ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ジョーカー』(2019) トッド・フィリップス:監督


 主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は年老いた母親のペニーと、おそらくは低所得者対象のアパートに住んでいて、派遣の「道化師」の仕事をしているが、発作的に笑い出してしまう精神障害を患っていて、カウンセリングを受けている。彼はいつかはコメディアンになりたいと思っているのだが。
 しかし、そもそも「コメディアンになりたい」と思っている人物が、「笑い出してしまう」という精神障害を持っているというのは大きな「アイロニー」ではあるし、アーサーが扮する「道化師(ジョーカー)」のメイクとは、そもそもが「笑い顔」なのである。

 アーサーは「道化師」として小児病棟を慰問したときに隠し持っていた拳銃を落としてしまい、即解雇されてしまう。道化師のメイクのままメトロに乗ったアーサーだが、ガラガラの車内では1人の女性が3人の男に絡まれていた。それを見たアーサーは発作的に笑い出してしまい、怒った3人に暴行を受けることになる。反射的に持っていた銃を取り出し、3人を射殺して逃亡する。殺された3人がエリート社員だったことから、彼らを射殺した、まだ捕まらない「道化師」を英雄視する声が街に起こる。

 アーサーの母親のペニーは、30年前に自分を雇っていた街の名士のトーマス・ウェインに「救済」を求めて手紙を出し続けている。ある時アーサーがその手紙を投函する前に開けて読んでみると、そこにはペニーは当時トーマス・ウェインの愛人で、アーサーはトーマスの子だというようなことが書かれていたのだった。ショックを受けたアーサーは、母親が入院していた州立病院へ行き過去の母親のカルテを確認してもらうのだが、母親は妄想障害の精神病を患っていて、アーサーは「養子」としてペニーの子になったこと、ペニーから虐待を受けていたこともわかる。絶望したアーサーは、寝ているペニーの顔に枕をかぶせて窒息死させる。

 一方、アーサーのもとに人気トーク番組の「マレー・フランクリン・ショー」から連絡があり、コメディアンとしての出演を打診される。それは前にアーサーがクラブの舞台に立ったときのヴィデオが放映されたためだが、そのときアーサーは舞台で発作が起き、ただ笑いつづけていたのだった。
 そのショーに出演して生放送で自殺しようと考えたアーサーだが、いざ出演してみると司会者のマレー(ロバート・デ・ニーロ)はアーサーが発言するたびに茶々を入れてアーサーを笑いものにするのだった。

 アーサーは激昂して、生放送中にマレーを射殺してしまう。アーサーはすぐに逮捕されてパトカーで連行されるのだが、そのとき外ではアーサーの凶行を見た連中が暴動を起こしているのだった。いちどはアーサーもパトカーから逃れ出て、群衆から英雄視されるのだった。

 これは「傑作」なのか、それとも「こけおどし」なのかと考えると、その素晴らしさの輝く場面もあるし、「つまらない表現だ」と思ってしまう場面もある。しかし、一方に精神的にも社会的にも追い詰められた主人公がいて、それが社会的には多くの同調者を生み、「ヒーロー」扱いされてしまうというストーリーには、惹きつけられるだろう。そういう意味でこの映画以後、「オレはジョーカーだ!」と語る、チンケな犯罪者が登場したことも理解できる。
 そういうところでは、この映画は「アジテーション映画」だったのだろうか、とも思ってしまうが、扇動的な効果を生むような演出はなされていたのではないかと思う。

 ある意味でこの作品、「虐げられしモノ」と「精神を病んだモノ」とを安易に一つのグループに統合し、混同させているのではないかとは思う。そう捉えるとやはり「アジテーション映画」と見られてしまう要素はあったのではないだろうか(あとで考えて、パーソナルな「抑圧」を社会的な「抑圧」に拡大している表現として「評価できる作品」なのではないかと考え直したが)。

 映画のラストで、フランク・シナトラの「That's Life」が大きくフィーチャーされるのだが、これはフランク・シナトラの曲の中でもわたしの好きな曲なのだった。フランク・シナトラとしては異例にR&Bっぽい曲でもあり、シナトラがこの曲を歌ったあと、アレサ・フランクリンジェームズ・ブラウン、そしてヴァン・モリソンらもこの曲を取り上げたのだった。
 映画では曲の最初の方だけ「日本語字幕」が付いていたのだが、すぐに字幕は消えてしまった。この映画を象徴する曲と選ばれただけに、その歌詞の内容が映画ストーリーと重ねて意味を持つものだっただけに、最後まで「日本語字幕」を付けてほしかった、とは思う。