講演内容は非常に多岐にわたるもので、その中で中島敦への言及はそれほどまでに多量というものでもなかった印象がある。
まずは「世界文学」とは何か、ということから講演は始まるのだけれども、つまりそこでは「国民文学」に対抗するものとして「世界文学」があると語られる。「翻訳されても価値が残るもの」が「世界文学」といわれるが、わたしには「翻訳されてその価値が失われる」書物というものが想像ができない。わからない。
とにかくは「中島敦」に関しては、彼が「日本人」であることを越えるものをたくさん持っていた、ということには文句なく賛同する。そこに池澤氏はスティーブンソン、そしてゴーガンと共通するものとして、「南洋憧憬」を語られる。そのことにはわたしも同意する。
中島敦の遺した作品にある、「わたしとは何者であるのか」という問いかけの普遍性に、中島敦の生来の漢学を主とする教養、素養を読み取られるのはいいのだが、このあたりから池澤氏の論調は中島敦と同時代の日本の文学的潮流がどのようなものであったのか、ということに移行する(ように思えた)。
ここで池澤氏は日本文学の潮流として「自然主義文学」、「プロレタリア文学」、そして「モダニズム」とを引かれるのだが、もちろん中島敦の文学は「モダニズム」の系譜で捉えるのが正統だろう。それは彼の、すでにある「古典」を基に、新しい作品を創造したということでもあり、わたしは彼のこの姿勢は今でもなお、「文学の最前線」たりうるのではないかと思っているし、いつも思っているように中島敦はボルヘスの登場を予感させる存在でもないかと(これはわたしの感想である)。しかし、そんな中島敦にも、「プロレタリア文学」、「自然主義文学」の影響があるだろう、という指摘は面白かった。
このあとは池澤氏の論点は「日本文学」一般の解析に移行してしまったようで、中島敦からは離れてしまったように思った。
わたしなりにこのあとを引き継いで考えることはいろいろとあるのだが、そんなことをここで今書いていると、何千字を費やしてしまうことか。やめておこう。