ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ゴジラ』(1954) 円谷英二:特技監督 本多猪四郎:監督

ゴジラ

ゴジラ

  • 宝田 明
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 以後70年つづく「ゴジラ映画」の原点。「どうしてこれだけ巨大な怪獣が生まれたのか?」という答えを明確に「太平洋での核実験の影響」とし、その怪獣が、戦後の復興の進んでいた東京をまたメチャメチャにした結果の惨状も、しっかりと伝えられる。そして、「原爆」に匹敵する破壊力のある新しい兵器をゴジラ抹殺のために使うかどうかの、科学者の葛藤。

 まだ終戦から十年も経過していないこのとき、ゴジラの攻撃で「東京大空襲」の惨劇が再現されるけれども、このときのゴジラの、品川から銀座、そして上野から浅草という「東京の要所」を縦断して壊滅させる、そのコース取りが無慈悲だ。
 燃える東京の市街地をバックにゴジラが進み行く姿は、まさに「ナイトメア」というところだったけれども、今回観てそのゴジラが東京を破壊するシーンの長さが、ちょっと意外だった。こんなに執拗にゴジラの攻撃が描かれていたとは。
 もうこれは、製作スタッフの中に「東京大空襲のときもこうだったのだ」と、「怪獣映画」の名を借りて再現しようとしていたように思える。

 そのことは「ゴジラの襲来」が過ぎたあとの、施設に運ばれる被災者、横たわる被災者らの描写にもあらわれていたし、「犠牲者追悼」のための女子学生の鎮魂曲「平和への祈り」の合唱の場面では、あらためて「戦災の犠牲者」への追悼、とも受け止められる気がした。また、ゴジラが銀座を襲うとき、街角にうずくまる母娘がいて、その母親が娘に「もうすぐお父さんのところに行けるのよ」と語るシーンには泣かされる。
 そしてそれらの映像はテレビで中継され、それを見ていた芹沢博士(平田昭彦)に、ゴジラを倒すために「オキシジェン・デストロイヤー」の使用に踏み切らせることになる。

 また、以上の描写からも、「ゴジラ」とは第二次世界大戦終結後の、アメリカの「核実験」への恐怖の象徴でもあり、このことはゴジラの東京襲撃は単に「東京大空襲」の再現を超えて、「今現在の人々の<核兵器>への恐怖」をも形象化したものだろう。じっさい、この映画の冒頭は、いやでも「第五福竜丸の被曝」を想起させられるシーンではあっただろう。

 わたしはけっこう「怪獣映画」が好きで、あまり知られていない昔のイギリスの怪獣映画や、アメリカのB級怪獣映画も合わせていろいろと見てきたけれども、一般市民でこれだけの犠牲者が出たという怪獣映画、犠牲者にスポットをあてた映画というのはなかったと思うし、そんな犠牲者のための追悼集会をも描かれていたということが、この『ゴジラ』の特色でもあり、これゆえにこの作品が「傑作」とされるのではないか、とも考える。
 また、ただ「怪獣が出たからやっつけよう」ではなく、古生物学者の山根博士(志村喬)のように、「古生物の研究のためにも、なぜゴジラが水爆実験を生き延びたのかを解明するためにも、学術的観点からゴジラを生かしておいて研究することはならないのか」と考える人物が登場することも、この作品にリアリティ、奥行きを与えているのではないかと思う。
 この巨大化して口から放射熱線をも吐き出すモンスターは「人間が(核実験の繰り返しによって)生み出したもの」なのだ。「ゴジラ」とは、「自然の摂理」に反する人間の行為の象徴でもある。そして、その人間の生み出したモンスターを葬るのもまた、人間の役目となる。

 この『ゴジラ』、映画の表現をも拡大した傑作であったことは間違いないとは思うけれども、いろんな制約ゆえか、今観ると「不自然」に思うシーンも数多い。
 まあ、あまりこういうことをあげつらうように書こうとは思わないけれども、久しぶりに観て「そんなことだったのか」と思ったこともあったので、ちょっと書いておこうと思う。
 やっぱ、いちばん「それはないだろう?」と思うのは、ゴジラの上陸が迫ったというときに、対策本部は東京湾の西側を中心に、「有刺鉄線(?)」を張りめぐらせ、5万ボルトの電流を流してゴジラの上陸を阻もうとするのだけれども、その鉄線を張るために、海岸沿いにほとんどゴジラの身の丈ほどもある鉄塔を多数構築している。しかしあんな大きな鉄塔、ひとつ構築するにも少なくとも1年はかかってしまうだろう。そりゃあゴジラ上陸には到底間に合わないだろう。

 あとドラマ的なことでいえば、芹沢博士が山根恵美子(河内桃子)にそれまで秘密にしてきた「オキシジェン・デストロイヤー」のことを話したとき、「もしもこれを強制的に使わされるという時には、ぼくの死と共にこの研究を消滅させてしまうつもりだ」と語っているわけで、その「オキシジェン・デストロイヤー」をゴジラ退治に使おうということは、即「芹沢博士の死」も意味するわけだと恵美子は聞くことになる。「オキシジェン・デストロイヤー」の使用を芹沢博士に承諾させたとしても、そのときに「芹沢博士の自死」という問題をクリアーするべきだろう。それを怠ったからあのラストになったわけだ。というか、恵美子はそのことにもっともっと留意すべきだったはずだ。まあこのラストはやむを得ないものだろうが。

 オープニング・タイトルが流れているあいだ、バックでは「ドスン、ドスン」とゴジラの足音が響き、それがしまいにゴジラの咆哮になる。このオープニングの音はあまりに素晴らしいのだけれども、去年の『ゴジラ-1.0』ではその音を踏襲しながらエンド・タイトルのさいごに持って来て、「ゴジラの咆哮」で終わるのだったが、それもまた良かった。

 さて次は、この『ゴジラ』の翌年につくられた『ゴジラの逆襲』を観てみよう。