『サイコ』から3年のブランクを置いての新作。これまでほぼ「1年に1作」のペースで映画を撮ってきたヒッチコック、珍しいことである。
そもそもこの映画の発端は、1961年の8月にカリフォルニア州のある町をじっさいに襲った「鳥の大規模な襲撃事件」からインスピレーションを得たものだったという(この事件の原因は鳥が有毒な藻類を食べたためだったらしい)。
原作はダフネ・デュ・モーリエの1952年に発表された「鳥」をもとにしており、ヒッチコックがダフネ・デュ・モーリエの原作で映画を撮るのは『巌窟の野獣』『レベッカ』に続いて3作目になる。原作の舞台はイギリスのコーンウォールで、その結末はもっと悲観的なものだったらしい。
映画脚本はしばらく前からテレビの「ヒッチコック劇場」などでヒッチコックに協力していたエヴァン・ハンター(実はエド・マクベイン)が担当し、ヒッチコックと話し合いながら作品を膨らませた。ヒッチコックはさらに友人らの意見を求め、脚本のラストを大きくカットして結末を曖昧なものにした。
ヒッチコックは主演にグレース・ケリーとケーリー・グラントを想定(想像)し、それに合わせてティッピ・ヘドレン(ヒッチコック好みの金髪美女だった)とロッド・テイラーをキャスティングした。ティッピ・ヘドレンはそれまでテレビのコマーシャルなどに出演していたが映画出演は初めてで、ヒッチコックとしては「自分が誕生させた映画スター」という意識もあったのではないだろうか。そのことがヒッチコックの彼女への「セクハラ」にもつながっていた気がするが、今はそのことは置いておくけれど、彼女ののちの女優となった娘のメラニー・グリフィスの「メラニー」という名は、この映画のティッピ・ヘドレンの役の名からとったのではないだろうか?
主演2人の他にも、スザンヌ・プレシェット、ジェシカ・タンディ、子役のヴェロニカ・カートライトなどが出演した。
ジェシカ・タンディはこの作品のあとは舞台に力を入れてあまり映画出演はなかったが、1989年、80歳のときに『ドライビング Miss デイジー』に主演し、アカデミー賞を受賞した。
ヴェロニカ・カートライトものちに『エイリアン』(1979)でノストロモ号の乗組員として出演。彼女の妹のアンジェラ・カートライトも女優(子役)で、『サウンド・オブ・ミュージック』やテレビの『宇宙家族ロビンソン』に出演していた。
この作品は「鳥の鳴き声」が大きくフィーチャーされ、「映画音楽」というものはまったく使われなかったのだけれども、当時開発されていた「シンセサイザー」の前身、「トラウトニウム」を使用してその「鳥の鳴き声」を創出したのだった。また、これまでのヒッチコック作品で音楽を担当したバーナード・ハーマンはこの作品では「サウンド・コンサルタント」としてクレジットされている。
ストーリーはサンフランシスコのペットショップの「小鳥売り場」から始まり、そこにいた客のメラニー・ダニエルズ(ティッピ・ヘドレン)のことを、後から来た弁護士のミッチ・ブレナー(ロッド・テイラー)がわざと店員と間違えて鳥のことをいろいろ聞くことから始まる。社交界であれこれと名の知られていたメラニーのことをミッチは知っていてのことだった。
からかわれたことを知ったメラニーは、ミッチが妹の誕生日プレゼントに「ラヴバード」というインコを買おうとしていたことから、その「ラヴバード」を買ってミッチの住むボデガベイというところへ持参し、ミッチを驚かせようと画策する。
この導入部、舞台に「小鳥売り場」を選ぶことで映画のテーマを持続させてはいるけれども、いかにも『泥棒貴族』での九レース・ケリーとケーリー・グラントを思わせるようなコメディっぽい展開。まあヒッチコック映画なことだから、この2人は愛し合うようになるだろうとの予測はできる。
しかし、メラニーがその海岸沿いの小さな町のボデガベイに着いて、まずボートに乗って町の対岸のブレナー家へ向かうとき、一羽のカモメに襲われてケガをする。ブレナー家のミッチののリディア(ジェシカ・タンディ)は冷たい印象だが、ミッチの歳の離れた妹のキャシー(ヴェロニカ・カートライト)とは仲良くなれそうだ。
翌日はキャシーの誕生パーティーがあるからそれまでいればいいとミッチに言われ、メラニーは先に知り合っていた学校の教師のアニー・ヘイワース(スザンヌ・プレシェット)の家に泊めてもらうことにする。アニーはミッチのかつての恋人だったのだが、母のリディアに受け入れられず、ミッチとの恋人としての仲は続かなかったという。
そういうことに付随して、この小さな町に住む人々の閉鎖性もあらわになっては来るのだけれども、そんな「人間ドラマ」に「鳥の襲撃」が絡み、単に「パニック映画」ではない、独特のドラマになっていたと思う。
やはり、キャシーの誕生パーティーが鳥に襲われてしまったあと、町のカフェで町人らが論争をし、そのカフェの外が鳥に襲われて、ガソリンスタンドから出火するという一連のシークエンスがドラマチックで、この場面で今の時代に共通するような「自然愛護派」と「殺りく派」、さらに宗教的言動をする者らがあらわれるのは興味深かった。
そんな中で、「町の外から来た」メラニーに、「あんたのせいだ」とばかりに攻撃の鉾が向く。
このことはひょっとしたらこの作品の「核心」というべきなのか、リディアの排他的態度の奥底には4年前の夫の死があったことをリディアもあとで自覚するきっかけもあるのだが、けっきょく鳥の攻撃で精神を錯乱させ、ミッジの家族と共に町を脱出するメラニーは、けっきょく「町」に受け入れられずに「排除」されたのではないだろうか。
映画のラストが「よかった。何とか脱出できた」というホッとした気もちをあらわすのでなく、「追い出された」という気分に似た、暗鬱たる終わり方だったわけだ。
ラジオのニュースから、鳥の被害がこの町だけのことではないとわかるせいでもあるけれども、そうすると地球規模での「自然」対「人間」、という物語を思わせられるのでもあった。
そういうところでも、この作品が「動物パニック映画」というジャンルの開祖であったと同時に、そんな「パニック」の、もっと先を見ているような作品だろう。