ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ランボオの手紙』祖川孝:訳

 ま、正直言って安いから買ってしまったのだけれども、初版発行が昭和26年(1951年)という古い本で(わたしの生まれる前の本だ!)、旧仮名遣いなのではあった。思ったのはやはりランボーには「旧仮名遣い」は似合わないな、というあたり。

 この、せいぜい200ページの本の、前半はまさにランボーが書いた書簡の翻訳なのだけれども、後半はランボーのちょっとした「評伝」と、周囲の人物(ヴェルレーヌら)の書いた書簡とが載っている。
 後半の部分は当然、「書簡の翻訳」だけ、というレベルのものではなく、この「評伝」は誰が書いたのか、ということになる。この翻訳者が書いたとも思えないところもあり、いろいろと複数の底本があるみたいだが、翻訳者は「どの部分は何の本によった」などということは書いていない。あとがき」には、「参照した」として4冊ぐらいの書名があげられているが、「其の他」とも書かれているので、いったい何がこの本の「原典」なのかはわからないままだ。今ならば、こういう「翻訳」のやり方は許されないところだろう。

 だいたいの書簡などは、今まで読んだランボーの評伝にも引用翻訳されていたものだったけれども、例えばヴェルレーヌの手紙や、そのヴェルレーヌに対してランボーの母が書いた手紙などは初めて読んだ。また、ランボーを看取った妹のイザベルが、どのように兄アルチュール・ランボーの経歴を「たぐいまれな優等生」「敬虔なキリスト教徒」と改ざんしようとしていたか、などの具体的記述は初めて読んだ。
 16歳のランボーに「恋人」がいた、などという記述もあるが、こういうことはわたしが今まで読んだランボーの評伝には書かれていなかったので、やっぱり「ちゃんとした」彼の評伝を読むべきだろうか、などとも考えてしまう。

 しかし、この書物でいっちばん面白いのは、翻訳者が書いた「あとがき」の終末部である。面白いので書き写してみる(めんどうなので、原文の旧漢字は現代のものにしちゃいました)。

 わたしがこの邦訳にとりかかつたのは一昨年の冬からのことである。当時、わたしは事業の失敗やら女のことで、いつそ死んでしまひ度いほどのつらひ思いをさせられてゐた最中だつたが、この「ランボオの手紙」一冊をかかへて、四国を振り出しに旅にのぼつた。そして初めて腰を落ち着けたところは群馬県の友人の宅の土蔵の中であつた。冬の土蔵は冷たかつた。冷え込みからか、一週間足らずで猛烈な下痢をした。わたしは窖から這ひ出して東京に舞ひ戻った。

 ‥‥あまりに面白いので、この部分を全部書き写してしまいたくなるが、こういう調子の、「そんなこと知らねえよ!」という文章がまだまだ続く。この翻訳者は翻訳しながら旅を続けるのだ。クライマックスは次の下りだろうか。

旅の空は大抵わたしひとりであつたが、時々、女もゐた。中には声をあげてわたしの原稿を読み、原文との対照を手伝つてくれた女もあり、また北九州、浅倉街道の甘木駅の旅館のお文さんという女中に、涙ながらに邪恋の悩を切々と話して聞かされ、しんみりなつたこともあつた。今となつては、あれもこれも、思ひ出深いものがある。

 ‥‥「お文さん」! 知らねえよ! 「しんみりなつた」のかよ! ランボーの手紙の翻訳を読むつもりでいたら、その最後になって「甘木駅の旅館のお文さん」かよ! 公私混同というのか、翻訳していたらランボーみたいに自分でもそんな自分自身の「個人的な」ことを書きたくなってしまったのだろうか。つまり、ここで短かい「私小説」をやってのけようとしたのだろうか。
 というか、普通、「あとがき」にこんな文章が出てきたら、出版社の担当は「あのねえ~」と書き直させそうなものだけれども、そのまま活字化されてしまったわけだ。これも「古き良き時代」だったのだろうか。今の世ではとてもあり得ない「あとがき」。これはこれで楽しんでしまったのは確かなことだけれども。
 ちなみに、この翻訳者の「祖川孝」という人物をググってみたのだけれども、アルフォンス・ドーデとかリルケの本の翻訳をしていることはわかったけれども、それ以上のことは何もわからなかった。

 ま、最後の最後の「あとがき」になって、楽しい思いをさせていただいた本ではあった。