ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『水の墓碑銘』パトリシア・ハイスミス:著 柿沼瑛子:訳

 1957年発表の、パトリシア・ハイスミスの長篇第5作(ただし、第2作『キャロル』はいわゆる「ミステリー」ではなく、ハイスミス名義での発表ではなかったが)。この前作は1955年の『太陽がいっぱい』で、さらにその前は1954年の『妻を殺したかった男』。ちなみにデビュー作は1950年の『見知らぬ乗客』である。
 このあたり、デビュー時からのハイスミスの著作を思い返してみると、どれも「殺人」が取り扱われているとはいえ、通常のミステリーとはどこか違う。『太陽がいっぱい』は映画版とはちがって「完全犯罪」を遂行する。しかしその前の『妻を殺したかった男』は逆に、じっさいには誰も殺さなかった男が、ただ他人の犯罪をマネしようとして警察に怪しまれ、ドジにドジを重ねて自滅する話である。ハイスミスが「犯罪」を描こうとするその視点は、通常の「勧善懲悪」というものではなく、犯罪を行う犯人の心理を分析するようではあり、そこにいわゆる「倫理観」は、まったく持ち込まれていない。このことはパトリシア・ハイスミスの作品にさいごまで一貫していることではあるし、だからこそわたしはハイスミスの作品のファンでもあるのだけれども。

 この『水の墓碑銘』も、実はそういうハイスミスの姿勢はつづいていて、ちょっと結末をネタバレしてしまいたくもなる(実はいちど、結末を書いてしまったのだけれども、「こういうネタバレをやってはいけない」と、書き直したのでした)。

 主人公のヴィクは資産家の生まれで、ほとんど趣味のように、凝った印刷技術で自分の好みの本を印刷発行する印刷所を経営し、そして著者のハイスミスと同じく「カタツムリの飼育」という趣味を持ち、町のコミュニティでは「名士」で通っている。
 妻のメリンダとのあいだには6歳になる娘のトリクシーがいるが、この妻のメリンダが問題で、外から町にやって来る営業マン、不動産屋、ミュージシャンらの若い男らととっかえひっかえに「仲良く」なり、ヴィクと暮らす家にひんぱんに招いたりもする。
 もちろん町の人々のあいだでもメリンダの奔放な男関係は取りざたされているようだが、ヴィクはそのようなことはまったく意に介していないようにふるまっている。しかしその内心では疑心暗鬼に囚われ、激しい嫉妬心を抱いている。

 ついにある家で行われたパーティーで、偶然メリンダの交際相手の男とプールで二人だけになってしまったヴィクは、男をプールの中に押さえ込んで溺死させる。
 うまくふるまったヴィクは人々から疑われることもなかったが、ただメリンダはヴィクが殺したのだとヴィクを責め立て、私立探偵まで雇って捜査するが犯行は立証出来ず、私立探偵を雇ったこともばれ、町の人は逆にヴィクに同情的になる。
 そのうちにメリンダは町に来た別の男とまたまた親しくなり、自宅にも何度も招くのだった。たまりかねたヴィクは、メリンダに「離婚してくれ」と言うのだが、自分から離婚するのではなくメリンダの方から離婚を申し出てほしいと要求するのだ。しかし、メリンダは男と町を出て行くと言う。それはヴィクの容認出来ることではなかった。
 ヴィクは車で町を行くとき、町角を歩いているその男を見つけ、自分の車に誘い込み、郊外の水辺の切り立った石切り場跡に連れて行き、そこで男を殺害して死体を水中に沈める。

 男が行方不明になり、メリンダは当初こそ騒ぎ立てるのだが、そのうちにいつしかヴィクへの攻撃をやめ、ヴィクとメリンダとの関係は奇妙なかたちの親密さを取り戻したように見えるのだった。そして‥‥。

 そもそも、ヴィクはそんなメリンダとさっさと自分から別れてしまえばいいのにと、誰もが思うだろう。町のたいていの人もメリンダのような妻と暮らすヴィクに同情的なのだし。
 それはどうも、かんたんに言えば「ヴィクの見栄」なのか、自分からメリンダを捨てるという役を避けているようだ。それでメリンダの方から「離婚話」を持ち出してほしいなどと言いながらも、メリンダから「駆け落ち話」を聞くと、嫉妬で身もだえするほどなのだ。
 けっきょく、ヴィクにとっては「町の名士」としての評判を守ることが第一で、つまり「外面」と「内面」とのギャップ、「二面性」というか。
 ここでも、家庭内ではメリンダに暴力をふるう、「暴力亭主」としての「二面性」というあり方も考えられる(一般にこういうあり方は実際に多くあることだろう)のだけれども、ひとつには家庭内では娘のトリクシーにとっての「いい父親」であろうという気もちがブレーキをかけ、メリンダから町の人々への評判を気にかけたのかもしれない。

 ま、そういう作品なのだけれども、実はわたしがこの小説でとにかく面白かったのは、ヴィクの「第二の殺人」以降、メリンダが(表面的に)ヴィクに折れて、二人で「幸せな家族」を演じているシーンでの(実はこのとき、ヴィクはもうメリンダのことをまったく愛していない自分に気づいているのだけれども)、娘のトリクシーをはさんでのやり取りの「まるで漫才のような」滑稽さで、わたしは二人の会話を読みながらも、何回も何回も声を出して笑ってしまったのだった(「電車の中」でなくてよかった)。
 つまり、このラスト近くの「お互いの本心を隠しながらの」見せかけの「幸せな家族(ハッピー・ファミリー)」というものの面白さこそ、結末の衝撃以上にこの小説の「読みどころ」だったようには思う。
 『妻を殺したかった男』でも、主人公のあまりのドジぶりにページをくくりながら大笑いしていた記憶があるのだけれども、パトリシア・ハイスミスのこういうユーモア感覚が読めるのは、この作品あたりまでだろうか(あとは、いくつかの短編作品で味わえることになるか)。