ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『生きる』(1952)黒澤明:監督

 『生きる』という映画は知っているつもりでいたが、この日テレビで放映されたのを観ることが出来て良かった。「そうか、こういう映画だったのか」と認識を新たにしたし、こういう機会でもなければ「この映画は知ってるから今さら観なくっていいや」と、パスしつづけていたことだろう。

 わたしが知っているつもりでいたのは、それまで無気力な仕事ぶりだった、役所に勤める主人公の志村喬が、胃ガンのために余命いくばくもないとわかり、それまで放置していた市民からの「公園設置」の要望を実現させるために奮闘し、ラストに志村喬は雪の夜、完成した公園のブランコに座って「ゴンドラの歌」を歌う、というぐらいのものではあった(わたしはそれがラストシーンかと思っていたのだが、そうではなく、映画の中でも短い扱いだった)。
 しかしこれはまさに「大雑把な」あらすじで、じっさいの映画はそんなに単純なものではなかった。

 ひとつには、ただ書類の処理に明け暮れるだけの、公務員の仕事をむしばむ「官僚主義」の告発があり、そこではできるだけ「新しい事業」などには手を出さず、毎日組織内に波風を立てずに変わらぬ仕事をつづけることこそが「優良」で、そんな中で公務員として出世すれば、代議士への足掛かりにもなるわけだ。
 このことはこの映画の導入部の、役所の窓口に陳情に来る市民への文字通りに「たらいまわし」な対応(主人公もこのときはそのような対応を取る公務員の一人ではあった)があり、また後半の、主人公の死のあとのお通夜の席に訪れた同僚たちの、主人公の功績を貶めるような発言になるわけだ。
 しかしそのお通夜に近所の市民らがお焼香に訪れてからは空気が変わり、逆に通夜の場は主人公を賞賛する空気に包まれ、皆が「自分たちも彼のように仕事に取り組もう」などと同調することになる。でもラストではまた役所のシーンになり、冒頭と同じような市民への「たらいまわし」が復活するのだった。
 この展開はいわゆる「お役所仕事」への痛烈な批判ではあるし、「市民の声を聞かない役所」ということは「国民の声を聞かない政治家」にも通じ、まさに今の情況への痛烈な攻撃でもあり得るではないか、とも思う。

 もうひとつ、この映画は「自分に余命いくばくもない」と知った主人公が、残された限られた「生」をどのように「生きる」かを見出すドラマ、でもある。というか、こっちの方がメインだろう。
 「生きる意味」を失った主人公は、それまで30年間無欠勤だったという役所を無断欠勤し、ある程度の金をふところにして夜の街をさまようことになる。飲み屋で知り合った小説家という男(伊藤雄之助)に案内され、パチンコをやってみたりストリップショーを見たりするが、心は満たされずに虚しいばかり。
 しかしそのあとに主人公は「役所に嫌気がさして辞めたい」という、役所の同じ課に勤める女性と出会い、彼女に「辞表の書き方」を教えてやり、その後しばらく毎夜のように彼女と会うようになる。彼女の生き生きとしたふるまい、生命力に惹かれる主人公だが、彼女に「いつまでもこうやって会いつづけるのはおかしい」と言われ、自分は胃ガンで命に限りがあることを話す。今は「おもちゃ工場」でおもちゃを作ってる彼女は、「あなたも何か作ってみたら?」と語る。その言葉に心動かされた主人公は、「自分にもまだ出来ることがある」と、役所に復帰するのであった。

 この展開は「ファウスト伝説」を思わせるものがあるけれど、主人公が出会う小説家のことを「これはメフィストフェレスだよな」と思って見ていると、その小説家も「オレはメフィストフェレスの代わりみたいなものか」などと語る。
 そうすると次に出会う女性はまさにグレートヒェン、ということになるわけで、まあゲーテの『ファウスト』のような悲劇的展開にはならないけれども、彼女はやはりグレートヒェンで、主人公は「時よ止まれ、君は美しい」と言える瞬間を求めるファウストだ、ということは出来るだろうと思う。
 わたしはさいごのお通夜の場面で、「いつかその女性もお焼香にあらわれるのではないのか」と思って観ていたのだが、そういう展開ではなく、ただ一瞬、その女性の作ったおもちゃが映されるだけだった。

 黒澤明監督は、この作品をトルストイの『イワン・イリッチの死』をもとに考えたらしく、主人公が英雄でも偉人でもない平凡な市井の人物にしたのもその影響だろう。しかし、主人公が『イワン・イリッチの死』のように「死の恐怖と孤独」の中でそれを超えた「諦観」に達するのではなく、もっと「行動」の中にこそ「生きる意味」を見出すというのは、この映画に普遍性を持たせた、すばらしいところだとは思う。

 志村喬の、いつもうつむき加減の姿勢で、消え入るような声で「いや、しかし‥‥」と繰り返す演技と、大きく見開かれた眼とは印象的で、後半の「公園建設」のために取り憑かれたような演技と合わせて、いちど観たら忘れないほどに印象的な演技だった。そしてやはり、雪の公園のブランコで「ゴンドラの歌」を歌うシーンは、どんな映画の中でも「名シーン」だとは思う。
 その生き生きとした演技も印象的だった、志村喬が出会う女性は小田切みきという女優さんで、普段でも自然体な彼女を、黒澤明監督が抜擢したのだという。