ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ランボーとアフリカの8枚の写真』鈴村和成:著

 去年の8月に、この鈴村和成氏の『ランボー、砂漠を行く アフリカ書簡の謎』という本は読んでいて、まあ「アフリカ時代のランボー」を書いた本も少ないこともあって、それなりに面白く読んだ記憶がある。
 そんなランボーが、1883年にヨーロッパに「写真機材」一式を注文するわけだが、写真機材を入手したランボーは、すぐに「8枚の写真」を撮影、現像して実家に送るわけだけれども、それっきり、ランボーが写真撮影をしたという記録もなく、その8枚以外の写真が残されていたわけでもない。
 「いったいそれはどういうことなのか?」「なぜランボーは高価な写真機材を購入し、直後に8枚の写真を撮っただけにしてしまったのか?」そういう、根源的な「問い」に答える本であろうと期待して、この本を読み始めたわけだったけれども、それは大きな大きな間違いであった。

 この本の帯には、以下のように書かれている。

1883年アフリカのハラル。ランボーは高価なカメラ機材をはるばるヨーロッパから取り寄せ、わずか八枚の写真を撮っただけでカメラを放棄する。この事実にまつわる数々の謎を追跡し、アフリカのランボーの実相と「イリュミナシオン」の詩人の本質に迫る、著者渾身の力作!

 ‥‥ウソである。全然まったく、そ~んな本ではない。日本でも有数の大手文芸書出版の会社が、こ~んな詐欺まがいの「帯」をつけた本を売っていいのだろうか?
 まあ、「2008年12月刊行」の本だから、今になってどうのこうのという問題でもないだろうけれども、ちょっとばかり呆れてしまった。

 実はこの本、著者による実に稚拙な「創作」と、著者本来の「ランボー研究」とを合体させたモノで、わたしとして読める部分は、そんな著者の「ランボー研究」の部分だけなのだが、けっきょく「ランボーはなんで<写真撮影>に異様な熱意を持ちながらも、八枚撮影しただけで<放棄>してしまったのか?」という根源的な<問い>には、まったく答えていないのである。おまけにこの本のラストには、勝手な想像で「その八枚以外のランボーの撮影した写真が見つかった」みたいなことを書いている。あきれるしかない。

 ‥‥「文学研究者」というのは、そういう「評伝」だとか「研究書」みたいなのを書き、雑誌とかにはエッセイを発表したりする人であろう。そしてそういう人はつまり基本は「実作者」ではない。
 もしもそういう人が「自分も小説書いてみたいな」とか思ってもいいだろうし、そういうことでは中村光夫という人もおられたし、最近では佐々木敦氏だって小説を書いたわけだ。
 しかし、この鈴村なにがし氏の場合はいただけない。どうもこの人は村上春樹のファンでもあるらしいのだけれども、そもそもこの方には「文学とは何か?」とかいう問いの持ち合わせはないように思える。いや、だから「フィクション」を書いてはいけないということではないが、「ランボーの別の写真が見つかった!」みたいな「トンデモ」なフィクションを書いて、書いた当人の内面では「書いてやったぜ!」みたいな「達成感」が、あったのだろうか?
 それははっきり言って、「あなたはつまらない人間だ」と言うしかない。

 この作品、作者の分身みたいな人物が二人登場し、どちらもランボーの研究家。一方の人物がエチオピアへ「ランボーの足跡」を追って行き、そのまま帰国せずに「行方不明」になる。ストーリー書くのもバカバカしいのだが、それでもう一人のこの作品の書き手が、行方不明になった男の夫人と共に「探索」へと旅立つのである。それで書き手は、行方不明になった男の残した「ランボー研究」の文章を織り交ぜながら、エチオピア探索をするのである。
 これだけ書くと、「ひょっとしたら面白くなりそうかも?」という気もするけれども、エチオピアに到着するとすぐ、その行方不明の男の姿を見かけてしまうし、本気で彼のことを探しているのかどうかわからない。おまけに(最悪なのは)その同行した夫人は、エチオピアのガイド役の男と、毎晩セックス三昧なのである。まあそれでその「夫人」のことがしっかり書き込めていれば納得したかもしれないが、登場人物は誰もが「奥行き」がないというか、これを「小説」として読めば「こ~んな愚作は読んだことないですね」ってことになる。特に、この作者の内面には「女性蔑視」もあるように思えてしまう。
 それで、ランボーの「写真熱」のことは究明するわけでもなく、先に書いたようにさいごには、「ランボーが女といっしょにいる写真を見つけただね!」などという「トンデモ」なことになる。

 まあ近年、読んでココまでに腹立たしい思いをしたという本というのも、ありませんでした。