日本のWikipediaでは、この作品の製作総指揮はデヴィッド・O・セルズニックとなっているのだけれども、前に書いたようにこの時期はセルズニックはプロデュース業を休業しているはずだし、彼がプロデュースしているのならこの作品の製作は「セルズニック・プロ」のはずなのだが、英語版Wikipediaではこの作品の製作は「RKOラジオ・ピクチャーズ」とされているし、主演のジョーン・フォンテインは、セルズニックのオフィスから借り受けなければならなかったとも書かれている(あとでこの映画の冒頭を見直してみたのだが、不思議なことにプロデューサーの名前はクレジットされていないのだった。やはり英語版Wikipediaの記述のように「RKOラジオ」として製作に当たっていたのだろう)。
面白いことに、「RKOラジオ」はこの原作の映画化権を買ったとき、2人の脚本家に先に脚本を書かせていたのだけれども、監督がヒッチコックに決まると、その既成の脚本は使われずに、ヒッチコック側が新たに脚本を書いたのだという。こういうことはセルズニックが製作に関わっていれば起こり得ないことではないかと思う。
そういう意味で、ヒッチコックとしては自分の思うがままに撮ることが出来たのではないかとは思うけれども、ところがどっこい、ここにすでに大スターであったケーリー・グラントを出演させることにおいて、彼のイメージを傷つけることはならないとの圧力が入り、そのためにラストは180度異なるものに書き直されたのだという。
映画はある女性が結婚したあとに夫が不誠実で虚言を弄していると知り、自分の生命保険金目当てに自分を殺そうとしているのではないかとの疑念にとりつかれるというストーリーで、今までのヒッチコック作品とはちょっと毛色が違っている。
ヒッチコックの演出も、あくまでも女性(ジョーン・フォンテイン)の視点から外れずに、彼女がだんだんに心理的に落ち込んで行く過程を撮って行く。すべて彼女の視点での映画だから、夫(ケーリー・グラント)が彼女から離れているとき、また彼女が夫から離れているとき、その夫が何をしているのかはわからないし、夫の心の奥底もわからないままなのである。
リナは列車の中で夫になるジョニー・エイスガースと出会い、彼の誘いに押されて駆け落ちするように結婚してしまうのだけれども、まあヒッチコック映画は男と女が恋に落ちる描写はいつも淡白で、「逢ったとたんに一目惚れ(To know him is to love him)」みたいなものなのだが、この映画ではいちおう、リナが両親の会話で「リナは彼氏もいないし結婚出来そうもないな」というのを立ち聞きしてしまい、そんな両親への反発もあって、いちおう見かけはハンサムで魅力的なジョニーを選んでしまうのである。
けっこうこの映画の展開、ジョーン・フォンテインが先に出演した『レベッカ』に似ているところもあり、2人があっという間に結婚し、新婚旅行から帰って来るとロンドンに豪華な新居が待っているわけだった。「これから幸せな2人の生活が始まるのだ」と思いきや、夫には「秘密」があるのだった、というわけである。
その「豪華な新居」も実は賃貸だったわけだけれども、夫のジョニーは実は「無職」「無収入」で、しかも「競馬狂」。すべて借金でやりくりする生活だったのだ。いちおう裕福なリナの実家からは、結婚祝いに超アンティークな「博物館モノ」の対の椅子が贈られて来たのだけれども、ジョニーはリナの留守のあいだに骨とう品屋にその椅子を売却してしまうのだ。
リナはジョニーに「仕事を見つけるよう」説得し、ジョニーはいとこの不動産業者のところで働くことになるのであった。
それがある日、ジョニーは「競馬で大穴を当てた」と、売却した椅子は買い戻すし、あれこれと浪費するのだった。しかしその金は実は、働いているはずの不動産屋から横領したもので、彼は解雇されていて返却出来なければ告訴されるというのが真相だった。
次にジョニーは、西イギリスの海岸の土地を開発する計画を立て、友人のビーキーに出資させて共同で運営しようとする。リナはその計画に反対し、ビーキーに出資しないように言うのだが、ビーキーとジョニーはロンドンから出かけ、何とビーキーはパリで死んでしまう。どちらにせよ土地開発計画は頓挫するのだが、リナは「ジョニーがビーキーを殺害したのでは?」と疑うのである。
さらにジョニーは、リナの愛読する推理小説にも入れ込み、リナの知り合いでもあったその作家にも会いに行き、何と「毒殺で証拠の残らない毒物はあるのか」などと聞いていたのだ。そしてリナはジョニーに来た保険会社からの手紙を読んでしまい、それは「保険金は奥様の死亡のときのみ地払われる」との通知だった。実はジョニーは、妻への生命保険のことを問い合わせていたようだ。
リナは、「次はわたしが殺される」と、おびえるのであった。そんなとき、寝室で寝ているリナに、ジョニーは自分でミルクを運んで来る。これは有名なシーンで、階段をゆっくりと上がるジョニーの持つトレーの上の、グラスの中のミルクは白く明るく見えるのである。
リナはそのミルクを飲めないのだが、実家の母が急病で倒れ、実家へ行くというリナをジョニーは車で送るというのだった‥‥。
ニュースを見ていても、こういうジョニーのような「ダメ男」による犯罪という事件はじっさいに起きているわけで、リアリティがあるというか、「人間失格亭主」というのは古今東西を問わない問題であろう。
この映画のラストはジョニーにはリナへの殺意などなく、「2人でやり直そう」と和解することで終わるけれども、ジョニーが無職で収入もないという現状に何らの改善があったわけでもなく、「これからジョニーも心を入れ替えるのだ」という期待でしかない。しかしこれまでもリナに幾度も嘘をついて来たジョニーの「虚言癖」はそんなに簡単に治るだろうか。どう考えてもこのラスト、「外圧」で変更させられたこのヴァージョンの前の、オリジナルな結末を想起させられるものだと思う。
『レベッカ』でもだんだんに抑圧されて行くヒロインの心理状態をけっこう見事に演じていたジョーン・フォンテインは、ここでもだんだんに「疑念」(この映画の原題は「Suspicion」であった)に囚われて行くヒロインを演じ、この作品では「アカデミー主演女優賞」を受賞している。
ただ、『レベッカ』ではヒロインが催す「舞踏会」が直前で中止になってしまった「代償」に、というか、何度かの舞踏会のシーンがさしはさまれていた。あと、どうでもいいことだが、今までの作品を考えても(ヒッチコックは犬が好きなんだな)とは思った。
この、「サスペンス心理ドラマ」という劇づくりは、以後ヒッチコックのドラマにいろいろと活かされるモノになったのだろう。