ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『野火』(1952) 大岡昇平:著

 この夏に塚本信也監督の映画化した『野火』を観ていたもので、それ以来寝る前に少しずつ読んでいたのを、ようやっと読み終えた。

 大岡昇平氏の作品というと、この春に『成城だより』を楽しく読んだものだったが、わたしは大岡氏の小説というのは、もう何十年も前に当時話題になった『事件』を読んだだけという、ダメな読者ではある(だいたいわたしは過去の「日本文学」というものを読むことがない)。

 塚本晋也監督の映画版もいろいろと興味深く観たけれども、こうやって「原作」(といっていいのか)を読むと、その作品の奥行きとかまるで違うという感想は持ったが、それは「映画版」がダメだというのではなく、視覚に訴える「映画版」と、精神の彷徨を文章化する「小説」というものとの差異だろうとは思った。
 「映画」では、主人公の姿も映像として残さなければならないし、一種「客観的描写」というものが要求されての「あの作品」だったろうとは思い返されるのだけれども、この「小説」には「客観的描写」は状況説明で多少ははさみ込まれるが、基本は主人公の「眼」からのみ描かれた作品といえる。そういう意味ですべては「主観描写」ともいえる。

 主人公はフィリピンのレイテ島に配属された日本軍兵士だけれども、小説の始まりから、肺を患う主人公は部隊から離れて野戦病院へ行き、そこから追い返されるという展開になるけれども、どこまでも「軍」の一員としての行動はなく、ただただ主人公ひとりでの「彷徨」になるわけで、これはいわゆる「戦闘」を描く「戦争文学」というものとはちがう。
 描かれるのは主人公の「内面」の移ろいで、「神」への意識を含めて「存在の根源」を問いつづけるような主人公の意識は、今こうやって読むとこの時代の「実存主義文学」というものを思い起こされる気がする(わたしはむかし、多少そういうのは読んでいる)。
 特にこの作品での、「信仰は持たない」という主人公の、それでも常に抱いている「神」への意識は、読み手であるわたしに強く迫ってくる。

 この作品は、単にレイテ島に配属された日本兵が記録した「戦記」ではなく、もっと人間存在の根源的な問題に迫っていると思えた。「神」の問題を含め、これは日本よりも海外での評価の方が高いのではないかと想像したのだが、じっさいに海外で数多く翻訳されているようだ。

 「カニバリズム」のことが、この作品を読むときについてまわる問題だろうか。わたしは主人公がフィリピン女性を射殺することと合わせての、この小説の「ストーリー」上の大きなポイントだとは思ったが、それでもわたしは、この小説は「主人公の彷徨」、その彷徨しながらの心の惑いこそが読み取られるべきであると思い、これが「主題」であるとは思うことはない(エドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』がこの小説の根底にあるというが)。

 小説のラストに、タイトルの「野火」が主人公に持っていた意味が明かされるが、そこまで読んだとき、わたしの目の前に緑の草原(遠くには海が見える)に、そんな「野火」の煙が青空に立ちのぼる光景があらわれた。