ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ランボーの沈黙』竹内健:著

 この本は、いちど1970年に当時の「紀伊国屋新書」の一冊として刊行されたものが、1994年になって<精選復刻 紀伊国屋新書>として、新書サイズではなくA5判で復刊されたもの。それだけ評判が高かった本だったのか、「紀伊国屋新書」というものがすべて廃刊になってしまったので、そのうちのいくつかをこうやって残したということだろうか。じっさい、この本が復刊されたころ、詩を放棄した<アフリカ時代>のランボーを要領よくまとめた本というものは他に見当たらなかったのではないかと思う(その後、現在は他にも<アフリカ時代>のランボーの評伝は出ているようだけれども)。
 この本の著者の竹内健という方もまた、(ランボーのように?)ユニークな経歴をお持ちの方だったようだが、今はそのことにはふれないでおく。

 当時残されていた資料、ランボーの手紙(いわゆる「アフリカ書簡」)などから、竹内氏は読みごたえのある「ランボー伝」を組み立てられていると思う。そこには、「詩=文学」を棄てたあとに、このランボーという青年がいったい何を求めてアフリカの地に立ったのかということ、そこでのランボーの夢と希望、そしてその「挫折」とが、竹内氏の「読み」に支えられながら書かれて行く。
 つまり、残された周囲の資料やランボーの手紙から「ランボーとは誰?」ということを読み解こうとすれば、おのずから書く人の「解釈」こそが重要な意味合いを持つことになる。おそらくは<アフリカ時代>のランボーを取り扱った「類書」(今は鈴村和成という人の書いた評伝も評判がいいようだけれども)はどれも、まさに「著者の解釈するランボー像」を語るものになるだろう。それは過去においてランボーを翻訳した小林秀雄が、「アフリカでのランボーの手紙に読む価値はない」とした<否定的>解釈から始まっていることだろう。

 竹内健氏は、ランボーのアフリカ行きを「南方への憧憬」と読み、文学を棄てたランボーは「南の国の探検家」になろうとしていたのだろうと語っていると、わたしは解釈する。
 ランボーはまずはアデンに行ってはアデンという土地を嫌悪するようなことを書き、長く暮らしたハラルの町でも「こんな場所はいやだ」みたいに語りつづける。では彼は「振り出しに戻って」やり直すのではなく、そのとき自分のいる場所から「こんなところはいやだ」という気もちをバネにして、さらなる「南」への冒険、探検を模索していたようだ。じっさいにランボーは、自分の探検記(実は商売上の旅ではあったのだが、それまでヨーロッパ人が踏破しなかったルートを旅している)をフランスの地理学会に送付したり、カイロの新聞に掲載したりしている。フランスからは土地測量、地理関係の書物から土木工事の書物まで買いそろえていたランボーの夢想はどれだけ大きかったことだろう。
 ランボーはさいごまで、けっきょく訪れることはなかった「ザンジバル」への夢を語り、さらにシナや日本へまで行くことをも夢想する。「何が目的か」も定かでないそのような「夢想」、はっきり言って「商人」には向いていないことだろう。だからランボーは「商人」として生きようとはしていなかったのだろう。そこに、かつて「詩人」であったランボーの「夢想」を読み取りたくはなってしまうが。

 当時北アフリカに滞在したヨーロッパ人には珍しく現地の言葉をあやつり、けっこう現地人の信頼を得ていたというランボー、けっきょく彼の挫折はどこから来たのか。わたしなりにこの本を読んで思うところはあったけれども、それはまた一面的な読み方にすぎず、ここに披露するようなものでもない。ひとついえるのは、そうやって「冒険家・探検家」であろうとしたランボーも、実生活では「一商人」であることから逃れることはできなかったということだ。彼の人生の唯一の「冒険」とは、アビシニア国王への銃の売買を目指した長征であり、それもまた大きな挫折感を彼に与える結果になった。

 しかし、先日観たテレンス・スタンプ主演の『ランボー/地獄の季節』を思い出すと、あの映画、けっこうその「銃の売買」あたりの描写は正確と言えば正確かもしれないし、何といってもおどろいたのは、映画に登場した現地の少年「ジャミ」という人物が、創作ではなく実在したのだということだ。ランボーにはもっと早い時期に、「自分が歳を重ねたら子供を得て、いろいろなことを教えたい」という「夢」を書いてもいるのだけれども、足を切断して危篤状態のランボーは、彼のめんどうをみていた妹のイザベルのことを「ジャミ」と呼んでいたらしい。死の間際のランボーの中で、ジャミは彼の息子という意識があったのだろうか。
 映画で描かれていたような、同衾していたアフリカ人女性もじっさいに存在していたようだけれども、さいごまでランボーのそばに彼女がいたという映画での描写とはちがって、早くに別れてしまったようだ(ランボーの方から彼女を切り捨てたらしい)。

 わたしがこうやって「アフリカのランボー」のことを読み、つい思い浮かべたのは、持病のぜんそく療養のため南地パラオ島へ渡った中島敦のことで、彼もまたパラオという「南国」には絶望の思いがあったのだった(中島敦は「文学」を棄ててはいないが)。

 ただ、「ひょっとしたらランボーが明治の日本に来ていた可能性もあったのか」などと思うと、そんな当時の日本がランボーにどんな印象を与えたことだったろう、などというわたしの夢想を止めることはできない。まあどうせ「現実には満足することのできない」ランボーのこと、きっとがっかりしていたことだろうが。