『マーニー』、『引き裂かれたカーテン』そして『トパーズ』と、近作3本が失敗だったと感じたヒッチコックは自身を立て直す新しい主題を探し求め、アーサー・ラ・バーン作の「Goodbye Piccadilly, Farewell Leicester Square」の映画化に取り組んだが、つまりそれはヒッチコックお得意の「殺人ミステリー」であり、「犯人の取り違え」という馴染みのテーマではあった。
このプロジェクトは1968年にはスタートしていて、ヒッチコックはなんと、まずはウラジーミル・ナボコフに脚本執筆を打診したという。前に依頼したときは100パーセントナボコフのオリジナルでの依頼だったのに、今回は「他人の作品」を映画脚本にしてくれとの依頼。ナボコフが受けるわけがないじゃないかと思うのだが、『マーニー』への出演をグレース・ケリーに依頼するなど、晩年のヒッチコックはよっぽど自分を「大物」と思っていたのか、単に常識が欠けていたのか。
けっきょく、脚本はアンソニー・シェーファーが担当することになるが、アンソニー・シェーファーは『フレンジー』と同じ1972年に公開された『探偵スルース』、のちの『ナイル殺人事件』の脚本家としても有名である。
作品は『舞台恐怖症』以来20年ぶりにイギリスで撮られることとなり、出演者は当時比較的名の知られていないイギリスの俳優が占めたが、当初映画で最初に殺されるブレンダ役はヴァネッサ・レッドグレイヴに依頼され(彼女は断った)、冤罪で終われるブレイニーにはデヴィッド・ヘミングスが検討されていたという。この2人はアントニオーニの『欲望』の主要キャストだった。
また、殺人犯のラスクにはマイケル・ケインが最初選ばれてたという。マイケル・ケインは「私にはある種の道徳心があり、この役を演じることを拒否しました」と言っている。
音楽はさいしょヘンリー・マンシーニが雇われていて、いくつかの曲を作曲していたらしいが、けっきょくイギリス映画界で活躍していたロン・グッドウィンが担当した。
撮影はギルバート・テイラーで、彼はビートルズの『A Hard Day's Night』や、キューブリックの『博士の異常な愛情』の撮影監督だった。
映画では、女性をネクタイで絞殺する連続殺人が話題になっている。パブで働いていたリチャード・ブレイニー(ジョン・フィンチ)はパブを解雇され、2年前に離婚して今は結婚相談所を経営して成功しているブレンダ(バーバラ・リー・ハント)のところへ行く。
そのあとブレンダは絞殺魔に殺され、状況証拠からリチャードが疑われる。逃げるリチャードはパブの同僚だったバーバラ・ミリガン(アンナ・マッセイ)を頼るのだが、彼女はリチャードと自分の友人でもあるロバート・ラスク(バリー・フォスター)を訪ねて相談する。しかし絞殺魔とはそのロバートで、バーバラも殺されてしまう。
ロバートはバーバラの死体をジャガイモを入れた麻袋に入れ、運送トラックに積み捨てる。しかしそのあと、証拠になるタイピンをバーバラが持ったまま死んだことに気づき、もういちどトラックの荷台に行って死体を探り、タイピンを取り戻す。そのあいだにトラックは動き出してしまい、ロバートにとっては危機的状況だったのだが、何とか抜け出して帰宅するのだった。
バーバラの死体も発見され、彼女がさいごにリチャードといっしょだったところから、さらにリチャードは犯人視される。逃走するリチャードはこれまたロバートのところへ助けを求めるのだが、ロバートはリチャードのバッグの中にバーバラの衣類を入れ、警察に密告する。
逮捕されたリチャードはロバートこそが犯人だったとわかり、復讐を誓うのだったが‥‥。
冒頭のシーンは空撮でテームズ川からロンドン市街地をとらえ、川べりで集会を開いている人々の中へとカメラが近づいて行く、ヒッチコックお得意のカット。
しかし観ていると、近年の「アメリカ時代」のヒッチコック作品とはずいぶんと雰囲気が違うと思った。考えてみるとこの『フレンジー』の舞台はロンドンの下町で、これまでのアメリカでの作品は登場人物らもだいたい皆「ブルジョワ」だったし、こういう下層階級の人たち中心の映画というのはなかった。
それでそういう雰囲気からも、ヒッチコックも60年代後期からの「アメリカン・ニューシネマ」の影響を受けてるのではないかと思った(登場人物らの服装からもそう感じたのか?)。そういうことでは「暴力描写」というか、殺人シーンの描写が生々しい。首を絞めるさま、ネクタイが首に食い込んで行く描写がリアルだし、殺された女性の、舌を突き出して眼をむいた死に顔もアップで映され、「そこまでやる必要があるかねえ」とか思ってしまう。
バーバラが殺される場面のカメラも秀逸で、ロバートとバーバラがいっしょに階段を上がり、ロバートの部屋に入って行くところまでを撮ったカメラはそこから後退して階段を降り始め、建物の外まで出てそのカメラの前を通行人が行き交う。怖いシーンだった。
いろんな物的証拠も状況証拠もリチャードに不利にはたらくところは、『間違えられた男』をもう一度リプレイしているような感じ。
ただ、捜査に当たっていたオックスフォード刑事(アレック・マッコーエン)が、裁判所でのリチャードの叫びから「彼が犯人じゃないかもしれない」と、捜査をやり直すことになるのだが、ここで刑事が自宅で夫人(ヴィヴィアン・マーチャント)のつくる、めっちゃ不味そうな料理を食べながらこの事件の話をし、夫人は最初っから「その男は犯人じゃないわよ」と言っているのだった。もう、この夫人がつくる料理が「これはシュヴァンクマイエルの映画か!」っていうぐらいに不味そうで、それを食べる刑事に同情してしまう。
この刑事と夫人の食事の場面は、「そんなの原作にはない!」と、原作のアーサー・ラ・バーンは抗議したともいうが、まさに「映画ならでは」の面白さだった。
たしかに今までのヒッチコック映画のように「飛躍」や「説明不足」みたいなシナリオの欠陥もなく、整合性の取れた作品だと思うし、「ホラー・ミステリー」として上質の作品とも思うのだけれども、わたしには先に書いた「アメリカン・ニューシネマ」っぽさみたいなところが、どうも受け付けられない作品ではあった。