ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『アメリカのナボコフ 塗りかえられた自画像』 秋草俊一郎:著

 序 章:ナボコフと読者(オーディエンス)たち
 第一章:亡命の傷―アメリカのロシアで
 第二章:ナボコフとロフリン―アメリカ・デビューとモダニズム出版社
 第三章:注釈のなかのナボコフ―『エヴゲーニイ・オネーギン』訳注から自伝へ
 第四章:フィルムのなかのナボコフ―ファインダー越しに見た自画像
 第五章:日本文学のなかのナボコフ―戦後日本のシャドーキャノン
 第六章:カタログのなかのナボコフ―正典化、死後出版、オークション

 わたしはかなり若い頃からナボコフの愛読者で、翻訳されたナボコフの小説はほぼすべて所有してはいるし、ナボコフの伝記(ロシア時代のみ)や、ナボコフ関係の本もそれなりに持って読んでいる(近年、本邦初訳を多く含む「ナボコフ・コレクション」というシリーズが刊行され、それは価格も高いのでまるで買えていないが)。
 病気のせいでナボコフ本の記憶もけっこう消え、最近刊行されたナボコフについての本もチェックしていなかったけれども、久しぶりにこの本を買った(刊行は2018年)。

 わたしとしてはそのタイトルからも、ブライアン・ボイドの伝記でも翻訳の出ていないナボコフの「アメリカ時代」の伝記的なものを期待して読み始めたわけだったが、たしかにそういう伝記的な記述もあったものの、内容は多岐にわたるものだった。それはそれで大変に読みごたえのある本で、読書を楽しんだのだけれども、全体の印象をいえば『ロリータ』以後のナボコフ、『ロリータ』はどのように受容されたのか、というような感じではなかったかと思う。
 そもそもが先にいろいろな雑誌に発表されたエッセイが元になっており、一冊の本としての一貫性のなさを感じてしまう部分もあったが、いちおう第六章のさいごにこの本をしめくくるような文章があったので、ここに写しておく。

ナボコフが『ロリータ』の執筆と刊行をきっかけにして、富と文学的名声を得たのはまちがいない。しかし、その道のりは平坦ではなかった。そもそも、英語での執筆にしたところで、単純にその執筆言語を切り替えただけではなかった。それは新しいマーケットで、新しいコンテキストに己を適合させるということだった。その結果としての『ロリータ』の商業的成功のあとも、作家はたゆまずに自己翻訳をおこない、マーケティングに介入することで、英語作家として、アメリカの作家としてのセルフイメージを更新していった。ある意味でそれは、ヨーロッパ亡命時代をともにした亡命者たちを切りすてることでもあり、自分のアメリカ・デビューを下支えした出版社や編集者、友人と袂をわかつことでもあった。作家の死後も遺族による厳重な管理をへて、ナボコフの遺産(レガシー)は残され、テクストは私たちの目の前にひらかれてある。

 以上のことを細かく分析してみせたのがこの本ともいえるけれども、ただ(第五章:日本文学のなかのナボコフ)だけは少し性格がちがう。
 この本のひとつの特色は、ナボコフの作品の内容について説明したり分析することなく、読み方を示すような本ではないわけで、そういう意味では「入門書」などというものではなく、少なくとも『ロリータ』は読んでいることが期待され、また、(読んではいなくっても)ナボコフの代表作についての知識は持っているものとされている。
 しかしこの第五章は、「日本で『ロリータ』はどのように紹介され、どのように読まれて日本文学に影響を与えてきたか」という分析になっていて、この章だけは「読むということ」が主題になっている感がある。

 この章は、まさにナボコフの作品の影響下に書かれた『道化師の蝶』という作品で芥川賞を受賞した円城塔の、その『道化師の蝶』の分析(いかにナボコフ作品の影響を受けているか)から始まり、そこから、「いかに『ロリータ』は日本に紹介され、読まれてきたか」というテーマになる(わたしは円城塔という作家の作品は何にも読んでいないので、今度読んでみようかしらん、とは思っている)。
 日本で『ロリータ』が最初に刊行されたのは1959年、大久保康雄の翻訳だったが、そのときナボコフという作家のことが知られていたわけもなく、出版社(河出書房新社)はこの本をいってみれば「好色文学」(死語か!)の一冊として刊行し、「猥褻図書」として発禁とされることを憂慮しながらの出版だったらしい。しかしその宣伝では「十二歳の少女を凌辱する男の話」という売り出し方をし、作家のナボコフはイコール作中の語り手ハンバート・ハンバートであるかのごとき宣伝ではあったという。わたしもさいしょは、この大久保康雄訳で『ロリータ』を読んだのだった。

 日本でさいしょにそのような表層的な読み方に異議を唱えたのは丸谷才一で、彼自身ナボコフの作品(『ロリータ』以外の作品も)からの影響下に『樹影譚』という作品を書くことになる。この作品は今でも評価は高いようだ。

 このあとついに2006年、「定番」ともいえる若島正訳の『ロリータ』がいきなり新潮文庫で刊行され、(これはわたしの感想だが)以後日本でのナボコフ受容の様相はすっかり変わってしまう。若島正氏に加え、沼野充義氏という新進気鋭のスラヴ文学者が登場し、ナボコフの翻訳もするし、雑誌などのメディアでもナボコフについてよく語られるようになった(と思う)。過去に翻訳の出ていた作品も、新しく翻訳し直しもされ、そのせいでもないだろうがナボコフのヨーロッパ亡命時代のロシア語作品も、今では文庫本ですら読めるようになった。
 さらに、その若島正訳『ロリータ』には、かの大江健三郎が「野心的で勤勉な小説家志望の若者に」というキモい(どうしようもない)タイトルの「解説」を書いているのだった。
 いちおうちょっとその「解説」にふれておけば、大江氏は『ロリータ』を「性愛の小説」と位置付けられているのだけれども、わたしはそういう読み方というのはしたこともなく(読んで性的に昂奮などしたこともない)、ナボコフのヨーロッパ時代の小説の延長から、「信頼できない語り手による<犯罪小説>(<ミステリー小説>)」という読み方をしていたもので(あんまし推奨される読み方でもないだろうが)、大江氏の解説を読んでもすぐに忘れてしまっていたが。

 この本では、そんな大江健三郎氏が『ロリータ』にも影響を受けて書いた小説『美しいアナベル・リイ』のストーリーもあげて分析されている。
 わたしはもともと、ある時期以降の大江健三郎氏の作品はぜったい読もうとは思わないのだけれども、この本に書かれた『美しいアナベル・リイ』のあらすじを読んでも、キショくっておぞましく、やはりぜったいに現物を読もうとは思わない(この本の著者の秋草俊一郎氏は、別のところでの大江氏と沼野氏との対談で、大江氏がナボコフは「女性をまったく尊敬していない」と語られたことを引き、「尊敬」という言葉を使うことに大江氏の側に「差別的なニュアンス」を感じたと書かれていて、けっこうスッキリした)。
 本文ではこのあとに少し、谷崎、川端とナボコフとのことも書かれているのだが。

 この本から読み取れる「アメリカ時代のナボコフ」のことをもっと書きたかったが、わたしは先にいろんな本から「意外とナボコフ計算高い人物だった」ということは承知していたから、「そんなことをしていたのか‥‥」などという感想は持たなかった。というか、ヨーロッパ亡命時代の「V・シーリン」という筆名だった自分自身を「葬る」ための奮闘ということを読み取り、「なぜナボコフは『ロリータ』を書いたのか(書けたのか)」ということが、多少はわかったような気がしたのだった。
 わたしには読みごたえたっぷりの本で(好きなナボコフが題材の本ではあるし)、久しぶりに「読書の楽しみ」を満喫できた思いがする。