ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『生きる LIVING』(2022) オリヴァー・ハーマナス:監督 カズオ・イシグロ:脚本

 ちょうどこの1月に、テレビで黒澤明監督の『生きる』を観たばかりだったので、どうしてもこの『生きる LIVING』を比べてみたくなってしまうのだが、わたしは早くも1月に観た『生きる』のことを忘れかけてもいる。

 物語の進行は、この『生きる LIVING』はあくまでもオリジナル『生きる』に忠実だったと思う。そして主演のビル・ナイの演技も素晴らしいのだけれども、その身のこなしや、特に声の出し方に、オリジナルの志村喬の演技をしっかり研究したのだろうな、とは想像がついた。

 1953年のイギリスが舞台になり、冒頭の映像は特にテクニカラーっぽく原色、陰影が強調されていたようで、まさに時代を感じさせられる(2階建ての赤いバスが走っていたのでそう感じたのか?)。
 イギリスらしくもなく、列車通勤の模様から本編が始まって、その車中で同じ市役所の市民課の連中が会話しているけれども、彼らは市役所に着いて自分の席に座ってしまうと、もう列車の中での人間性は押し殺してしまう。それはこの映画の主人公で、市民課の課長であるロドニー・ウィリアムズ(ビル・ナイ)のかもし出す空気のせいなのだろうか、それとも「市役所」という空間がそこで働く人たちを圧迫するのだろうか。
 市民課には「汚れた空き地を公園にしてくれ」と、主婦たちが陳情に来るけれども、まさにロドニーの対応は「たらい回し」で、他の課へ彼女らを行かせる。市役所はどこの課も似たようなものらしく、また「たらい回し」された主婦らは再び市民課に戻ってくる。けっきょくロドニーはその陳情書を「未決」の棚に放り込むのだ。

 あるとき、市役所を早退して病院へ行ったロドニーは、そこで自分が「末期ガン」であり、余命半年、長くて9ヶ月だと聞かされる(ここはオリジナルでは医師が真実を隠し、主人公が疑って真実を知るという展開になる。イギリスの医師は「正直」なのか)。
 ここで映画はロドニーが「がぁ~ん!」(つまらないダジャレだ)とショックを受けるさまなどは描かず、ただ翌日から市役所を無断欠勤する、ということで彼の「動揺」をあらわすわけだ。
 ロドニーは出勤せずに、海辺の保養地に足を運んでいるわけだけれども、そこで戯曲作家と出会い、「金はあるから」と夜の遊びに案内してもらう。
 ロドニーは「死」を前にして、自分が追い求めるべきは「快楽」だと思ったのだろうが、彼の心は満たされなかった。しかしロドニーが、「死」が目の前にある今、「わたしは何を求め、何をすればいいのか」と思っていることはわかる。

 ロドニーは同居する息子夫婦にも自分が「末期ガン」だと伝えたいが、そもそも精神的には疎遠な息子夫婦との意思疎通がむずかしく、言い出せない。
 そんなとき、ロドニーは街で、「市役所を辞める」と聞いていたマーガレットという若い女性と会い、彼女と食事を共にする。
 マーガレットの、生き生きと明るく前向きな姿を見て、「彼女と一緒にいれば癒され、楽しい思いをする」自分を発見する。何度もマーガレットと会い、一緒に映画を観に行ったりもするロドニーは、ついにマーガレットには「自分は末期ガンなのだ」と告白し、「マーガレットのように生きたい」と語る。
 そのとき、ロドニーはある意味「生まれ変わった」のだ(オリジナルでは、ここで偶然を装って「ハッピー・バースデイ」が歌われるのだが)。

 オリジナルでは143分あった上映時間は、この『生きる LIVING』では102分と、30パーセント短くなっている。これは「後発の強み」というか、けっこう大胆に「不要」と思えたシーンをカットしているわけだ。
 この作品は「死を目前とした男が<生きる意味>を探し求め、自分の今までの仕事への立ち向かい方を変えることで<生きる意味>を見つける」ということを、どこまでストレートに描けるか、ということに一直線に向かっているようだ。
 ただ、ラストに「完成された公園のブランコにいたロドニー」を最後に目撃した警官が登場するが、これはオリジナルにはなかったシーンだったろうか(オリジナルでは葬儀の場に警官が来ていたっけ?)。さいごに「探し求めたものを見つけ、それを達成した」ロドニーの姿を観る人に印象づける、いいシーンだったと思う。

 さいごに、ロドニー・ウィリアムズの歌ったスコットランドのバラッド、「The Rowan Tree」を。