ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『クリムゾン・ピーク』(2015) ギレルモ・デル・トロ:脚本・監督

 古びた廃墟のような大きな洋館に幽霊が出没する映画ということで、ジャック・クレイトン監督の『回転』(1961)(原作はヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』)や、ロバート・ワイズ監督の『たたり』(1963)(原作はシャーリイ・ジャクスンの『山荘奇談』)に連なるゴシックな「幽霊屋敷」モノか、とも思ったけれども、『回転』、『たたり』ではヒロインが正常な精神ではないところに大きなポイントがあったけれども、この『クリムゾン・ピーク』のヒロインのイーディス(ミア・ワシコウスカ)はメアリー・シェリーが好きだというゴシック小説好きの、小説家志望のいたってノーマルな若い女性である(ただ、ほとんど世間には出ていないようではあり、「世間知らず」と言えるのかもしれない)。早くに亡くなった母が「幽霊」として彼女の前にあらわれ、「クリムゾン・ピークに気をつけなさい」と語る体験がある(これがリアルな体験なのか、彼女の創作なのかはひとつのポイントだと思う)。

 時代は20世紀初頭。イーディスの父はアメリカのニューヨーク州ニューヨーク市とはちがう)で事業を営む実業家だけれども、そこにイギリスから「準男爵」の肩書きを持つトーマスという男(トム・ヒドルストン)が姉のルシール(ジェシカ・チャステイン)と共にあらわれ、開発中の掘削機への出資を求めてくる。イーディスの父は彼に「うさん臭さ」を感じ、調査させ、その結果出資を断るのだが、イーディスはトーマスが彼女の書いている小説をちゃんと読んでくれ、評価してくれたこともあって彼に惹かれる。
 あるとき、イーディスの父は何者かに撲殺されるが、「転倒しての事故死」とされる。映画での映像では犯人はトーマスのように見える。
 父の資産のすべてを相続したイーディスはトーマスと結婚し、イギリスの片田舎、荒涼たる土地に建つトーマスの屋敷、「アラデール・ホール」へと移る。屋敷では姉のルシールが待っていた。
 しかしその半分廃墟のような古い屋敷で、イーディスは多くの幽霊と出会うようになる。屋敷に隠された蓄音機などから、イーディスは屋敷に秘められたトーマスとエミールの過去を知ることになる‥‥。

 先に書いておくと、この映画は一冊の本が閉じられるショットで終わり、その本のタイトルこそが「クリムゾン・ピーク」であり、本の著者はイーディスの名が書かれている。
 つまり、この「映画」は、そのイーディスの書いた「クリムゾン・ピーク」という小説を映像化したものだ、ということができると思う。だからつまり、このストーリーはすべて、イーディスによる「創作」だと考えられるだろう。
 まあそう考えたから謎が解けるとか、面白くなるというわけでもないけれども、映画の構造としてそういうポイントを押さえておくことはいいかもしれない。まあつまり、「作家になりたい」という夢を持っていたイーディスは、その夢をかなえたわけだ。

 そうするともちろん、イーディスが「幽霊を見た」ということは、イーディスの小説のための「創作」だと考えることもできるだろうし、そもそも、トーマスとルシールの姉弟は小説のための「創作」ではないかとも思える。いや、実在はしていたかもしれないが、この作品のどこかの時点から先は、イーディスの「想像」に取って代わられるわけだ。
 そして、イーディスが自分の小説の主人公を「自分自身」とすることで、小説は「ハッピーエンド」で終わることが決められてしまい、そして、『ねじの回転』や『山荘奇談』のように、主人公の精神が歪んでいるのではないかという設定は排除され、主人公はあくまで「ノーマル」であり、ラストには自分の生命を守るために勇敢な行動もみせるわけだ。
 つまり、作家である人物が自分を主人公とした小説を書く場合、その作品はひとつの「うぬぼれ鏡」となり、自分をヒロイックに表出しがちにはなるだろう。この映画は、そのいい例であろう。

 監督(脚本も書いている)のギレルモ・デル・トロが、そのあたりどこまで「自覚的」であったかは、わからないといえばわからない。ただ映画の中で、イーディスが「小説家志望」ということでジェイン・オースティンの名を持ち出されてからかわれる場面があるのだけれども、実はそのジェイン・オースティンの1803年の作品『ノーサンガー・アビー』は、なんと、そんな「ゴシック小説好き」のヒロインが、中世の古い屋敷に招待されるというストーリーらしく(読んでないが)、この映画にどこか似ているように思えてしまう。その『ノーサンガー・アビー』を読まないと何とも言えないが、ギレルモ・デル・トロはそのあたりは意識しているのではないかと思う。

 映画として、まずはその古い廃墟のような古屋敷の造形にただただ惚れ惚れするし、特に前半の、深い赤と緑の色彩の対比に目を奪われる。この「赤と緑」ということも、映画の中に「赤と緑を認識できない」という色盲症のことが語られてもいるので、監督がこの「赤と緑」を意識していたことはまちがいないと思う。
 「幽霊」の造形とかで、わたしの好みではないところもあるけれども、ほとんど登場人物三人だけといっていい、そのミア・ワシコウスカトム・ヒドルストン、そしてジェシカ・チャステインがそれぞれに「はまり役」ではあり、いろいろなところでの「メタ」な要素を読み取れるという意味で、やはりさすがはギレルモ・デル・トロ監督、という感想は持った。