ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『カメラ・オブスクーラ』ウラジーミル・ナボコフ:著 貝澤哉:訳

 1932年に発表された、ナボコフの5作目の長編小説。この作品はナボコフの小説ではもっとも早く、1936年にイギリスで翻訳出版されている。しかしながらナボコフはこの英語訳に不満やるかたないことになる。このことについてナボコフは出版社への手紙で以下のように述べる。

作品の中で究極の精確さを目指し、その達成のために最大限の骨折りを惜しまぬ作家にとっては、いささか耐えがたいものがあります。そのような努力の末に到達した祝福された語句のひとつひとつを、翻訳者が平気な顔で台無しにするのを見せられるのですから。

 これはその1936年のイギリス版翻訳についてナボコフが書いたことで、今わたしが読んだこの日本語版翻訳のことではない。しかしこの日本語への翻訳者の貝澤氏も、以上の事情は承知してられたことだろうから、この翻訳へのプレッシャーというものは相当にあったのではないかと思う。
 それはともかく、ナボコフは怒り心頭したのかどうなのか、1938年にこの『カメラ・オブスクーラ』を自ら英訳して、これを『Laughter In The Dark』と改題してアメリカで出版することになる(このナボコフ訳の英語版は、1967年に篠田一士氏の翻訳で『マルゴ』として日本でも出版される。これはおそらく1959年に大久保康雄氏訳の『ロリータ』が刊行されたあと、ようやく日本で2冊目のナボコフ作品なのだと思う)。アメリカでさいしょに出版されたナボコフの作品であり、以後ベルリン時代のすべてのロシア語作品をナボコフが自分で英語に翻訳することになるところの、そのさいしょの英訳作品ということにもなる。

 じっさいにこの『カメラ・オブスクーラ』は出版されてヨーロッパでの評判が高く、それでイギリスでの翻訳刊行となったようである。しかしこのときのナボコフは<『ロリータ』のナボコフ>などではなく、ほとんど知られることのなかった「ロシア亡命作家」でしかなかった。とうぜん「小説・言語の構成に意識的な、文学の先端を行く作家」などと認識されているわけもなく、ちょっと面白い「若い女に身を滅ぼすブルジョワ男の悲劇」を書いた小説ぐらいの認識で、まあ翻訳者もちょい、ちょいと気楽に翻訳しちゃったわけだろう。
 それはそれとして、ナボコフは自分で英訳したときに「これがオリジナルの英訳だぜ!」と、オリジナルに忠実に英語に翻訳すればいいのだけれども、これが彼の英訳ではオリジナルのロシア語版からかなりの改変がなされているらしいからちょっと困る。ナボコフはやはり自作『絶望』を英語に翻訳するとき、ラストをすっかり書き換えてしまっているらしいし。

 この小説自体のことを書く前にすっごい放浪してしまったけれども、この作品はナボコフの作品としては第二作の『キング、クィーン、そしてジャック』につづいて「不倫モノ」というか、「クリミナル・ノヴェル」というテイストの作品であり、この作品のシチュエーションは『ロリータ』に引き継がれることになる。
 主人公のクレッチマーはベルリンに住む裕福な絵画鑑定家で、九年前に(成り行きで)アンネリーザと結婚し、今は8歳になるイルマという娘と、まあ幸福な生活をしている。クレッチマーは妻を裏切ったことなどなかったのだが、たまたま立ち寄った映画館で自分を座席に案内してくれた女の子を暗闇の中で見て、つまりその女の子こそ、クレッチマーの人生の大きな「躓きの石」になってしまうのであった。
 その女性はマグダといい、まだ16歳。映画スターになることを夢見、そのステップとして絵のヌードモデルをやっていた。それなりに男たちとの出会いもあり、クレッチマーと出会ったときにはけっこうな「すれっからし」に成長していた。クレッチマーとデートを重ねるうち、「この男は金持ちだし、わたしのモノにしてやろう」と思う。クレッチマーが内緒にしていたクレッチマーの住所を突きとめ、「誰が読んでも愛人からの手紙だろう」という手紙を投函する。手紙をクレッチマーの妻が読み、クレッチマーはマグダといっしょに、妻も娘も置いて家を飛び出るのだ(クレッチマー不在のあいだに娘のイルマは病死する)。
 クレッチマーとマグダとの愛の暮らしの場に、クレッチマーも知っているホーンという漫画家がやってくる。このホーンがなんと、マグダの以前の彼氏だったというわけだ。ホーンは自分の漫画が売れなくなって金欠だったし、マグダとのよりを戻しながらクレッチマーから金をせしめようと画策する。マグダは過去のホーンとの関係を隠しながら、いろいろとホーンをクレッチマーと同居する邸宅に招き寄せて情事を重ねる。ホーンはクレッチマーとマグダとの運転手におさまってしまい、いつだってどこにでも二人と行動を共にしながら、クレッチマーの目を盗んでマグダとの関係を深めていく。
 うまくクレッチマーの目をごまかして関係をつづけるホーンとマグダだが、偶然にクレッチマーの知人の小説家がクレッチマー不在の列車の中で仲睦まじいマグダとホーンを目にとめ、彼はあとで会ったクレッチマーに自分の小説作品のエスキースとして(その二人とクレッチマーとの関係を知らずに)、列車内でのカップルの素描としてマグダとホーンの様子を読んで聞かせる。「そりゃあマグダとホーンではないか」と気づいたクレッチマーはマグダを撃ち殺そうとは思うが、マグダと二人で車に乗って乱暴な運転で事故を起こす。マグダは無傷だったがクレッチマーは失明してしまう。
 クレッチマーの療養ということで行動を共にするマグダだけれども、そこにはクレッチマーに気づかれないように、ホーンも常にマグダといっしょにいるのであった。さてさて‥‥。

 以上に書いたのはほんの「あらすじ」の素描だけれども、もちろんナボコフの作品であるからには、ストーリーを読み取ればそれでOKというものではない(おそらくはさいしょのイギリスの翻訳者はそう思って翻訳したのだろう)。
 ナボコフの次の作品は『絶望』で、ここでは主人公が「自分にそっくりだ」と思う男と出会い、そのことから詐欺を思いついて「自分にそっくりな男」を殺害するというプロットだったが、実は主人公が殺した男は誰が見ても主人公には似てなくって、「詐欺」以前の問題として主人公の計画は破綻してしまうというものだった。
 『絶望』のトリックとは作者ナボコフが読者に仕掛けたトリックで、主人公の一人称描写でストーリーを進めれば、読者には「客観的事実」は読みとれずに、主人公が自分で「オレにそっくりだ」と言う男のことを「主人公にそっくりなのだろう」と読み進めるだろう。これは「小説」という形式が「視覚」を伴わない表現ゆえに可能となるトリックで、この小説をそのままに映画にするのはたいていは「不可能」ということになるだろう(ナボコフは映画化のアイディアを持っていたらしく、映画化を希望していたらしいのだが、ナボコフが亡くなった後になってドイツの監督ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーがじっさいに映画化している)。
 ナボコフの似たような作品に『目』という中篇もあるが、ここでは語り手の主人公の一人称描写のため、登場人物の中にひそむ主人公当人を読者は認識できないという仕掛けがなされている。
 このようなナボコフの作品は『ロリータ』を含めて「信頼のおけない語り手」による作品とも分類されるようで、つまり読者には「見えていない」ものがあるのである。

 それでこの『カメラ・オブスクーラ』では、逆に「主人公こそがまさに見えていない」という仕掛けになっている。もちろん、主人公の交通事故による失明以降の展開は「まさに」というところなのだけれども、もっとそれ以前から、主人公のクレッチマーにはマグダとホーンとの関係が見えていなかったのである。ここでは作品の客観描写、そして視点の切り替えによって、主人公には見えない(気づかない)ことが読者には見えている(気づいている)という構造で、まあ特にこの作品に限らず、世間にはこの手法で書かれた(主人公だけが気づいてない)という作品はいっぱいあるわけだけれども、この『カメラ・オブスクーラ』ではそのあたりのことをあれこれと意識的に表現している面白さがある(例えば、マグダとホーンとの関係を自分の目で見て知るのではなく、友人の小説家の「小説の素描」というかたちで知る、というあたりにも「認識の倒立」が見られるだろう)。

 そもそもが『カメラ・オブスクーラ』というタイトルが写真の原理による「暗箱」という意味でもあり、つまり暗箱の中の一点の「ピンホール」からの光線を投射するシステムであって、それは主人公がピンホールから照射される映像しか目にすることができない、その外の世界を認識できないことを意味するのだろうし、さらに言えば、この作品の中でも語られる「映画」というものの表現技法にもつながるだろうか。
 クレッチマーがまずマグダに出会うのがまさに「映画館」の上映開始前の「暗闇」の中でのことであり、そこで一点からの光に浮かび上がるマグダの横顔にクレッチマーは惹かれる。まさに「映画館」という大きな「部屋」が「カメラ・オブスクーラ」装置ともなっているわけだけれども、この作品の「映画」との関係というのはまだまだありそうだ。
 それで人が視覚を閉ざされたときに何を頼りにするかというと、もちろん、まずそれは「聴覚」であろう。そういうところで、この作品には「聴覚」的な描写も数多い。もちろん盲目になったクレッチマーは聴覚を最大限に機能させようとするわけでもあるのだが、それ以外の「音」というものの描写も読みどころだろう。
 例えばホーンが始終吹く「口笛」というものもあるが、この「口笛」というものはホーンのそれに限らず、娘のイルマが風邪からの回復期の夜中に口笛を聴いて、それがいつもの父親クレッチマーの口笛と思って寒い窓際に行き、結果として病気を悪化させて死んでしまうというあたりに特徴的だろうか。「悪魔が来たりて笛を吹く」ではないが、この作品に出てくる「口笛」というものにはどこか、悪魔的な、邪悪なものを感じてしまう。

 まだ書きたいこともあるのだが(とにかく長くなってしまった)、今回もまたわたしの「読み」が浅かったことを感じ、やはりもういちど再読しなければいけないと思っている。そう、ナボコフの作品は皆、「再読」を誘うのだ。