  • 発売日: 2011/02/22
  • メディア: DVD

 当初、ハワード・ホークス監督作品として製作始められたのだが、なぜか製作のハワード・ヒューズがしゃしゃり出て「監督」までやってしまったという作品。どうもハワード・ヒューズは、この作品のためにオーディションで選んだジェーン・ラッセルに入れ込んでしまい、彼女をスターにするために必要以上に尽力した結果らしい。このあたりはスコセッシの映画『アビエイター』でちらっと描かれているらしいのだが。

 骨組みはしっかりした映画である。脚本にベン・ヘクトも加わっているし、撮影はおととい観た『真珠湾攻撃』にもかかわっていたグレッグ・トーランド。『真珠湾攻撃』と同様に、ウォルター・ヒューストンが出演しているし、音楽はヴィクター・ヤングである。

 ストーリーはあのビリー・ザ・キッドをメインに、彼の伝説には欠かせないパット・ギャレットを絡め、さらにドク・ホリディとジェーン・ラッセル演じるリオという女性、さらに「レッド」というキッドの愛馬も重要な役を占め、3人の男と1人の女、そして1匹の馬との愛憎関係というか奪い合い、4角関係というか馬を加えて5角関係の物語なのか?

 前半はけっこう面白いのです。キッドがリオと知り合い、重傷を負ってリオの看病を受けるあたりまで。ストーリーラインはしっかりしているし、やはり何といってもグレッグ・トーランドのカメラがすばらしい。
 やはりしっかりとした脚本、そして腕の立つカメラマンとがいれば、それなりに「映画」なんて成立してしまうのではないのか、とも思わせられてしまう。
 ところが後半になると、「はたしてこの映画の主題は何なんだろう?」というような迷走を始める。「そこは軽く流せばいいんじゃないの?」というようなシーンにも異様に力を注ぐ演出で、これは全体にフラットな印象になってしまう。
 そもそも、ドク・ホリディとビリー・ザ・キッドとのかなりきわどい同性愛的関係に、「コイツ、ドクに惚れてるのか?」というようなパット・ギャレットが出てきて、さらにドクとキッドはリオのみならず、馬のレッドも奪い合うという複雑な関係で、そんな錯乱する関係すべてを均質に描こうとするから、これでは何かややっこしい前衛演劇である。
 脚本に何もかも放り込みすぎている感じもあるし、そのことを統括しなければならない「監督」が、どの場面にも均質に一様に力を入れ、「いったいどこがクライマックスだったんだろう?」みたいな映画になってしまった。

 映画にはたしかにまずは「脚本」は大事だし、そのあとは「美術」「照明」などを含めて「撮影」というものが重要なファクターにはなる。そしてそのおしまいに、「編集」を経て一本の「映画」が完成する。でも、その各々のシーンで、肝心かなめの俳優たちに「おまえ、こう動け」とか、「このシーンで描きたいのはコレだ!」とかいうのがどこかずれてしまったとしたら、もう修復は不可能になる。
 「監督」の役割とは何なのか、ということをわかりやすく示してくれたということで、なかなかに興味深い映画ではあったと思う。「映画」というものは、協同作業でひとつの作品をつくりあげていく。いったいそれはどういうことなのか、ということをこそ、この作品は観る人に教えてくれるようなところがあるのではないだろうか。

 なお、ここでビリー・ザ・キッドを演じたのはジャック・ビューテルという俳優で、この作品がデビュー作だったようだけれども、すっごいハンサムで、演技がダメということでもないと思った。しかしこの映画から何年か経って、ハワード・ホークスが『赤い河』に彼を起用としたらしいけれども、その役はけっきょくモンゴメリー・クリフトが演じることになり、つまりジャック・ビューテルは俳優として大成することはなかったのだった。映画界はこういう話にあふれているようだ。
 

2019-12-10(Tue)

 昨夜は雨が降ったようで、早朝にわたしが仕事に出るときにもまだ少し降っていた。気温は低いけれども、この土曜日曜ほどには寒くはないように感じた。昨夜顔に軟膏を塗ったおかげで「かゆみ」はすっかり消えたけれども、まだ顔全体が赤っぽい感じではある。

 注文してあったニェネントの固形食(カリカリ)が今日配達されるはずで、まっすぐ帰宅したけれどもまだ配達されていなかった。「配送状況」をみると「配達中」となっていて、いったいいつ頃配達されるのかはわからない。3時ごろになっても来ないので、「いいや!」と風呂に入り、そのあとに買い物に出た。そのあいだに配送されたらそれはそれで仕方がない。また明日にでも再配達してもらうしかない。

 玉子、そしてとんかつソースなどがなくなってしまった。ウィンナもハムもない。北のスーパーが玉子もウィンナも安いので買いに行く。このスーパーも「キャッシュレス」というか、カードにチャージしておけばレジでの現金は不要なわけで、先日そのカードを受け取ったのだが、これが意外とめんどうだ。まずはチャージする機器が別に用意されているわけではなく、チャージも支払いもすべてレジを通過したあとにやる。まあそれはいいのだけれども、使うときにはキャッシュカードのように挿入口からカードを挿入するのだけれども、入れる方向が違っているとマシーンはストップして、そのたびに係員の手を煩わせなくてはならない。これが普通のカードの挿入と概念が違うというか、図柄のプリントされた方を裏側にして挿入しなければならないし、さらに挿入方向は一方向しか許されない。間違えた入れ方をしたのであれば、差し戻して「やり直してください」とすればよさそうなものなのに、いちいちマシーンがストップしてしまい、店員に来てもらわなくてはならない。今日もわたしはカードの入れ方を間違えてしまい、ストップしてしまったのだが、はっきりいって店員も対応がめんどうくさそうで、わたしが悪いことをしたような気分で、わたしもあまりいい気分にはなれない。「客が間違えなければいいのだ」ということだろうが、そういう、単純な「エラー」対策がなっていないシステムだろう。システムとして好感は持てないのは確かだ。

 6時ぐらいに帰宅してもまだ配達はされておらず、「まあお勤めの人の住まいに確実に配達するにはこのくらいの時間の方が確かだろうな」とは思う。
 スーパーで「カツオの刺身」などを買ったので、食事はニェネントくんといっしょに同じものを食べた。こういうのは久しぶりのことだ。ニェネントのために「カツオ」をとってテーブルの端においてあげると、ニェネントはテーブルの下から「ちょん、ちょん」と前足を繰り出して「カツオ」を引っかけ、テーブルの下に引きずり込んでかじりつく。こういうニェネントの姿は、「野生」を思わせられる。「そういうパートナーと暮らしてるのだな」と、あらためて思わせられる感じがした。

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 食事を終えてDVDを観て、9時にもなったので「もうこの日の配達はないのだろう」と寝てしまうが、9時半を過ぎてチャイムが鳴り、ようやく配達された。「夜分遅くになって申し訳ありません」と、若い配達員はあやまっていたけれども、こんな時間まで配達が終わらないというのは過剰労働ではないのだろうか、とは思った。どこかで「無理をしろ」という要請があり、その始末を現場の人がつける。わたしは別に無理して今日配達してくれなくってもいいのだけれども、「早いことがサーヴィスだ」という声があるのだろう。
 

2019-12-09(Mon)

 今日からは「カフカ全集」の第4巻を読み始めた。さいしょに『田舎の婚礼準備』という、書き終えられなかった小説の断片があり、そのあとはアフォリズムなどのノートの断片が続く。カフカの言葉でもっとも有名な「君と世の中との戦いには、世の中の方に味方せよ」というのはここにあった。第3巻よりは読み進めやすいのではないかという気がする。

 顔のかゆみがひどくなり、顔全体も赤みを増して人前に出て行けるようなものでもなくなってしまった。ちょうど自宅駅前に皮膚科のクリニックがあり、仕事を終えて帰宅する前にそのクリニックに寄って診てもらった。
 とりあえず「弱い軟膏」で様子をみてみましょうということで、その軟膏を処方されて帰宅した。どうも、治癒にはしばらく時間がかかるのだろうか。まあ診療費も処方された軟膏も経済的に「コレはいたい!」というほどでもなかったのでよかったが。

 そういう、外見的も含めて「ヤバい!」と病院に行ったりすると、よけいに外出とかしたくなくなるわけで、まあ映画とかなら暗闇の中だからいいかとか思うが、今は人に会いたくもないし、部屋にこもっていたい気分だ。せいぜいニェネントくんと仲良くしようか。

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 夕方から、ハワード・ヒューズが監督したという『ならず者』を観始めたのだが、今日は途中でストップ。

『真珠湾攻撃』(1943) ジョン・フォード、グレッグ・トーランド:監督

真珠湾攻撃 [DVD]

真珠湾攻撃 [DVD]

  • 出版社/メーカー: IVC,Ltd.(VC)(D)
  • 発売日: 2010/03/25
  • メディア: DVD

 今日12月8日は、78年前に日本軍(日本海軍)がハワイのオアフ島真珠湾アメリカ軍艦隊と基地とを奇襲した日。つまり「太平洋戦争」が本格的に始まってしまった日である。アメリカ時間では12月7日で、アメリカでは「December 7」として記憶されている。

 この映画は、アメリカ海軍のプロデュースで製作された記録~プロパガンダ映画で、「共同監督」としてジョン・フォードと共にグレッグ・トーランドの名があるのだけれども、このグレッグ・トーランドという人物は本来撮影監督、それも名カメラマンという人物で、『嵐ケ丘』や『怒りの葡萄』、『市民ケーン』などの撮影を担当した人だけれども、残念なことに1948年に44歳で早逝されている。
 この映画でどのようにグレッグ・トーランドが「監督」としてかかわっていたのかはわからないが、当然、記録映像以外の部分での撮影は彼があたっている。

 さてさて、日本軍の奇襲を受け、アメリカとしては「ジャップめ、やりやがったな! こうなったらてめえらのことコテンパンにのしてやるぞ!」という気分もあっただろうし、そういう「戦意高揚映画」になりそうなものだけれども、それがそうではないのだから驚いてしまう。

 映画の前半は、US(アンクル・サム)という人物(ウォルター・ヒューストン~この人はあのジョン・ヒューストンのお父さんなのだ)の書斎で、訪れたミスター・Cという人物(ハリー・ダヴェンポート)との長い対話で、そもそも「ハワイ」とはどのような「地」なのかということを、「地政学」とはいわないまでも延々と語られる。美しい観光地であり、サトウキビとパイナップルの生産を伸ばして潤う土地。そしてさまざまな移民の中で、日系移民の数がハワイ全人口の3分の1を超えることなどが映像と共に語れらる。その日本人の文化とはどのようなものか。特に、ハワイにもある神社を通して「神道」のことが説明されるのだが、つまり戦前~戦中の神道とは「国家神道」であり、天皇制と深く結びついていた。ここでの「神道」の説明には違和感もあるのだけれども、アメリカからみた、日本を「戦争」へと突き進めさせる「原理」としての「神道」を、このように解釈したのだという空気はわかる。

 そんな日系人たちが、そういう日本の不穏な動きに合わせて「あいつら、諜報活動やってるんじゃないの?」というシーンはいっぱい出てきて、それで12月7日になるわけだ。アメリカ側の伝達ミスから防御態勢が取れなかったことも語られるが、攻撃が終わったあと、日本で報道される「アメリカ軍に壊滅的打撃を与えた」というのはちがうよ、ということをしっかり語り、破壊された艦船もほとんどが復旧修理され前線に復帰する様子が映される。
 そして、この奇襲攻撃で命を落とした何人かの兵士のことが語られ、(おそらくは)アーリントン墓地の映像になる。
 日系の人たちもまた、この思いがけぬ「奇襲」によって、ハワイでの生き方を大きく変えていく様子も紹介され、スパイ容疑者は拘束される。

 観ていて思ったのは、「なんと日系のハワイ住民に対して<公平>な作品だろう」ということで、たしかに「諜報活動への関与」の疑いは語られるのだが、だからといってアメリカ本土であったように日系人を隔離して収容所に送るなどということはない(まあ住民の3分の1が日系だとそういうことは<非現実>的な対応ではあるだろうが。
 そしてやはり、前半のUSとミスター・Cとの対話で、ここには「清く大きく成長するアメリカという国」への希望が、特にUSによって語られる。もはや他国を侵略して国家の発展を目指すわけではないということなのだが、まあこのことは太平洋戦争後の東西対立とかヴェトナムとかで崩れていくわけだろうけれども。

 アメリカ軍は、発注して出来上がったこの「映画」に不満で、本番の「奇襲」シーンの映像32分間だけを編集して公開したという。
 まあこの作品、「フン! 日本なんかよりアメリカの方が強いんだぜ!」というプロパガンダもあるのだけれども、「てめえ~っ!やりやがったな~!」という感情的な文脈も少なく、そういう「今はアメリカで生活する」ハワイ在住の日系人に<公平>な作品だ、という印象を受けた。
 

2019-12-08(Sun)

 日曜日。今日は晴れ空で昨日までのような寒さはない。かなりしのぎやすい日ではないかと思う。昨日一昨日とお出かけしなかったので、「ちょっとお出かけしてみようかな?」という気分にもなったけれども、買い物をしておかなくてはならないし、「DVDも観たいよね」という気分だし、「無駄遣いはやめましょう」コールも頭の中で鳴っているわけだし、けっきょく今日も出かけないで過ごした。まあ昼前に東のスーパーまで行って、週初めの恒例の「バナナ」などを買う。

 買い物に行く途中の道ばたの花に、茶色い蝶(蛾?)がとまっていたのを写真に撮った。調べたら「ヒメアカタテハ」という蝶だった。よく見る蝶だ。

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 実は、しばらく前から顔にかゆみがあったのだけれども、今日はそんな「かゆみ」も強くなった。鏡を見ると部分的に顔の皮膚が赤く変色し、その表面に白い「フケ」のようなものがついている。見た目にもかなりヤバい。調べると「乾癬」というヤツではないかと思う。これは「通院事項」である。明日、早急に仕事のあとに皮膚科の病院に行くべきだろう。‥‥こうやって、「金を貯める」という夢は崩れていくわけだな。

 夕食はお手軽に「お好み焼き」ということにして、買ってあったキャベツもあらかた食べてしまった。こうやってひとりで自炊していると、例えば白菜だとかキャベツだとかをひと玉買って、まあ何日かかけてでもダメにしないうちに完食できると、かなりの「達成感」があるものだ(けっこう、食べ終わらないうちに傷んでしまって廃棄することもある)。例えば「レタス」とかだと、完食はたやすいのだが。
 金曜土曜と、あまりに早くに就寝し、「それでは寝すぎだろう!」とも思ったのだが、この日も8時を過ぎたらベッドに行き、多少は本(柄谷行人の『トランスクリティーク』)も読むのだが、よくわからないので読んでるうちに眠くなってしまい、じきに寝てしまうのである。
 

『ジョアンナ』(1968) マイケル・サーン:脚本・監督

 先日観たタランティーノの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の中でいっしゅん、壁に貼られたこの映画のポスターが映され、わたしも公開当時にこの映画を映画館で観たことを思い出した。「DVDは今リリースされているのだろうか?」とチェックしてみたら、意外と廉価で売られていたものでついつい買ってしまったもの。しばらくそのまま放置していたが、ようやっと観てしまった。

 1967年だか68年だか、「スウィンギング・ロンドン」といわれた頃のロンドンが主な舞台。ヒロインのジョアンナは美術学校へ通うためにロンドンに出てきて、つまりは自由で奔放、ファッショナブルな彼女の生活が始まる。

 ジョアンナを演じるのは、この作品でいきなり主役デビューしたジュヌビエーブ・ウエイトという女の子だが、はっきりいって表情に乏しく、とても女優業が勤まるとは思えないわけで、じっさいに以後の映画界でのキャリアはないといってよく、それよりもあの「ママズ&パパス」のジョン・フィリップスの3番目の妻として記憶されることになるだろうか。彼女は今年の5月に亡くなられているようだ。
 他には死期の近い富豪役でドナルド・サザーランドが出演し、映画の基調を築く重要な役を彼らしくこなしている。監督のマイケル・サーンはこのあとに1~2本撮っているようだが、けっきょくそこまでで終わってしまわれたようだ。

 67年とか68年のロンドンの美術学校というと、のちにロックの世界で名を残す多くのミュージシャンが通過したところでもあるのだけれども、ここでの主人公は女の子だし、この映画にはそんな音楽を志す若者は登場しない。主人公のジョアンナは別に(例によって、というべきか)美術を熱心に学ぶわけではなく、友だちの女の子と毎夜「発展」を楽しむというか、ま、何をやりたいのかはっきりしない子なのだけれども、ドナルド・サザーランドとの出会いで「愛」の重要さを学び、友達の兄と愛し合うようになる。彼は事件を起こして刑務所入りするのだが、彼女は彼の子を産むことを決意してロンドンを離れるのだ。

 ラストにパディントンの駅から帰路に着こうとするジョアンナに、それまでの登場人物らと、楽屋オチ的にスタッフら全員がホームでジョアンナを祝福するのだ。このラストシーンは評判になったというか、わたしもこのシーンだけは記憶していた。