ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-04-13(Sat)

 昨夜、ニェネントくんの攻撃を受け、実に久しぶりに「流血の惨事」になってしまった。
 わたしは夜にロールパンを食べていたのだけれども、ニェネントくんがわたしの食べているロールパンを欲しがって、テーブルに上がってきて前足でちょっかいを出してきた。「これはダメです!」とあげないようにしていたら、わたしの左手の人差し指に前足の爪を立てて、パンチしてきたのだ。
 みごとに爪先が指に食い込み、めっちゃ痛みが走った。これは怒って当然のことで、やられたらすぐに叱らないといけない。「痛い!」と叫んで、「こら!」とニェネントくんの頭を強く押した。ニェネントくんは怒られたことがわかったようで、リヴィングへ行ってしまったが、わたしの指からは血が吹き出してきた。傷口は小さいのだけれども、ネコの爪にはいろいろ病原菌が付着している可能性もあり、あとでけっこう「おおごと」になってしまったりする。消毒してバンドエイドを巻いておいた。

 前にニェネントくんにやられて「流血の惨事」になったのはもう6年ぐらい前のことになるが、そのときは「遊んではいけないモノ」で夢中に遊んでいたのをやめさせようとしたら、けっこう怒ってわたしの手に「本気」で噛みついてきたのだった。
 普段ニェネントくんと遊んでいるときに「甘噛み」されたりすることはあるが、「甘噛み」と「本気」とにどれだけ差があるのか、そのときに思い知った。「痛い」なんてものじゃない。
 そのときはあとで傷口が赤く腫れ上がり、外科医のお世話になったのだったが。

 そのあとニェネントくんは、和室のベッドのそばでずっと大人しくしていたけれども、そのままにしておくとずっといじけっぱなっしになってしまうかと思い、寝るときに抱き上げてベッドに行き、鼻の頭をなめたり、いっぱいかまってやった。
 しばらく遊んでニェネントくんはベッドから降りて行ったけれども、それからちょっとして、ニェネントくんは自分からベッドのわたしの上にあがってきて、「もっと遊んでちょうだい!」となったのだった。怒られたことを引きずってはいないようで、ちょっと安心した。

     

 わたしに爪を立てたりすることは「やってはいけない」と、ちゃんとわかってくれればいいが、怒られたことをいつまでも引きずられても困ってしまう。ネコを怒るのはむずかしいのだ。
 タイミングを逃して、「やっちゃいけないこと」をやってから時間が経ってから怒っても、ネコは「何で怒られているのか」わからないのだ。「やっちゃいけないこと」をされたら、そのときすぐに怒らないといけないのだ。

 今日は天気も良く、暖かい一日になった。これからはもう最高気温が20℃を下回ることもなくなるみたいだ。桜の花も散って、「春本番」になる。
 ニェネントくんも、昨夜叱られたことはもう忘れてしまったように、わたしのそばでゴロゴロしている。「わたしに爪を立ててはいけないこと」は、ちゃんと学習していてほしいけれども。

 午後からは、昨日観た『時の翼にのって』をもう一度観た。昨日観てわからなかったことの一部は「そうだったのか」と納得できたが、やはり「わからないものはわからない」映画だった。
 夕食には、先日書いたようにストックのいっぱいある野菜(ジャガイモ、タマネギ、ニンジン)を使って、お得意の「ダブリン・コデール」をつくったのだが、また「あとは時間をかけて煮込むだけ」というのに時間をかけ過ぎてしまい、ほぼ煮詰まってしまったのだった。食べられないことはないが、本来の味ではなくなってしまった。「やれやれ」である。
 

『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』(1993) ヴィム・ヴェンダース:監督

 「ベルリンの壁」崩壊後に撮られた、『ベルリン・天使の詩』の続編。前作から6年、ダミエル(ブルーノ・ガンツ)はマリオン(ソルヴェーグ・ドマルタン)と結婚して娘も生まれていて、「天使の家」というピザハウスを開店している。残されていたカシエル(オットー・ザンダー)が今回、人間になるのだが‥‥。
 「天使」の視点(つまりモノクロ)で描かれる前半は『ベルリン・天使の詩』と同様に「人々の心の声」が聞かれるのだが、今回は脚本にペーター・ハントケが加わっていないせいか、「詩的感慨」は少し薄いように思った(撮影もアンリ・アルカンではなくなっていたし)。そう、それでも、今回はダミエルの代わりというか、カシエルのパートナーにラファエラ(ナスターシャ・キンスキー)という女性の天使が登場している。

 前作でダミエルが「人間」になりたいと思ったのは、マリオンという存在ゆえだったと言えるけれども、カシエルにはそこまでの「契機」はない。ただ前作でも自分の前で自殺した人を見て絶望したように、「人の命を(暴力から)救いたい」という気もちはずっとあったようだ。それで、高層マンションのベランダから誤って落下したライサという女性をとっさに助けようとしたとき、フッと人間となって彼女の下に立ち、彼女を受け止めるのだった(このライサ、映画ではのちも重要な役回りである)。
 人間にはなったけれどもすぐには「これ」という目的もないカシエルを狙ったのが、堕天使のエミット・フレスティ(ウィレム・デフォー)。エミットは天使の姿も見えるが、人間として人からも姿を見られるという存在。彼はカシエルの「鎧」をだまし取るし、酒の味も覚えさせる。カシエルはルー・リードのライヴに出かけて彼の歌を聴き、「なぜ自分は(彼の歌のように)善良な人間になれないのか」と悩む。
 カシエルは暴力を忌み嫌い、「人間を暴力から守りたい」という意識はあるようで、美術館でナチスの「退廃芸術展」に出品された作品を観て「ナチス」の所業を思い出し、卒倒してしまう。また、チンピラが隠し置いた拳銃を取り上げ、「これがわたしの最初の仕事だな」などという。

 しかしカシエルは「武器の密売」「ポルノの販売」を行うベイカー(ホルスト・ブッフホルツ)という男に拾われ、危うく彼の命を救ったことから彼の「片腕」になるよう誘われる。
 ベイカーはカシエルを地下の倉庫に連れて行き、彼の「商品」を見せるのだが、それはダビングされたポルノ・ヴィデオであり、ナチス時代から隠されてきた「武器弾薬」なのであった。
 「なんということだ。わたしはこんな世界に首を突っ込んでいたのか。このようなことは止めなければならない!」と決意したカシエルは、ダミエルやこのときまたベルリンに来ていたピーター・フォークらの助けをあおぎ、地下倉庫に侵入。ポルノヴィデオは焼却し、武器弾薬は倉庫から出して「はしけ船」に積み込むのだった。
 ところがその「はしけ船」がベイカーの敵組織に乗っ取られてしまい、ダミエルやベイカーらは人質にされてしまう。エミットは「解決するのは君の役目だ」とカシエルに伝えるが、それはカシエルの「死」を意味していた。

 以上が「メイン」のストーリーだろうか、とも思えるけれども、これ以外に映画を膨らませるさまざまなディテールが盛り込まれているし、そんなディテールにも映画を考えるうえで「重要」と思えるものがあることは言うまでもない。
 その背後には「ナチス」の時代からのドイツの歴史、「ベルリンの壁崩壊」以降のベルリンのありようなどが影を落としているようだし、そういうサブの人物もいろいろ登場している。
 例えば戦中にナチス要人の運転手をしていたコンラートという老人の話。彼はある人物がアメリカへ飛行機で亡命しようとしたとき、「彼について行かない」というその妻を飛行機に乗せるのを拒否して逃亡した。その妻の娘が、カシエルが助けたライサではあったし、亡命した男と一緒にアメリカへ行った息子が、つまりはベイカーなのであったりとか。ベイカーという男、いかにも東ベルリンとかで暗躍していたであろうような人物だったが。
 自分の過去を回想して考え込むコンラートに寄り添っていたラファエラは、「あなたは見出された人」と彼に語りかけ、その声はしっかりとコンラートに伝わっていたりする。

 それから、誰からの指令なのかわからないが、その亡命した男の妻の、現在の身辺調査をしているヴィンター(リュディガー・フォーグラー)という探偵がいたのだが、何だか人物調査をしているこの男、その考えていることもちょっと常人とレベルが違うようなところもあり、天使たちと同じように思えてしまった。そしてこのヴィンター、なんとエミットに射殺されてしまうのだ。「エミットって、人間を殺す力を持っているのか?」と驚いてしまった。「堕天使」たる由縁か。
 しかしこのエミットという存在、どうやら「時間」をつかさどる力を持っているらしく、奇妙な懐中時計を持っているし、ラストには(何をやったのかわかんなかったけれども)時間に小細工をしていたようだった。

 とにかく終盤の展開はちょっと「ご都合主義」というか、そんなにラストに向けて何もかも一気に収束していいものかとは思うし、まず、カシエルの大きな目的だった「武器弾薬」の処理がいったいどうなってしまったのか、まったくもって不明なのである。このことがわたしにはいちばん引っかかる。

 ラストにラファエラがカシエルをいだいて、「人間は目から入って心を照らす光を忘れ、目から出て外を照らす心の光のことも忘れた」と語った。
 『ベルリン・天使の詩』とは異なった角度から眺められた、「もうひとつの<天使>のファンタジー」であることは間違いないのだが、ちょっと一本の映画作品として、あたふたし過ぎていた印象ではあった。
 

2024-04-12(Fri)

 この日は東京では少し雨も降ったらしかったけれども、わたしは一歩も外に出なかったのでこのあたりではどうだったかはわからない。

 やはりこの日は大して書くこともないので、昨日の「ふるさと公園」の様子を書いておこうと思う。
 「ふるさと公園」に着く前に、駅に近い児童公園のそばを通るのだが、その場所は「ノラ・ミャオ」と「サビーネ」の棲み処。先日も「サビーネ」に出会ったばかりだったが、この日も同じ場所で「サビーネ」の姿を見た。
 古い石碑の上にちょこんと座っている姿、たたずまいにはどこか「風格」を感じさせられるようだ。

     

 この日の「コブハクチョウ」は、カップルの2羽がそろっていて、巣ごもりしている1羽のそばにもう1羽が近づいて行くところが見られた。巣ごもり中の1羽に気をつかっているというか、「そろそろ交代しようか?」とか言っているのかもしれない。

     

 そんな「コブハクチョウ」の近くに、この日は1羽の「サギ」も来ていた。首が長い。おそらくは「ダイサギ」ではないかと思われる。

     

 「ふるさと公園」の出口の方へと歩道を歩いていると、一組の母子連れとすれ違った。お母さんといっしょの4~5歳の女の子が、持っているプラスチックのケースを持ち上げてわたしに見せてくれた。ケースの中では1羽のモンシロチョウがはばたいていた。笑顔で「すごいねえ」と声をかけたけれども、考えたら「すごいねえ」というのは似合った言葉ではなかったな。何といえばよかっただろうか。
 お母さんの方を見ると、お母さんは大きな捕虫網を持っていらっした。親子でチョウを捕まえに公園に来られていたのだな。わたしも歩いているとモンシロチョウの姿を見ることも多い。お母さんのお顔を見て微笑んだら、ニッコリと微笑みを返していただいた。

 テレビの報道を見ていると、元横綱の曙関が亡くなられたというニュース。まだ54歳でお若いのに、やはり「相撲」というのは身体に無理をかけて酷使するから、まだ若くして亡くなられる方が多い気がする。去年は元寺尾の錣山親方が亡くなられたし、千代の富士だって「若死に」だったと思う。

 このところずっと、МLBの大谷選手の通訳の「賭博問題」が連日のニュースになっているけれども、この日の報道だと大谷選手の被害額は日本円換算で24億円以上になりそうだという。ちょっと想像のできない金額。企業でも経理担当が会社の金を何億も着服していたなどという事件が時にしてあるけれども、いかにギャンブルで金銭感覚がマヒしていたとしても異常だ。
 当人も「自分は今、<地獄>にハマろうとしている」との自覚はあったのじゃないだろうか。「この<地獄>から抜け出すのに、いつか<運命の女神>が降臨して来てギャンブルに勝ちつづける日がくるのを待とう」とか思っていたのだろうか。そのうちに首まで<地獄>にハマってしまい、「このままでは<死>のお迎えを待つしかない」となっていたのだろう。それよりは自白して、「生きる」道を選択したのか。彼の精神状態の<告白>を聞いてみたい気がする。

 午後から、先日観た『ベルリン・天使の詩』の続編、『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』を観た。世界の「負」の部分も描いて、なおかつ「ファンタジー」におさめようとしたのかと思うけれども、終盤の展開がわからなくなってしまった。これは2回観たらわかるとか、そういうのではないと思った。このあたりからしばらく、ヴェンダース監督の劇映画は「不調」に陥っているのでは?(ドキュメンタリーは佳作・傑作がつづくようだが)

 夜はパトリシア・ハイスミスリプリー・シリーズの最終作、『死者と踊るリプリー』を読み始めた。イヤなヤツがリプリーの住まいのそばに転居してきて、というストーリーらしいが、これもハイスミスの「実体験」を書いたものなのか、と思ってしまう。
 

『リプリーをまねた少年』(1980) パトリシア・ハイスミス:著 柿沼瑛子:訳

 原題は「The Boy Who Followed Ripley」だから「まねた」というニュアンスではなく、「ついて行く」とか「追いかける」という言葉の方がふさわしいだろう。
 わたしが読んだのは1996年に刊行された「河出文庫」なのだが、同じ「河出文庫」で2017年に新装再刊されていて、柿沼瑛子の翻訳は同じなのだけれども、どうやら巻末に新たに「解説」が掲載されているようだ。どうもその解説には、この作品執筆当時にハイスミスが交際していた女性との関係、そしてこの『リプリーをまねた少年』への反映などが書かれているらしい。
 わたしが先日観たドキュメンタリー『パトリシア・ハイスミスに恋して』でも、そのあたりのことは語られていた記憶はあるのだけれども、当時この『リプリーをまねた少年』は読んでなかったこともあって、具体的な記憶は残っていない。
 ただ、その『パトリシア・ハイスミスに恋して』のパンフレットをみると、『リプリーをまねた少年』が発表された1980年頃にはハイスミスはドイツのアーティスト・女優のタベア・ブルーメンシャインと交際していたとあり、つまりこのタベア・ブルーメンシャインとの交際が、『リプリーをまねた少年』に反映されたのだろう。

 じっさい、ハイスミスは『リプリーをまねた少年』執筆時の1976年にベルリンを訪れ、そのときの見聞、体験をノートに書いていたらしく、そのノートがこの『リプリーをまねた少年』の中でトム・リプリーの体験として書かれているわけだろう。
 『リプリーをまねた少年』の中にベルリンでのゲイ・バーの印象的な描写があり、そこにトム・リプリーは女装の姿で訪れたりもするのだけれども、それは『パトリシア・ハイスミスに恋して』で言及されていた、デヴィッド・ボウイも訪れていたというゲイ・バーがモデルなのではないかと思われる。

 ひとつ、この『リプリーをまねた少年』で気がつくのは、ディテール描写が細かいこと、トム・リプリーの主観描写が多く感じることだったのだが、それもまた、ハイスミスが自らのノートブックをそのまま『リプリーをまねた少年』に生かしているのだろうということで、ここではハイスミスは、自らをリプリーに同化させて描いているのではないかと思ってしまう。

 この作品でのリプリーは、これまで3作のリプリー像のイメージとはけっこう異なっているだろう。作品の冒頭から、住まいのベロンブルの建物のメンテナンスを行い、妻のエロイーズと語らうリプリーの姿は、洗練された生活をエンジョイする「若くして足を洗ってカタギになった元ヤクザ」とでもいった感じで、けっこう今までにない柔らかい空気感がある。
 そ~んなところにフランクという少年(16歳)がやって来て、ベロンブルの庭の手入れの手伝いなどを始める。リプリーはこの少年、先日新聞沙汰になっていたアメリカの富豪実業家の次男で、車椅子を使っていたその実業家が崖から転落して死亡したしばらく後に家出したという少年なのではないかと推測する。じっさいリプリーの推理通りで、少年は実家にあったダーワットの絵のことから「トム・リプリー」の存在を知り(このあたりはリプリー第2作『贋作』からの流れ)、リプリーに会うためにアメリカからフランスに渡って来たのだった。
 さらにリプリーは推理を進め、「フランクの父親の死はフランクがやったのではないのか」と問い詰めるが、フランクは「自分が車椅子を崖のふちで押して落とした」と語る(これが「事実」なのかどうかはだんだんと疑問にも思えるようになるが)。
 リプリーはフランクに「父親殺しのことはわたし以外の誰にも言わない」と誓わせ、早くアメリカの実家に戻るべきと説得するが、フランクの気持ちの落ち着くまではいっしょに過ごすことにする。じっさいリプリーは、フランクの中にかつてグリーンリーフを殺害したときの自分を重ねてみていて、ある種の心の絆のようなものを感じているようだ。
 それはフランクの側も同じで、フランクは自分が知ったトム・リプリーの経歴から、「リプリーは人を殺したことのある人物ではないか?」と認識し、リプリーに接近していたのだった。

 フランクの気分転換にと、リプリーは2人で観光気分でハンブルグへ足を伸ばし、そのあとベルリンにも行く。リプリーはフランクといっしょに動物園へ行ったりして、「何だ?この2人は?」ってな感じではある。
 ところがそのベルリンで、ちょっとしたスキにフランクは誘拐されてしまうのだった(富豪の息子のフランクが家出しておそらくはヨーロッパにいることは新聞ネタにはなっていたわけで、「誘拐して身代金をせしめよう」とする悪党はいたわけだ)。
 リプリーはフランクの捜索のためにフランスに来ていた探偵のサーロウ、フランクの兄のジョニーから誘拐犯からの連絡内容を聞き、よく仕事を手伝っていたリーヴス・マイノット(前作『アメリカの友人』での仕掛人)の友人のエリック(最近、やはりリーヴスとの縁で彼をベロンブルに宿泊させていた)、さらにその友人のペーターらと連絡を取り、ベルリンのゲイ・バーを身代金受け渡し場と誘拐犯らに伝えさせ、自ら女装してそのゲイ・バーへ出向くのだった(ちょっとビックリの展開)。
 ゲイ・バーにあらわれた誘拐犯の目星をつけ、リプリーは犯人のあとをつけて誘拐犯のネジロへ行き、単身犯人の一人を殺害してそこにいたフランクを救出するのであった。幸いにも犯人らは背後関係もないチンピラだったらしく、まさに「一件落着」だったらしい。この作品後半での、そんなエリックやペーターらリーヴス・マイノットつながりの連中とリプリーとの、友情をも思わせる信頼関係というのも今までになかったもので、リプリーの「人間らしさ」みたいなものを垣間見る気分ではあった。

 アメリカの実家にもフランクの居所が連絡できたことにもなり、「めでたしめでたし」かとも思えるけれどもさにあらず。兄とのやりとりで恋人に去られたことも知ったフランクは、父とのこともあり大きな「アイデンティティーのゆらぎ」に囚われていたのだ。
 けっきょく、リプリーもフランクと共にアメリカのフランクの実家へ行くことになる。フランクの誘拐事件は警察沙汰にはなっていないが、サーロウからの連絡でフランクの母親は「リプリーこそ事件を解決した人物、恩人」と認識している。
 リプリーはフランクが立ち直るため、(柄にもなく?)フランクの精神的「師」の役を演じようとしているのだが。

 今までの作品のトム・リプリーは、「今オレがやっていることは<悪事>だ」という認識、もしくは「ここで目の前の人物を始末しないとヤバい」という認識で無慈悲な殺人を行ってきたわけで、それは自分自身を救うためのエゴイスティックな「犯罪」だったわけだけれども、この作品でのリプリーは、「あくまでフランクを救うため」という行動原理があるのみで、エゴの入り込む余地もない。
 そういう意味では、先に書いたように「足を洗った元ヤクザ」が、人助けのために「自分の過去のスキル」を使ったもの、という展開のストーリーだろう。

 もうひとつ、「同性愛」という問題があるけれども、この作品ではリプリーがフランクに抱いた気もちもあるだろうが、それ以上にフランクの側にリプリーを慕う気もちが強いようで、その描写の端々にパトリシア・ハイスミスの「うまさ」というのが光っている。

 ラストは、何となく想像もついていたラストだったけれども、またベロンブルに帰還してきてエロイーズと会い、また屋敷のメンテナンスのことを考えるリプリー、どことなく「ふっ切れた」明るさに満ちているように読み取った。
 これまでのパトリシア・ハイスミスのどんな作品とも異なるテイストのこの作品、けっこう「傑作」なんじゃないかな、などとは思うのだった。
 

2024-04-11(Thu)

 というわけで、今日は三ヶ月に一度の「国分寺詣」、「てんかん」のクリニックへ通院するのである。通院といっても今は処方される薬で「てんかん」の発作は抑えられているので、特に診察、治療などということをやるわけではなく、半年に一回の血液検査のほかは前回の検診日以降の変化だとか、つまり「問診」がメインになる。
 ただ「はい、その後異常はありません」と話して、薬を処方してもらうためだけに国分寺まで行くのは「不経済」かもしれないけれども、いちおう「てんかん」専門のクリニックとして定評のあるクリニックだし、そのあたりをしっかりと診察してくれる医師というのは近郊の病院にはいなかったりするし、もしもまた発作が起きたりしたとき、信頼度はまるで他の病院とは差がある。それにわたしには、三ヶ月に一度国分寺まで出かけるというのも、いい気分転換にもなっているだろう。

 予約時間は10時半で、ウチから国分寺までは2時間近くかかるので、朝ドラの「虎に翼」を見終えてから家を出る。
 駅への途中の神社の桜の木は、まさに今こそ「満開」という感じだった。小さな小さな神社だけれども、ウチの近辺ではこの神社の桜がいちばんみごとなのではないかと思う。

     

     

 駅に着くとけっこう人が多くってびっくりするが、まだまだ時間は9時前。「通勤ラッシュ」の時間なのだ。
 御茶ノ水まで出て中央線に乗り換えても、武蔵野線を使ってぐるりと埼玉県とかを回って西国分寺に出て、ひと駅だけ国分寺まで乗るのも、運賃もかかる時間もほとんど変わらない。でも御茶ノ水経由は電車も混みそうなので、たいていは武蔵野線経由で行く。武蔵野線に乗っている時間はちょうど1時間ぐらいなので、「そろそろ乗り換えだ」とかソワソワしないでも読書に没頭できるのもいい。この日も、読んでいる『リプリーをまねた少年』をたっぷり読み進めることができた。

 この日は前回の血液検査の結果が出ていたのを聞いたけれども、前回までちょっと基準値に足りなかった「赤血球数」「血色素量」「ヘマクリット値」も正常の範囲内におさまり、「クレアチニン」というヤツと「総蛋白」とがわずかに基準値に足りないだけになった。血液に関してはめっちゃ「健康」である(「血液検査」は内科クリニックでもやってるので、そっちでも「異常なし」。まあ「ダブル検査」やってるわけだけれども)。

 診察が終わり、薬も処方されて時間はだいたい12時ジャスト。「せっかく国分寺に来たのだから、桜の花でも探索しようかな」とも思ったけれども、特に国分寺駅周辺には「桜スポット」もないようで、まっすぐ帰ることにした。「国分寺に来た」という、証拠の写真を一枚撮っただけ。

     

 コンビニでペットボトルのカフェオレとカレーパンを買い、駅のホームのベンチで「昼食」のつもり。めっちゃ倹約の昼食だ。
 自宅駅に着いて1時半。これで内科クリニックの午後の診察は3時から始まり、実質2時半ぐらいにはクリニックへ行ってることができるので、「もういっそゆっくりと帰宅して、帰宅したらすぐに内科クリニックに行くことにしよう」ということにして、先日のように「ふるさと公園」に寄って帰ることにした。

 さて、この日の「ふるさと公園」訪問については、どうせ明日は外に出かけることもなく、日記に書くこともあまりないことになると予想されるので、明日書くことにしよう。

 それで「ふるさと公園」をのんびりと歩いて帰宅すると、もう2時半になっていた。内科クリニックに行くにもちょうどいいだろうと、ニェネントくんの夕食を早めに出してあげて、クリニックへと家を出た。
 午前中だと、9時の診察開始前にロビーには人がいっぱいなんだけれども、午後はそういうことはないのか、ほとんどロビーで診察を待っている人もいなかった。おかげで3時ちょっとすぎには診察(こちらも基本は「問診」だけみたいなものだが)も終わり、そのまま北のスーパーへ足を向けた。この日のスーパーでは、けっこう大きなブロッコリーが158円で売られていたのを買った。あと、賞味期限が迫っていて半額だった「冷やし中華」の生麺など。

 帰宅して、夕食に買って帰った「冷やし中華」をつくって食べ、あとは早めにベッドに行って、読んでいた『リプリーをまねた少年』を読んだ。残りは50ページぐらい。無事、予定通りにこの日に読了した。
 次はパトリシア・ハイスミスの書いたリプリー・シリーズのさいごの一作、『死者と踊るリプリー』を読むのだ。
 

2024-04-10(Wed)

 内科医から処方されていた薬がなくなったのでクリニックへ行かなければならないのだが、月曜日から「行かなけりゃ」と思っていながら行かないまま。今日はクリニックは休みなので明日になってしまうのだが、明日は国分寺の「てんかん」のクリニックの予約をしてあり、朝から国分寺へ行かなければならない。おそらく帰宅するのは昼過ぎになってしまうだろうが、そのあとに内科のクリニックへ行くことにして、明日は一日「クリニック通い」という日にしようと思う。イヤなことはまとめてやってしまおう。ニェネントくん、明日はけっこう長い時間「お留守番」だよ!

     

 注文してあった「猫草」栽培セットが届いていたので、この日午前中に種をまいて仕込んだ。もう2回目だからけっこう慣れたものだ。これで2~3日明るくならないように新聞紙とかで覆っておき、そのあと「伸びろ!伸びろ!」と日光浴させるのだ。
 いずれ軌道に乗ったら、種だけを買えば良くなるのだろうか。

 昨日今日と、食事はインスタント麺ばっかりになっている。あまりよろしくないので今日の夕食はパスタにした。変わり映えしないか。
 インスタント麺とはいえ、野菜とかシーフードとかいろいろ入れて栄養には気をつかっているつもりだけれども、そもそもインスタント麺類は塩分過多だろうから、もっと控えなくってはいけない。
 それで今、野菜類が高くなってしまっている。タマネギ、ジャガイモの価格は変わらないのだけれども、キャベツや白菜が高くなったなと感じる。そもそも白菜などはひと玉200円ぐらい(安ければ100円)で買えたけれども、今は店頭にカットされたものしかなく、それが四分の一でも150円ぐらいするのだ。
 あと、ブロッコリーも高くなっていて、前のように100円で買えたりなどというのは「夢の世界」のことになった。
 ちょうどこの日、そのあたりのことをテレビでやっていたが、やはり「暖冬」の影響というのが、今出て来ているらしい。冬が暖かかったものだから成長が早く、白菜などはもう、ぜ~んぶ出荷が終わっちゃってるらしい。それでそのあとがけっこう寒くなってしまったので、「今から」という野菜は成長が遅れているらしい。
 わが家の場合は、駅前の小さなスーパーが農家からダイレクトに仕入れてていたりして「激安」で、ジャガイモ、タマネギ、ニンジン、ナスなどはヘタしたらそこらのスーパーの半額ぐらいで買えるから助かっているのだけれども、そのスーパーでも今はブロッコリーや白菜は店頭に並んでいないのだ。もうこれからはジャガイモ、タマネギ、ニンジンを使うような料理ばかりをやろうかとも思うが、「毎日カレーかよ!」という感じになってしまう(わたしの場合は「ダブリン・コデール」という「必殺料理」があるのだけれども)。

 今日は昼から、昨日観た『ベルリン・天使の詩』をもう一度観た。そのあとはNHKの「ニュースーン」を見てしまったが、「こんなものなのか」という感じは少し見えてきたか。視聴者から「グダグダ感がいい」などと言われていて、わたしもそんな感覚を持っていたところだった。「今、ナマ放送中です!」って空気感。
 でもこの日は、国賓として訪米中の岸田首相の晩餐会に「YOASOBI」も出席するというニュースに、МCの伊藤海彦氏が「なんでYOASOBIなんですか?」と解説者に突っ込んでいたが、その突っ込み方はけっこう良かった感じ。こういうトークをもっと聞かせてほしいところ。
 そういえばこの日、先日「モノを作る人は知性が低い」ともとれる発言をして批判され、ついに知事を辞めることとなった川勝静岡県知事が辞表を提出したのだけれども、そのときに記者に「今の心境は?」と聞かれ、(用意してたわけだろうが)細川ガラシャの辞世の句「散りぬべき 時しりてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」を引いて語ったのだった。もうね、最後の最後まで人を不愉快にさせないと気が済まないのだろうが、「散りどきを心得てこそ花も人も美しい」ってな意味のこめられた細川ガラシャの辞世の句、川勝氏は決して美しくなどないし、「自画自賛」とはこのことだろう。自分では「ふん、言ってやったぜ!」と、「イタチのさいごっぺ」ぐらいの気持ちだったのだろう。イタチ以下の人物だぜ。

 夜は寝る前にまた『リプリーをまねた少年』を読む。「後半になれば読むスピードが上がる」とのルーチン通り、けっこう一気に読み進め、残りは150ページぐらいになった。明日は国分寺まで行くので、電車の中で読んだりしていたら明日中にも読了できるのではないかと思う。
 

『ベルリン・天使の詩』(1987) ヴィム・ヴェンダース:監督

 わたしが「Amazon Prime Video」で観たのでは、この映画のタイトルは「Wings of Desire」となっていて、「それじゃあウォン・カーウァイ(『欲望の翼』)じゃないか」とか思ったのだが、「Amazon Prime Video」のフィルムは「アメリカ版」だったようで、じっさいこの作品のアメリカでのタイトルは「Wings of Desire」なのだった。う~ん、どうもこの作品にそぐわないタイトルではないかと思ってしまったが、ドイツ語の原題は「Der Himmel über Berlin」で、「ベルリンの空」という意味らしい。
 こう見てみると、邦題の『ベルリン・天使の詩』というのはなかなか「いい感じ」のうまい邦題だな、などとは思ってしまう。これは勝手な想像だけれども、このタイトルのおかげで女性観客は増加したんじゃないかな、とは思ってしまう(じっさい、日本を訪れたヴェンダースはこの作品上映中の映画館へ行き、そこに女性観客しかいないことに驚いたという)。

 脚本はヴィム・ヴェンダースとペーター・ハントケ(最近ノーベル文学賞を受賞された)とが共同で書き、撮影はそのときほぼ引退状態だったアンリ・アルカンを説得して復帰させたのだった。アンリ・アルカンは映画の中の天使の視覚をあらわすため、古い絹のストッキングをフィルターとして使用したという。
 そのようにこの作品、登場する天使の視点から描かれることが多いけれども、その画面はモノクロ。つまり天使は色彩を認識できないらしいが、人の心の中を聞くことが出来る。人間には天使の姿を見ることは出来ないが、子供たちには見えるらしい。
 映画にはダミエル(ブルーノ・ガンツ)とその友のカシエル(オットー・ザンダー)という二人の天使が主に登場するけれども、舞台となるベルリンの街には多くの天使がいて、人々の心の声を聞いて記録しようとしている(特に図書館には大ぜいの天使が人々に寄り添っている)。天使は心くじけそうな人の心の声を聞くと「なんとか励ましてあげよう」とする。あるときは人に「立ち向かう勇気」を与えるときもあるが、あるときには人を救えなかったりもする。
 前半はまだ東西に分離されているベルリンの市街、まだ大戦の傷跡の残る市街を舞台に、さまざまな人々の心の声が観客にも聞こえてくる。ときどき画面はフルカラーになるのだけれども、それはその視点は「人間の視点」ということだろうか。
 アンリ・アルカンのカメラは柔らかに移動し、カメラ自体が「天使」のようである。じっさい、図書館の中をカメラがゆっくりと進むとき、そこにいる天使たちはカメラを認めて「カメラ目線」になり、カメラに向かって微笑むのだ。

 「子供が子供であった頃‥‥」という詩のような言葉が何度も繰り返され、それは天使ダミエルの言葉なのかもしれない。そんな言葉も合わせて、この映画全体が「一編の詩」のような印象にもなっていたと思う。
 わたしが好きだった言葉は、「子供が子供であった頃、みんなが魂を持っていると思っていた。そして魂はひとつなのだ。」という言葉。

 アメリカからピーター・フォークが映画出演のためにベルリンにやって来て、廃墟の中の撮影セットでナチス時代の映画に出演する。ピーター・フォークは撮影の合間に、そばにいるダミエルに「君のことは見えないけれども感じるよ。そこにいるんだろう?」と声をかける。
 市内で興行していたサーカス団は閉鎖、解散することになり、サーカス団の空中ブランコ乗りである孤独な女性、マリオン(ソルヴェーグ・ドマルタン)の存在にダミエルは感情移入するようになる。
 ダミエルはだんだんに「観察者」であることを捨て、「天使」から「人間」になり、「経験」ということをしてみたいと思うようになる。そこでマリオンを知ったことは決定的だったのかもしれない。
 カシエルとそういう話をしていたダミエルは気を失って倒れ、カシエルはダミエルを置いて行く。気づいたダミエルは目にするすべてのものに「色」があることに感動し、通りかかった人に「色の名前」を聞いたりする。人間になったダミエルは無邪気にはしゃいでいるようで、まるで子どものようであった。そのとき彼が語るのは、「子供が子供であった頃、初雪が待ち遠しかった。今だってそうだ」などという言葉で、それはダミエルの魂が「子供」であることをあらわしているだろう。
 ピーター・フォークにあいさつしたダミエルは、ピーター・フォークもかつて「天使」だったことを知る。そしてダミエルはマリオンに会いに行くのだった。

 ストーリーを抽出して書けばとても単純なものだけれども、この作品、一本の作品としてまさに「ベルリン」の市街を舞台に、そこにいる人々の魂、心が映像と重なり合う姿を受け止める作品、といえるかと思う。まさに「一編の詩」。
 ラストの、マリオンがダミエルに語りかける「独白」のような言葉は、やはり先日観た『パリ、テキサス』のラストの、ナスターシャ・キンスキーの独白を思い起こさせられてしまう。
 それと印象に残るのは、飛び降り自殺しようとする男をとめられなかったカシエルが絶望し、戦勝記念塔の上から自分も飛び下りるシーンで、そこまで静かな動きだったカメラが急速に乱れ、揺れながらベルリンの市街を高速で通り抜ける映像。心に残るものだった。

 映画のラストに、映画で使われた楽曲のリストが出てきて、そこにはローリー・アンダーソンなどの名前もあったのだけれども、わたしがおどろいたのは、わたしの大好きな2つのバンド、「タキシードムーン」と「ミニマル・コンパクト」の名前があったこと。特に「ミニマル・コンパクト」は、昔わたしが夢中になった「When I Go」という曲なのだった。
 映画を観ていてその音楽が聴こえてくれば気がつかないわけもなく、おそらくは「背景音」的な扱いだったのだろう。これを聴こうとしたならヴォリュームをとてつもなく上げ、近所から苦情殺到のレベルにしないと聴こえてこないことだろう。こういうのは映画館にはかなわない(ヘッドフォンをすれば聴けるのだろうか?)。