ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『私は告白する』(1953) アルフレッド・ヒッチコック:監督

 アルチュール・ランボーの同級生だったという、ポール・アンテルムという作家による古い戯曲をもとにした作品で、12人に及ぶ作家が8年にわたって、この作品を映画の脚本化することに取り組んだという。最終的にジョージ・タボリの脚本がベースにされたが、この脚本は司祭とその愛人とのあいだに隠し子が生まれ、さいごに司祭は処刑されるというものだったが、教会を撮影に使わせる許可を出していたケベックの教会は、そのストーリーの結末を知りその許可を取り消した。ジョージ・タボリは脚本の修正を拒否したので、ヒッチコックはウィリアム・アーチボルドに脚本を書き直させた。このアーチボルドという人が1950年にヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をもとに書いた戯曲『The Innocents』は、のちにジャック・クレイトンの映画『回転』として映画化された。

 主演にはモンゴメリー・クリフトが決定したが、舞台経験の長かったモンゴメリー・クリフトは、映画人とは異なった彼独自の演技理論、演技技術を持っていて、ヒッチコックはそれが理解出来ず、不満をおぼえていたという。
 相手役の女優に、ヒッチコックはさいしょ、1951年にカンヌ映画祭でグランプリを受賞した『令嬢ジュリー』に主演したアニタ・ビョルグを使おうと招へいしたが、恋人と赤ちゃんを連れてハリウッドに到着した彼女を見て、ワーナー・ブラザースは彼女を使うことに強く反対したという。けっきょく、1950年の『イヴの総て』でタイトルロールを演じて好評を博したアン・バクスターが出演することになった。
 わたし的には、わたしの好きなカール・マルデンの出演がうれしいところ。

 撮影は先に書いたようにカナダのケベックのロケ撮影が中心になり、街の風景やシャトー・フロンテナック、街の教会の内部などが撮影に使われた。

 ストーリーはヒッチコックらしい「間違えて犯人とされてしまった男」の話ではある。しかし、神父である主人公はほんとうの犯人から「懺悔」を受け、殺人の「告白」を聴いていたのだが、教会の戒律によって「懺悔」で聴いた内容を外に漏らすことは出来ず、自分への疑いを晴らすことが出来ずに苦悩するのだ。
 しかも殺された男は実は、神父が国会議員の妻のルースと(いちどだけ、やむを得ず)密会していたのを知って、ルースを脅迫していたのだ。
 殺人犯は教会で下働きをする男で、彼の犯行を知っているのは、「懺悔」をした神父と、殺人犯の妻だけである。

 殺人犯が犯行に及ぶときに神父のマントをはおっており、その姿が目撃されたところから神父が疑われていたが、ルースとの関係、被害者から脅迫されていたことなどがあらわになると、容疑者として裁判にかけられる。
 裁判では「真実の究明」よりも、スキャンダラスな神父とルースとの関係こそが白日の下にさらされる展開になる。
 判決は証拠不十分で「無罪」とされるが、神父が裁判所を出ると、人々が神父を罵って攻撃するのだった。殺人犯の妻はそのことに憤り、神父のもとに駆け寄るが、「真相を皆に語られる」と思った殺人犯は妻を射殺し、ホテルの中へと逃げ込むのだった。
 警察に包囲された男は、彼に近づいて落ち着かせようとする神父にあらためて真相を語って神父を撃とうとし、警官に撃たれるのであった。犯人は神父に抱かれて、何かを語ろうとして息絶えるのであった。

 ストーリー全体に、その「キリスト教の戒律」としての「神父は懺悔された事柄を他人に語ってはならぬ」ということが重くのしかかり、映画の空気全体も重っ苦しいものがある。「自分は無実だと自分で証明出来るのに、それが出来ない」という不合理、不条理が、これまでのヒッチコック作品にはない「シリアスさ」を生む(先に書いたように、さいしょの脚本では神父は「有罪」になって処刑されていたわけで、もう「やりきれない」作品になっていたことだろう)。主演のモンゴメリー・クリフトの苦悩する姿にも引き込まれ、強い緊張感が持続されただろう。その「シリアスさ」ゆえか、この作品はカンヌ映画祭にも出品されている。

 当時の批評には否定的なものも多く、「ヒッチコックらしいサスペンスに欠ける」という評が多かったらしい。一方で「魅力的なスクリーン・ドラマで、これまでになく人間関係を深く掘り下げた」という評もあり(わたしの感想はこの評に同意する)、「欠陥はあるもののヒッチコックの忘れられた傑作」とも語られた。
 後年、シネマテークで働いていた、のちの映画監督のピーター・ボグダノヴィッチは、この『私は告白する』がシネマテークで上映されたとき、晩年のモンゴメリー・クリフトが観客の中にいたことを語っている。