ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『レベッカ』(1940) ダフニ・デュ・モーリエ:原作 アルフレッド・ヒッチコック:監督

 ついにアメリカへ渡ったヒッチコックの、アメリカでの第1作。
 ダフニ・デュ・モーリエの原作になる『レベッカ』は、何年か前にヒッチコック自身映画化を考えた作品らしく、「ヒッチコックの望み通りの映画化のチャンス」だったろうけれども、しかしアメリカ(ハリウッド)の映画製作システムはヒッチコックにとってそれまでのイギリスでとはかなり異なり、プロデューサーの力が相当に強いものであった。しかもこのアメリカ第1作のプロデューサーは、『風と共に去りぬ』や『第三の男』など幾多の名作を手掛けたデヴィッド・O・セルズニックで、「名作を手掛けた」のはいいのだけれども、彼は監督以上に映画にうるさく口出しする人物で、この『レベッカ』でもヒッチコックに脚本をいじらせず、撮影途中でもラッシュを見て口出ししようとしたという。

 配役もほとんどセルズニックの意向で決定されたようで、ヒッチコックには不満もあったようだし、マキシム・ド・ウィンターを演じたローレンス・オリヴィエも、相手役には自分の恋人だったヴィヴィアン・リーを望んでいたのが、当時ほとんど無名のジョーン・フォンテインが相手役になり、腹いせに撮影中はジョーン・フォンテインに冷たく応対したという。しかし冷たくされたジョーン・フォンテインの演技がこの映画の中での主役の追い込まれた心理に合致していると感じたヒッチコックは、スタッフら皆に「ジョーン・フォンテインに冷たく応対するように」指示したという。そのことは、後々『シャイニング』を演出したスタンリー・キューブリック監督が、シェリー・デュヴァルに精神的に追い詰められた演技をさせるために、ほとんど「嫌がらせ」を続けたということに引き継がれただろうか。かわいそうに。
 この作品はヒッチコックの作品としては唯一、アカデミー作品賞を受賞した作品だけれども、ヒッチコックはのちにトリュフォーとの対談で、「あれ(作品賞)はセルズニックに与えられた賞だ」と語っている。

 この作品、今までのヒッチコックの作品になく思いっきり「文芸タッチ」というか、「ゴシック・ロマン」という空気感の強い作品で、映画のすべてはすでに亡き人物であるレベッカという、マキシム・ド・ウィンターの前妻に支配されてしまっているという点でも特色がある。

 映画の前半は、マキシム・ド・ウィンターに見初められて結婚したヒロイン(映画の中でその名前を呼ばれることはない)が、ド・ウィンター家の大屋敷である「マンダレー」へ行き、まだマキシムの心を占めてしまっているようなレベッカから、自分の主体性をアピールし、マキシムの心をあらためて自分に向けさせ、「マンダレー」の女主人に君臨することを望むという展開だけれども、癇性の強いマキシムはすぐにレベッカのことを思い出して怒り出すし、屋敷を仕切るダンヴァー夫人という存在がまさにレベッカを崇拝しており、ヒロインを排除しようともするわけで、ヒロインはなかなか毅然とした姿勢を示すことも出来ず、いつもおどおどしているようなことになってしまっている。

 ヒロインは「マンダレー」の大広間で過去に行われていた「仮面舞踏会」を復活させ、自分が取り仕切ろうとするのだけれども、自分がどんな衣装にしようかと迷っていたとき、ダンヴァー夫人が屋敷に掛けられた女性の肖像画の衣装がいいですよ、などと勧め、ヒロインは言われるままにしてしまう。
 舞踊会の当日、ヒロインがその衣装を着てマキシムの前に出ると、マキシムは激怒して「すぐに着替えろ!」と命じる。実はその衣装は前回の舞踏会でレベッカが着ていたものだったのだ。それはマキシムだけでなく、屋敷のスタッフ皆も訪れる客人も「それはまずい」と思うものだろう。
 これはダンヴァー夫人の策略というか、ヒロインの破滅をも狙った計画で、2階に駆け上がったヒロインに対してダンヴァー夫人は「あなたはどうあがいてもレベッカさまにはかないっこないのよ、あなたはマンダレーには不釣り合いです。消えてしまいなさい。この窓から飛び降りればすむことです」と囁くのだ。

 ここで突然に、「マンダレー」の前の海で古い難破船が見つかったという知らせがあり、映画のトーンはまったく一変してしまう。
 ここから先、一年前にひとりでボートに乗って海で亡くなったというレベッカの、その「死」の秘密、真相が究明されることになり、ある意味ヒッチコックの得意な「サスペンス」モードが取り込まれる。
 ここまでヒロインは、マキシムはレベッカへの想いを忘れられずに苦労しているのだと思っていたが、マキシムは彼女に「わたしはレベッカを愛してなどいなかった」と語り、実はレベッカがとんでもない悪女であったことが語られるのだ。
 レベッカは岸辺のボート小屋でマキシムを嘲笑し、「(あなたのではない)子供を身ごもった」と語るが、そこで躓いて転び、そのまま死んでしまたのだという。マキシムは「レベッカは自殺した」ことにしようと、彼女の遺体をボートに乗せて沖に乗り出し、そこでボートを沈めたのだった。
 この日そのボートとレベッカの遺体が発見され、ボートには船の中から沈めるための細工あとも見つかる。警察も誰もが、「レベッカが自殺したのでもない限り、おそらくは夫のマキシムに殺されたのだろう」と思うことになる。
 しかし、レベッカはその死んだ当日に、病院へ行っていたことがわかるのだった。警察署長と弁護士、マキシムとはその医者の所へ行き、「レベッカの最後の日の診察結果」を聞くのだった。

 原作本では、レベッカはマキシムに銃で撃たれていて、とりあえずマキシムはレベッカを殺害していることになっていたらしいが、この映画ではレベッカが自分で転んで死んでしまったことになっていて、「それはいくら何でも‥‥」という気はする。実はマキシムがレベッカを殺していようがいまいが、真実とその波及する結末には影響はないわけだけれども、映画としてはまだまだこれから先、マキシムはヒロインと幸せな日々を送ることが予想されるわけだから、マキシムに罪を犯させまいという気もちはあったのだろう。

 このラストの展開でわかるレベッカの本性、真実もショックだけれども、やはり映画として怖いのは「ダンヴァー夫人」で、彼女がヒロインを追い込み、自殺させようと耳元で囁くシークエンスの恐ろしさは、そんじょそこらのホラー映画が敵うものでもない。この映画全体は、映画には一度も姿を見せることのない今は亡きレベッカに支配されている感があるけれども、そのレベッカの「魂」を体現しているのが、ダンヴァー夫人なのだということも出来るだろう。

 ヒッチコックの演出として、古い屋敷の中で重厚さも求められるからか、けっこうじっくりと撮っている印象もあるが、カメラが移動して対象に迫って行くさまや、逆に対象からカメラが引いて行くショットなどに、ヒッチコックらしさを感じた。
 前作までみせた、サスペンスとユーモアの競合というような面はみられないというか、題材ゆえもあって「ユーモア」はほとんど封印した作品だけれども、それだけに「重厚さ」が前面に押し出され、「クラシックな名作」という空気を漂わせる作品になったと思う。