ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『孤独の街角』パトリシア・ハイスミス:著 榊優子:訳

 わたしはよく知らないけれども、一時期ミステリーの世界で「イヤミス」などという言葉が席巻し、それはつまり「読んでいや~な感じになるミステリー」ということらしく、それは国内ミステリー作家らについて言われていたらしいけれども、その海外作家の代表として、このパトリシア・ハイスミス、そしてシャーリイ・ジャクスンらが挙げられていた記憶はある。まあそのおかげでシャーリイ・ジャクスンなんかはちょびっと脚光を浴びて、昔の著作が再版されたようだったけれども、パトリシア・ハイスミスに関してはどうだっただろうか?
 だいたい、パトリシア・ハイスミスの作品っていうのは、けっこう半数ぐらいが「扶桑社ミステリー文庫」から邦訳が出ていたのだけれども、もう今はぜ~んぶ絶版。つまりはパトリシア・ハイスミスなど、もう誰も注目していないというところだろうか。

 ハイスミスといえば、あのアラン・ドロンの主演した『太陽がいっぱい』だとか、ヒッチコックが映画化した『見知らぬ乗客』の原作者として知られていると思うけれども、これらの作品は特に「いや~な感じがする」わけでもなく、卓越したプロットによる「完全犯罪計画」サスペンスとして読まれることだろう。
 じゃあなんで彼女が一時期は「イヤミスの女王」などと呼ばれることになったかというと、たしかに、性根腐った「悪人」が犯罪を犯すというのではなく、逆に「この人、善人じゃん」とか、「ただちょっと気が弱かっただけじゃん」みたいな人が犯罪に巻き込まれてしまい、みじめに死んでしまうような作品もあったせいだろうかな。それと、犯罪者の心理をあれこれ解明し、犯罪者の中の、いや、人間存在そのものの「弱さ」を描いたせいでもあるのだろうか、とも思う。そして、彼女の作品の登場人物がつく「嘘」というポイントもあるのか。そういう彼女の作品が「イヤミス」と認識されたということだっただろうか。
 しかし、そんな「イヤミスの女王」とか言われていた時期、ハイスミスのそんな「いやな感じの」作品は、だいたいみ~んな絶版になっていたんだからしょうがない。

 前置きが長くなってしまったけれども、この『孤独の街角』もまた、今は「絶版」である。原題は「Found in the Street」で、1986年の作品。彼女の晩年の作品ではある。
 それで、わたしが読んだ第一印象を先に書けば、「コレって、ミステリーでもサスペンスでもないじゃん!」ということになる。いちおう、ある女性が殺害されるのだけれども、そこまでに「犯人は誰よ?」ということではないし、犯罪自体がテーマかというと、そういうことでもない。特にこの作品の前半はニューヨークに住むちょっとアッパーミドルの家族の、その旦那の視点からの生活の様子が事細かに描かれつづけて、いささか「なんやねん?」という印象は受ける。
 作品は、そのアッパーミドルの「駆け出しの挿画家」のジャックという男からの視点と(ジャックには6歳ぐらいの娘もいるが、画廊に勤める妻のナタリアは同性愛者でもあり、実に奔放な生活をしているというあたり、ちょっと「普通ではない」家族関係だろうか?)、それともうひとり、一人暮らしで守衛をやっているラルフという男(過去に離婚していて、その元妻への憎悪感はけっこう激しい)からの視点、この二つから成り立っている。

 ジャックが落とした財布をラルフが拾ってジャックのもとに届けたことから、この二人は知り合うのだけれども、ジャックはある夜にふと立ち寄ったカフェで、そこの若いウェイトレスのエルジーが、しょっちゅう店に来るラルフにいささか迷惑していることを聞く。それは歪んだ「善意」と「正義感」からのモノで、エルジーがこのニューヨークの街で「堕落」してしまうことを心配し、ほとんどストーカー的にカフェを訪れてはエルジーに説教をたれているのだ。こういうのは「普遍的」なことというか、今でもこういう、相手のことを心配しているようで実は「ストーカー」という輩は世の中にいることだろう。
 ジャックはジャックでまた、そのエルジーが実に魅力的であることに心打たれ、彼女のことが忘れられなくなる。ジャックはエルジーという少女のことを妻のナタリアにも話し、ナタリアもまたエルジーに会ってその魅力にうたれ、ついには自分の人脈からエルジーを「ファッションモデル」への道に誘う。ジャックはエルジーの絵を描き、会ううちに彼女に「愛してるよ」とかのたまうし、実はエルジー自身も同性愛者だったわけで、エルジーとジャックの妻のナタリアは関係を持ってしまうようだった。
 街角でジャックとエルジーとが一緒にいるのを見たラルフは、「ジャックこそがエルジーを堕落させている野郎だ」と思い込む。そんなとき、ファッションモデルへの道を順調に上りつつあったエルジーは、自宅アパートの前で殴り殺されてしまうのであった。その知らせを聞いたラルフは、「ジャックこそがエルジーを殺した犯人だ」と思い込む。実はエルジーを殺したのは、エルジーの古い知り合いの同性愛者の女性だったのだが。

 ‥‥ま、ラルフはラルフで「愚か」なわけだけれども、一方のジャックもまた、「何やってるんやねん」という愚かさはある。二人とも、エルジーという若い女性の中に自分の「幻想」を投影しているようだ。この二人はエルジーの死後に鉢合わせして、壮大な「殴り合い」をやらかすわけだけれども、それまではラルフのことを「歪んだ人格」と思っていたジャックは、そのあとに「あの男(ラルフ)もやるじゃないか」とかちょびっと認めてしまったりするし、それはラルフの方でも同じようだ。お互いが抱いていた「幻影」を認めたということなのか。

 この作品で主に書かれるのがジャックの一家の「アッパーミドル」な生活ぶりでもあり、この時代のニューヨークの街の「バブリー」な空気感がよくわかるし、ハイスミスの描写から、ジャックの「軽薄さ」というか、奥さんのナタリアからみた、旦那であるジャックの「安全さ」みたいなモノもみえてくるだろうか。
 もう一方のラルフだって、そこまでに貧困な生活ではないのだが、読んでいるとこの人物の「倫理観」「正義感」というものも、けっきょくはエルジーという若い女性に「眼が眩んで」のことであり、それはジャックだっておんなじなのだろう。お互いにラストには「あいつだってなかなかのものさ」となるのもコミカルではあるけれども、ハイスミスの「リッチだろうがプアだろうが、考えは同じよ」みたいな視線も感じさせられ、やっぱり「ハイスミスの視線」に魅了される作品ではあった、と思う。