ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『11の物語』(1970) パトリシア・ハイスミス:著 小倉多加志:訳(3)

「ヒロイン」(The Heroine)

 パトリシア・ハイスミス24歳の時のデビュー作。このときからすでに、人の精神の歪みを冷徹に捉える視線は恐ろしいほどに鋭かったようだ。

 主人公のルシールは21歳。クリスチャンセン家で募っていた保母(ナニー)に応募してきたのだ。面接でのルシールの「ぜひ、子供さんのいるおうちで働きたかった」という熱心さ、一途さに打たれ、クリスチャンセン夫人は彼女を雇い入れることにする。以後、ストーリーはルシールのそのときそのときの考え、思いを描きながら彼女の行動を追っていく。

 まず使用人部屋に落ち着いたルシールは「これからは仕合わせな、人のためになる生活をはじめて、今までのことは何もかも忘れてしまうのよ」と考える。

 「今までのこと」とは何なのか。どうもヤバそうな気配がする。クリスチャンセン家で仕事を得る前はニューヨークでメイドを七ヶ月やっていたというが、そのときに何かあったのか。このあともルシールは、「精神科のお医者さんも、わたしは他の人と別に変わりはないと言ってたのだ」などと追想する。医者は彼女に「お母さんに緊張(ストレイン)が現れているというだけで、お父さんは正常なのだから、あなたが正常じゃないという理由は何もありません。あなたの家族との生活を忘れて、市外で勤め口を見つけなさい」と語ったのだった。実はその母親は、三週間前に病院で亡くなっているらしい。

 クリスチャンセン家には、9歳の兄と6歳の妹がいた。しばらくするうちにルシールは兄妹に献身的につくし、兄妹にも慕われるようになる。母親も「いい保母さんだこと」とルシールを信頼するようになる。
 しかしクリスチャンセン夫人がルシールにさいしょの週給を支払ったとき、ルシールは「とてもこんなものは受け取れない」と夫人に給金を返そうとする。ルシールはただクリスチャンセン家の人々の役に立ちたいだけで、そのことへの報酬などはいらないのだ。
 やむなく金を受け取ったルシールは、それでも自室で紙幣を細かく引き裂き、火をつけて燃やしてしまうのだった。彼女はその炎を見ながら、「あたしがどんなに役に立つか証明してみせればいいんだわ」と強く思うようになる。それは例えば、兄妹を死の危険から救い出すことだろうか。例えば妹が悪漢に襲撃されるが自分があいだに割って入って、自分は重傷を負うだろうが妹を助け出すようなこと。

 読んでいると、だんだんにルシールは「正常」ではないだろうと気づいてくることになる。ページをくくるごとに、彼女はどんな異常なことをやらかしてしまうのかと、恐ろしい思いに囚われてしまうだろう。そして最後のページでは「そう来たか!」という感じではあった。一流のサイコ・ホラーであろう。

 彼女の「異常さ」にどのようにその母親の存在が関係していたのかはわからないけれども、例えばわたしなんかでも、強盗事件のニュースを知れば「その場に自分がいたら事件をすぐに解決しただろうに」とか、子供が事件にあったニュースを知れば「わたしがいればその子供を守ってあげられただろう」とか、特にむかしは「夢想」もしたものだった。
 ルシールはそんな考えが肥大して、つまりは自分が「ヒロイン」になるべく、自分で「事件」を起こしてしまうという、「自作自演」の道を選んだのだ。


「もうひとつの橋」(Anothe Bridge to Cross)

 主人公のメリックは織物会社の経営者だが、四ヶ月前に交通事故で妻と新婚早々の息子とを亡くしていた。愛する者たちをいっしゅんに失ったメリックは「うつ」に取り憑かれ、医師たちはメリックがのんびりとヨーロッパに旅行に出て、各地で友人たちと会う予定を立てるようにと勧めた。
 まずメリックはローマの友人宅を訪れたが、そこに一泊したあと、ミュンヘンで別の友人夫妻と会うことにした。車での移動の途中、リヴィエラで道路をまたぐ陸橋から男が身を投げて自殺するところを目撃してしまう。

 メリックはいくつかの観光地のホテルに宿泊し、目撃した自殺事件のことが新聞に出ていないかとチェックする。
 自殺したのは32歳の失業中の男で、病身の妻と5人の子供(みんな10歳以下)とがいたのだった。自殺した男は「オレが死ねば、国は妻と子供たちにわずかでも年金をくれるだろう」と話していたらしい。
 ホテルがどこもしっくり来ないメリックは、小さな町のホテルに宿泊してみる。そのホテルにはテラスの向こうに小庭園があったのだが、けっこう荒れて「野趣に富む」風情を、メリックはすっかり気に入ってしまうのだった。日暮れどきに庭園に出てみると、奥には木に半ば隠れたベンチがあり、そこには新婚らしい若いカップルが座っていた。そのうちにどこやらか、ギターの音色も聴こえてくるのだ。

 しばらくそのホテルに滞在することにし、滞在客の知り合いもでき、町では貧しそうな靴磨きの少年とも知り合う。
 メリックは、自殺した男の住まい宛てにかなりの金額の為替を贈ることにして実行する。
 そのうち、ホテルにその少年を招き一緒にディナーを楽しもうと考え、ある夜に少年を招く。
 しかし次の日、複数の宿泊客が「持ち物がなくなった」とホテルに訴え、ホテルも皆も「あの少年がやった」と判断する。しかしメリックは「彼はそんな子ではない」と否定する。

 翌日少年に出会ったメリックは、少年に「本当のことを言えば金をやろう」と話すと、少年はあっさりと「自分が取った」と語るのだった。絶望したメリックは、少年に背を向けて立ち去るのだった。
 メリックが郵便局へ行くと、先に出した為替が戻って来ていた。「どうしたのだろう」と思うと、事情を知る局員がいて、その自殺した男の妻は子供らを連れて無理心中したのだという。
 彼はその夜、ホテルのロビーに「今夜はずっと庭で過ごしたい」と語り、一夜をお気に入りの庭で過ごすのだった。そのうちに雨が降り出したが、メリックはそのまま庭に居残った。
 いつしか雨もやみ、メリットは「いつまでもこうしていてもいけない」と最後にタバコを一服して、ロビーで清算してミュンヘンの友達夫婦の元へと向かうのだった。

 わたしは、この作品が「お気に入り」だ。そのホテルの庭の描写がしっとりとして情緒たっぷりだし、妻子を亡くしたメリットに追い打ちをかけるような「絶望感」もつらいけれども、彼はラストにしっかりとその「絶望」を克服したようだ。作品のさいごの言葉は、「次の旅の始まりだった」というものだ。わたしにはその言葉は(ハイスミス作品には珍しく)メリットの「復活」のように読み、わたし自身への「励み」になる気がした。ありがとう、ハイスミス


「野蛮人たち」(The Barbarians)

 主人公のスタンリーは、毎日曜日にはアパートの自宅(おそらくは2階か3階)で趣味の絵を描くことを楽しみにしていた。ところが毎週日曜日になると、アパートのそばで男たちが野球を始めるのだ。彼らの歓声がうるさく、絵を描くどころではなくなってしまう。
 同じアパートの上の階の老人が窓を開け、彼らに「静かにしてくれ!みんなひと眠りしようとしているんだぞ!」と声をかけるが、男たちは「オレたちは何も法律は破っていないぞ、くそったれ!」と答える。彼らは皆三十代の五人の男たちだった。
 そのあともいつまでも彼らは騒ぎつづけるので、スタンリーも窓を開けて「やめろ!」と声をかけたが、男たちは「うるせえ!」と、アパートの生垣に植えられた灌木の苗を引っこ抜くのだった。その灌木の苗はスタンリーが植えたものだったので、スタンリーは部屋をとび出して彼らのところへ行き、やめさせようとするのだが、彼らに押し戻されて転倒して部屋に戻る。

 彼らはバットを持ちだして野球をつづけるのだが、スタンリーは入り口に置いてあった石を持ち上げると、窓の下の男の頭をめがけて石を落とすのだった。
 石は命中したようで、男たちは「大丈夫か?」と声をかけている。そしてスタンリーの部屋の窓に石を投げて窓ガラスを割り、そのまま消えてしまった。

 この作品は一面でハイスミスの傑作長編『変身の恐怖』のヴァリエーションのような作品で、つまりその後スタンリーは「自分が落とした石であの男は死んでしまったのではないだろうか?」との不安に駆られるのだ。そしてスタンリーは町で野球をやっていた男たちと出くわし、「何か仕返しをされるのだろうか?」と身構えるが、彼らは何もしないのだった(スタンリーは男たちは自分のせいで死んだ男の葬式に行っていたのではないか、などと考えるが。
 そのあとスタンリーの部屋のドアにガムが詰められたり、また窓ガラスを割られたりなどということがつづく。
 
 でも主人公の不安は長くはつづかず、次の日曜日には頭に絆創膏を貼ったあの男も皆とやって来て、また野球を始めるのだった。

 こういう、公園などでの騒音の問題は近年の日本でも起きており、「子供の遊ぶ声がうるさい」との苦情から公園が閉鎖されるなどということが現実に起きてしまっている。
 日本の公園では野球、キャッチボールは禁止されているけれども、それは遊ぶ人間の声がうるさいからではなく、ボールがあぶないからだろう。
 スタンリーもひと月ほど前に警官に「野球をする男たち」のことを訴えていたのだが、警官はただ笑っているだけだった。1960年代、70年代のアメリカの現実だったのだろうか。しかしこのときハイスミスはヨーロッパで暮らしていたはずで、「事実の認識」とは思えない。ハイスミスの「アメリカ嫌悪」の一例なのだろうかと思う。


「からっぽの巣箱」(The Empty Birdhouse)

 イーディスは34歳、チャールズと結婚して7年になり、金銭的な余裕もあり「幸せ」だと感じているが、子供はいない(イーディスはいちど流産している)。
 ある日イーディスは、庭の巣箱の中にリスみたいな顔のげっ歯類らしい動物がいるのを目にする。すぐにその姿は消えてしまうが、それからしばらくして、こんどは室内でその動物の姿を目にする。イーディスはその動物を赤ん坊の「ユーマ(yuma)」だろうと思うのだが、「ユーマ」などという動物はいないのだった。

 イーディスはその動物のことを夫のチャールズに話すが、さいしょチャールズは信じようとしない。そのうちについにチャールズもいっしょにその動物を目撃することになり、「なんとかしなければ」と、知り合いの家でやっかいモノ扱いされているネコをしばらく借りることにする。そもそもイーディスもチャールズもネコが好きなわけではなかったし、愛想のない可愛くもないネコだったのでなおさらのこと気に入らない。

 しかしある朝、居間にその「ユーマ」のずたずたにされた死体が転がっていた。体じゅう傷だらけで、頭も失せていた。やはり何の動物なのかはわからない。
 とにかくひと安心した夫妻は、ネコを借主に返すのだが、借主は「そのネコ、もらってくれるといいんだけれど」みたいなことを言う。そこを何とか返却したのだが、しばらくすると「ユーマ」がまた巣箱に姿をあらわした。

 イーディスはその「ユーマ」とは、むかし自分が流産したとき、「子供は欲しくない」との思いから自分で転倒して流産した罪悪感の形象化ではないか、みたいなことを考える。
 チャールズにしても、若い頃に仕事で自分の出世のじゃまな上司を陰で誹謗中傷し、おかげでその上司は退職、その後自殺されたということへの罪悪感を持っている。

 夫婦は「今度こそ自分たちで退治しよう」と「ユーマ」に迫るのだが、そのとき家の門から、あのネコがとぼとぼと家に入って来たのだった。飼い主の家から2マイルも離れているというのに。
 イーディスは「何もかも前世のさだめなのだろう。ユーマが姿を見せた巣箱にはユーマはいないだろう。それでもまた家の中にユーマはあらわれ、あのネコがユーマを捕まえるのだ。わたしとチャールズはもうあれとは縁が切れないのだ」と思う。

 ハイスミスには『動物好きに捧げる殺人読本』という、どれも動物が主人公の短編集も出していて、その動物らへの視点はやはりハイスミスらしくも独特のものがある。
 ハイスミスはネコも飼っていたし、ネコが嫌いではないはずだが、ここに登場するネコはその「ユーマ」という謎の生物と共に、主人公らの「不安」のもとであり、それは人生に常につきまとう「不安感」の象徴なのだろうか。
 おそらくハイスミス以外の誰も書かないような短編で、やはりわたしの「お気に入り」ではある。

 今回は長くなってしまったけれども、これでこの『11の物語』はおしまい。