ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ユリシーズ』ジェイムズ・ジョイス:著 丸谷才一・永川玲二・高松雄一:訳

 1904年6月16日、アイルランドのダブリンの街を彷徨する新聞の広告取りの仕事をやるレオポルド・ブルームの一日の行動を追うが、彼はこの作品ではホメロスの『オデュッセイア』のオデュッセウスに擬されている。さらに教師のスティーヴン・ディーダラスがのちにレオポルド・ブルームにからみ(この小説はまずディーダラスの行動を追うことから始まるのだが)、夜半にブルームの家に同行することになる。ディーダラスは『オデュッセイア』のテレマコス役である。ブルームの妻のモリー・ブルームはオペラ歌手だが、この日にレオポルド・ブルームの不在のあいだにマネージャーのボイランと不義を犯すのではないかとレオポルド・ブルームは考えている。小説のさいごはモリー・ブルームの句読点のない長い「内的独白」で終わる。モリー・ブルームは『オデュッセイア』のペネロペイア役である。

 ここでは「物語」を語るということは一面では「二義的」なことではあるだろうか。というか、通底する「大きな物語」などというものはなく、しいてストーリーを言えば、主人公のレオポルド・ブルームがダブリンの街をあっちへ行ったりこっちへ行ったり彷徨し、酒場で会ったスティーヴン・ディーダラスを連れて帰宅する話というか。ディーダラスはけっきょく去り、ブルームは妻のモリーが(彼の予測通りに)自分の不在中に不義を犯していたことを確認する。そういう話ではあるが。

 全18章、章ごとに文体は変化するし、ひとつの章の中でもめまぐるしく文体が変化することもある。この小説は、ひとつには英語文学の「総括」であり、20世紀最大の「モダニズム」小説であり、いまだにその「極北」の地位を譲らないだろうか。この作品は「小説とは何か」という問いかけであり、同時に「ダブリン」という街の総体を、その住民(現実に存在した住民の名も多く登場し、この本が出版されたとき、ダブリンの住民らは「自分の知っている誰が登場するか?」とか、「自分も登場しているかも?」などという興味からこの本を読んだという)。
 もうひとつ大事なポイントは、(特にイギリスとの関係における)アイルランドの歴史を説き入れているということであり、そこに主人公のレオポルド・ブルームがユダヤ人であるということが、さらに問題にふくらみを持たせる。
 あと、通読してみると、非常に「お下劣」な描写が多いことにもおどろく。レオポルド・ブルームは歩きながら「おなら」をし、それが彼の「内的独白」と混ざり合って「そ、そ、それって何?」みたいになるし、彼は海岸で休んでいて、そこにいた少女の挑発に乗って自慰もする。立ちションはしょっちゅうのことだし、一方の妻のモリーだってやっぱり「おなら」はするし、このモリーの「内的独白」は時にポルノグラフィックでもある(このせいで発禁になったのだっけ?)。まあ、こういう「お下劣さ」というものも、文学の世界ではフランソワ・ラブレーセルバンテスの時代にあったもので、その後にいつしか文学が「お上品」になってしまっただけのことではあるのだが。
 このように、さまざまな視点からの「読解」が可能というか、そのような読み方に誘われる本であり、まあわたしのような人間が一度だけ読んで「そうか!」と了解できるような書物ではないのも確かであり、「またもう一度読め」という心の声を振り払うのも困難だ。

 まず、自分の読み方で「失敗したなあ」と思うのは、非常に多くの登場人物それぞれが、「いったいどういう人物だったのか」わからなくなってしまうことで、特に居酒屋におおぜいの市民らが集って「論争」をたたかわせる場面で、「この人物はもっと前に登場してきているのだけれども、はたしてどういう登場の仕方だったのか、どういう人物だったのか」思い出せないわけである。
 これは第1巻の巻末に、「『ユリシーズ』人物案内」という<付録>が付いていたわけで、第2巻、第3巻を読むときにもこの「人物案内」はいっしょに手元に置き、その都度参照すべきだったのだ。もしももう一度読むことがあるならば、このことはぜったいに実行しようと思う。

 さて、ちょっとこの小説そのものから離れて書いてみたいことがある。
 この文庫本4冊のそれぞれの巻末には、著者のジェイムズ・ジョイスについての短かい解説があり、そこには「小説家。二十世紀を代表する二人の小説家のなかの一人。(もう一人は誰でしょう?)」などと書かれていて、わたしはこういう「誰でしょう?」みたいな書き方にそれこそ「スノビズム」というか、ケタクソ悪い思いを感じてしまう(そんなの、ウラジーミル・ナボコフに決まっているのだが)。いったい誰が書いたのだろう?(「誰でしょう?」)
 もうひとつ。この巻末に丸谷才一氏がエッセイを寄与していて、まあジョイスについての記述はいいのだけれども、彼が「彼(ジョイス)の影響があらはにうかがはれる、この四十年ほどの長編小説をあげてみよう」として、延々といろんな作家の作品を挙げておられるのだけれども、このエッセイを書かれたのがいったいいつのことなのかわからないが、あまりに古臭いというか、丸谷才一氏の「これが正統」という意識がうかがい知れてつまらない。単に「1970年以降、評判になった作品」を列挙しているだけに思えるし、ラテンアメリカ文学から多数挙げておきながらも、わたしにはいちばんジョイス的だと思えていたホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』はノーチェック。
 そういうことはいいとしても、今考えて、ジョイスの影響下にあるだろう作家として最も重要なのはトマス・ピンチョンではあるだろう。こういうところをスルーするというのが、丸谷才一という作家のつまらないところで(この『ユリシーズ』の翻訳は労作だと思いますが)、だからというのでもないけれども、わたしは丸谷才一の本を読もうという気にならないのではあります。

 っつうことで、そのうちにトマス・ピンチョンの再読を始めようかとは思う。『重力の虹』とかはそれなりに記憶しているから、さいしょに読んだときにぜんぜんフィットできなかった、『メイスン&ディクスン』から読みたい(この作品が、アメリカではいちばん人気があるのだという)。