ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ロープ』(1948) アルフレッド・ヒッチコック:監督

 ヒッチコック初のカラー作品で、ここで以後ヒッチコック作品に何度も主演したジェームズ・スチュワートが、初めてヒッチコック作品に出演する。また、1951年の『見知らぬ乗客』で主演したファーリー・グレンジャーも、この作品に出演している。
 映画は1929年の舞台作品「Rope」に基づいていて、まさに舞台作品らしくもドラマはすべてニューヨークのペントハウス・アパートの中だけで進行する(このことはボートの上だけで進行した『救命艇』を思い出させられる)。窓の外にはニューヨークの高層ビル群が見えている。ヒッチコックはここで、全篇をワンシーンでつなげ、映画の上映時間と劇中の進行時間とを一致させるという試みをやっている。

 わたしは『カメラを止めるな!』とか『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』みたいに、ワンシーン・ワンカットに見せかけた作品かと思っていて、じっさいにフィルムの切れるところは出演者の背中をアップさせて画面を一瞬真っ暗にし、そこでつなげたりしているのだが、見ていると同じ室内とはいえ、しっかりとカメラを切り替えて場面転換しているシーンが3ヶ所ほどあったわけで、ちょびっと「な~んだ」って思ってしまった。
 あと、「リアルタイム進行」というには、劇中のパーティーのシーンがあまりに短かく、誰もほとんど飲み食いしないうちにパーティーはお開きになるし、まるで飲んでいない人間が「飲み過ぎたようだ」などと言う。ま、大したもんだいではないが、すべてリアルタイム進行ではなく、パーティーのシーンはカットしてあるよ、と解釈すべきだろう。

 登場人物は冒頭にすぐに絞殺される男を含めて全部で9人で、ブランドン(ジョン・ドール)とフィリップ(ファーリー・グレンジャー)の2人がデヴィッドを絞殺するというショッキングなシーンから映画は始まり、正直言って観ていてあんまり気分のいいイントロではない。
 どうやら殺人犯の2人にはそこまでデヴィッドを恨んで殺害したというわけではなく、単に他人に対する自分らの優位性を証明するために、「動機なき殺人」を犯したようである。2人は死体をチェストの中に隠し、その部屋でディナー・パーティーを開くのである。これもまた、「スリル」を味わうためのようだ。この思想は主にブランドンのもので、冷静なブランドンに比して、フィリップは犯した罪におびえているようでもある。

 パーティーには被害者デヴィッドの父親や叔母、デヴィッドの恋人だったジャネット、ジャネットに気があるケネス、そして学生時代に彼らの寮長だったルパート(ジェームズ・スチュワート)らが招かれている。デヴィッドも来るはずなのに姿を見せないので、父親やジャネットは心配する。
 実はルパートは、学生時代の2人に法律や常識を超越したニーチェ的な「超人」思想を吹き込んだ当人で、2人とまたそのような話をしていたとき、フィリップの動揺ぶりに不信感を抱く。
 ブランドンはさらに、デヴィッドの父親に譲る本をデヴィッドを絞殺したロープで縛って渡し、それを見たフィリップはさらに狼狽する。

 パーティーはお開きになり、皆は部屋を出て行くのだが、そのときにルパートが受け取った帽子はルパートのものではなく、来なかったはずのデヴィッドのイニシャルが記されていた。
 ルパートはいちどは部屋を出るが、「シガレットケースを忘れた」と部屋に戻り、さらに2人を追い詰めて行くのだった。

 撮影は、俳優の動きとカメラ及びマイクの動きを綿密に計画して行われ、撮影の邪魔になる家具は撮影に従って移動させたりもしたらしい。じっさい、この映画では編集作業というものはほとんど不要だったわけだ。この演出法についてジェームズ・スチュワートは「ここで本当に重要なのはカメラで、俳優ではない」と違和感を語っていたという。
 リアリティのため、『救命艇』のように映画音楽は使われず、ただフィリップの弾くピアノと、わずかに聴こえるラジオの音楽だけが音楽だった。

 一般に、この実験的な試みは評価されたようだし、ストーリー自体の持つスリリングな展開は「リアルタイム」という設定のために一層緊迫感を高めたようだった。特に、ルパートが戻って来て2人の話の矛盾点を突いて行くあたりの展開は、「名探偵登場!」ってな感じで引き込まれた。
 ただ、わたしの感想では、「自分の優越性を証明するための殺人」という動機で1本の映画をけん引するには無理があるというか、心打つドラマとはとらえにくい。そもそも映画が何の説明もなく「2人の男が1人の男を絞殺するシーン」から始まるというのは、いきなり観る自分の気分を真っ逆さまに突き落とされるようでもあり、ダウナーな気分になってしまう。

 この映画の殺人者2人、ブランドンとフィリップとは同性愛の関係にあったと捉えられていて、この映画のもとになった舞台作品ではそのことはもっと明確に描かれていたらしい。
 しかしこの映画はまさか同性愛を擁護するものではなく、犯罪者の背後に「やっぱりね」というホモフォビア的偏見を植え付けるものでしかなかったのではないかと思える。このことはヒッチコックミソジニー嗜好とつなげて考えるべきだろうか。