ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ランボー、砂漠を行く アフリカ書簡の謎』鈴村和成:著

 詩作放棄後のアフリカ時代のランボーについては、先日竹内健氏の『ランボーの沈黙』を読み、さらにネットにあったかなり包括的に書かれたサイト『ランボーの右足』をひと通り読み、そしてこの本にたどり着いた。実はまだ若き日の(詩作時代の)ランボーについてわたしはあんまり知らないでいるので、彼の生涯を通して書かれたジャン=リュック・ステンメッツという人の書いた『アルチュール・ランボー伝 不在と現前のはざまで』という分厚くって値段の高い本も読んでみたい気もするけれども、まあそれは今はパス(少なくとも今読んでいる『ジェイムズ・ジョイス伝』を読み終えてから)。

 しかし、この順番で読んだのはけっこう正解だったというか、この『ランボー、砂漠を行く』ではけっこう時系列を無視して別の時代のランボーの書簡が出てきたりして、いきなりこの本を読んだのではちょっと面食らったことだろう。
 この鈴村和成氏の著作は、あくまでもランボーの書簡によってのみ「ランボーの生」を読み解こうとする試みというか、ランボーが手紙に書いていないことは触れないことが多い。たとえば『ランボーの沈黙』、『ランボーの右足』で書かれていた、ハラルでランボーがしばらく同衾していたという女性のことには、この本ではひとことも触れられてはいない。

 ただ、鈴村氏はここでランボーのアフリカ時代の「評伝」を書こうとしたわけではない。鈴村氏が書こうとしたのは、残されたランボーの「アフリカ書簡」から、ランボーの「詩の放棄」の意味を探り、アフリカで彼が何を求めたかを問おうとしているようだ。そのことは、ランボーの「アフリカ書簡」をランボーの(「詩」ではない)「表現」ととらえて解釈しようとする姿勢にあるだろう。

 アフリカのランボーの「生」は、ある意味で「挫折」の連続とも読み取れるようにわたしは思うのだけれども、鈴村氏はランボーの「生」をそこまでに否定的には読み取られないようだ。彼はいつも、「ここではないどこか」への冒険を夢見ていたといえ、鈴村氏はそんなランボーの精神をこそ評価するのだ。
 これはネットの『ランボーの右足』でも顕著だったのだけれども、ランボーのアフリカでの活動を、若き日のランボーの書いた『地獄の季節』や『イリュミナシオン』の詩句の「実践」、もしくは若き日の詩作で「予知」されていたという読み方になる。

 鈴村氏は、ランボーは当時のフランス文壇の諸氏が夢見た(ボードレールの書いた「物憂いアジア、燃えるアフリカ」とか)、サイードのいう『オリエンタリズム』としての「オリエント観」の倒錯からはまぬがれている、いや、転倒させているではないかと語る。鈴村氏はランボーの手紙にひんぱんに書かれる「ここ(ici)」という単語に注目し、それを「他のところ(ailleurs)」との対比で考える。「ここ」と「他のところ」である。そして鈴村氏は、その「他のところ」を「ここ」に置き換えつづけるのがランボーの「移動」なのではないかと(いや、この部分はわたしは鈴村氏の考えを読み取ってはいないと思う)。
 ボードレールには「anywhere out of the world」という詩があるが、ランボーはそういう「世界の外ならどこでも」という世界観を、その行動で否定したのかもしれない(これはわたしの考え)。
 鈴村氏はこのように書く。

 するとこう言えないだろうか? ランボーは「他の場所ailleurs」によってキリスト教的な「他界autre monde」を否定しようとしている、と。それがイマージュの否定になり、詩作の放棄を促した、と。とはいえそこで棄てられた詩は「他界」の観念に結びついた詩に過ぎなかった、と。いっそう"今ここ"に結びついた詩は「イマージュのない宇宙」として書かれつつある、と。それを書簡集に見出すことができる、と。

 じっさい、ランボーの詩作の放棄を「イマージュの否定」ということに求めるこの論考は、わたしにはたいへんに興味深く、このランボーの詩作した19世紀末の時代をちょっと無理して「転換期」と呼ぶならば、モダニズムの時代まであとひと息、ダダイズム詩の誕生まで40年ちょっとか(まあちょっと長いスパンだけれども)。
 ここに書かれた「イマージュのない宇宙」という言葉は今なお有効であり、「そうか、ランボーが文学を棄てたということはそういうことか!」と、納得もしてしまうのだった。

 ただひとつ、最後にわたしには思うことがあって、それはランボーが死の前日に妹のイザベルに口述した文言のこと。
 それは次のように始められる。

 一荷-象牙一本のみ。
 一荷-象牙二本。
 一荷-象牙三本。
 一荷-象牙四本。

 これは譫妄状態での(その数があまりに少ないとはいえ)自分の商品の発送目録の口述ではないのかと鈴村氏は解釈し、「死の床にあっても、『自称交易商ランボー氏』は商用の手紙しか書こうとしなかったのだ」と書く。口述はこのあともつづくのだが、別にわたしの読んだ『ランボーの右足』では、この部分の口述には「意味はない」としているのだが、どうも、どこかでロマンティストであるわたしは、この四行が「ランボーの最後の<表現>」ではなかったのかと思いたくなってしまう。むむむ、この四行、わたしにはどこかダダイストの詩のように思えてしまうし、彼はこの象牙の本数の中に自らの「生」を読み込もうとしたのではないのか?などとバカなことを思ってしまうのだった。