ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『扉の向こう側』パトリシア・ハイスミス:著 岡田葉子:訳

 ハイスミス1983年の作品で、彼女の後期の作品がけっこうそうであるように、「ミステリー」とか「サスペンス」というような作品ではない。彼女の著作一覧をみると、この『扉の向こう側』の前の『イーディスの日記』から、もう「ミステリー」でも「サスペンス」でもなく、ハイスミス女史はその晩年に大きく作風を変化させたようだ(この時期に「トム・リプリー」シリーズを2作書いてはいるけれども)。

 『イーディスの日記』は、ある家庭の母親のことを書いたもので、実はその母親の息子はろくでなしの出来損ないなのだけれども、母親は自分の日記には息子はすばらしい子で、優秀な成績で大学を卒業し、幸せな結婚をしているなどと、「嘘八百」をずっと書きつづけるというお話だったけれども、この『扉の向こう側』もまた、ある家族の「歪み」の話ではあろう。

 原題は「People who knock on the door」で、「ドアを叩く人々」。これは、聖書とかパンフレットを持参して各家庭を巡回してまわる「宗教勧誘」の人らのことで、同じようなのは日本にもいて、ウチにも来たものだった。
 この本はそういうダイレクトに「宗教勧誘」の人々を描いたものではないが、アメリカの保守的なキリスト教信者、「ファンダメンタリスト」とか「キリスト教原理主義者」らのことの出てくるストーリーではある。最近になって(トランプが大統領になって以来)また、そんなアメリカの「キリスト教原理主義者」らは活発になって来ているようだが、このハイスミスの小説が書かれた時制ではアメリカの大統領はレーガン。まさに保守反動化の時代だったわけで、この作品、そんなアメリカへの、パトリシア・ハイスミスの「嫌悪感」がダイレクトにぶつけられているようでもあり、まあハイスミス女史を怒らせると怖いのである。

 舞台はアメリカ中西部のちょっとした小都市で、主人公(この作品の視点となる人物)はアーサー・オールダーマン、17歳。家族は保険外交員の父と、町でボランティア活動などもやっている母、そして14歳の弟との4人家族。
 アーサーは大学進学を控え、家を出て、外の市のちょっとクラスの上の大学に行きたいと思っている。そして同級生のマギーという女性と付き合い始め、ついにベッドを共にするところまで進展、どうもそれまで童貞だったらしいアーサーは「夢中」になってしまうようだ(このあたりの、アーサーがマギーに電話したりする内容が「おっ、がっついてますね!」って感じでほほえましい)。
 ところがそんなとき、弟のロビーが扁桃腺炎をこじらせ、生死の境をさまようまでになる。ロビーはなんとか回復するが、父は「自分が必死に祈ったことが通じたのだ」と思い込み、以来人が変わったようにせっせと教会に通い、さまざまなパンフレットを読むようになり、家族にも「さらに強い」信仰を求めることになり、父は教会内で知り合いも増えるのだ。
 それが間の悪いことにマギーが妊娠してしまい、マギーは親にも打ち明けて中絶することになる(17歳だし、当然の判断だろう)。ところがその話がどこからか(どうやら高校の同級生かららしい)教会に漏れ、アーサーの父の知るところとなる。父はすでに「キリスト教原理主義者」であるからして、「中絶にはぜったいに反対」の立場からアーサーを責め立てる。「彼女に<子を産め>と言え」と迫るのだ。教会からもアーサーを諫める男がとつぜんに家に来たりもする。アーサーの母や祖母はアーサーに理解を示すが、回復していた弟のロビーはただ父の言うことに耳を傾け、アーサーを批判するようなことも言う。けっきょく当然ながらマギーは中絶し、父はアーサーに「幻滅」する。父の援助を得られなくなったアーサーは心ならずも市内の大学へ進学し、父のいる自宅も暮らしづらいので大学の寮へ入る。家族関係は崩れてしまいそうだし、実は他の市の大学へ進学したマギーには、別の恋人が出来てしまう。それでもアーサーは少しずついろいろな生き方を学び、学業も進展して行く。しかし、教会に通うとある「あばずれ女」からトラブルが起き、そこにアーサーの父も深くかかわるのだ。そしてついに、そのことからアーサーの家庭に「大きな事件(悲劇)」が起きるのだ。

 読んでいて、この本はいちおうそんな「キリスト教原理主義」への批判を交えながら、アーサーの大人へのたしかな成長を描くという、パトリシア・ハイスミス版の「ビルドゥングスロマン」なのかいな、などと思っていたが、まあ正直言ってちょびっと読みあぐねてはいた。
 いちおう語り手である「かなり自由な意識を持った」アーサーと、その母、祖母、そして隣人のおばさんや友だちら、そしてなぜかマギーがアーサーが別れた(?)あともアーサーに親切にしてくれるマギーの両親などの「偏見を持たないだろう」グループがあり、その一方に、父をはじめとした教会周辺の「偏見だらけ」のグループという「二項対立」があまりに「露わ」で、図式的すぎると思いながら読んでいた。
 でもまあ、「ひとつの作品」として決着が着かないとならないわけだし、その「二項対立」に不穏なところもあるわけだし、「これはそのうちに<事件>が起きるか?」と読み進めると、全体の3分の2ぐらい読んだところで「これはヤバい」という展開(その前のところからも、「この人物はヤバいな」という展開はあるけれども)。そして、残り百ページぐらいのところで「大事件」となるのだった。
 まあそれこそハイスミスの作品らしい「家庭崩壊」なのだが、そんな苦難も乗り越えて母や祖母と共にステップアップしていくのがアーサーなのであり、家族は新しい一歩を踏み出すことになるだろう。

 けっきょくは「キリスト教原理主義者」らの「ひとりよがりの<正義感>」を告発するということで、今の日本にもリンクするような普遍的なストーリーではあるだろうとは思ったが、しかしそれでも、「ではアーサーはどこまでも正しいのか?」と問えば、そうでもないあたりが興味深いというか。
 だいたい読んでいて、「このアーサーという男には<人情味>が欠如しているのではないのか?」と思えるところが多々ある。それが作者のハイスミスが意図して書いたのかどうか、判断がつかないところがあるから困るのだが、ただ、その教会での「トラブルメーカー」になった、長距離トラックの運転手らのたまり場になっているカフェでウェイトレスをやっている「頭の悪い」という女性に対して、作中でほとんど誰もが彼女を忌み嫌っているし、ハイスミス自身の筆致も「手厳しい」ものに思える(わたしはどこか、その女性にも同情すべきところがあるだろうとは思ったのだが)。この作品の「二項対立」の一面ではあるけれども、まあけっきょく、パトリシア・ハイスミスも、「頭が悪い」ということはそれだけで「罪」だと思っているのではないか、みたいには読んでしまった(ハイスミスも「社会運動家」ではないことだし)。まあそんな彼女の環境を変えてあげられなかった「教会」に、科(とが)があるということだろうが。