ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『底知れぬ愛の闇』(2022) パトリシア・ハイスミス:原作 エイドリアン・ライン:監督

 原題は「Deep Water」で、パトリシア・ハイスミスが1957年に発表した小説の映画化で、小説の邦題は「水の墓碑銘」だが、この映画の邦題はちょっと堪忍して欲しい気がする。
 この映画はエイドリアン・ラインが20年ぶりに撮った作品で、本来2020年に普通に劇場公開される予定だったのが「COVID-19禍」の影響などで延期され、けっきょく劇場公開は断念されて去年の春にアメリカでは「Hulu」、その他の国では「Amazon Prime Video」で公開されたもの。

 映画は郊外の町に住むヴィック・ヴァン・アレンベン・アフレック)とメリンダ(アナ・デ・アルマス)の夫婦、その就学前の娘のトリクシーの3人家族の話で、ヴィックはドローン開発の特許で財産を得て、今は富裕ニートな生活をしている。カタツムリを飼育するのがヴィックの趣味ではある。
 夫婦は町のセレブというか、町でしょっちゅう開かれるパーティーの常連メンバーで、そのパーティーにメリンダがいつも若い男といっしょなことは皆も知るところであるし、ヴィックも当然知っているが、そのことでメリンダを責めることもないようだ。

 ヴィックはあるパーティーで、メリンダと付き合っている男をプールで溺死させ、そのことは目撃者もなく「事故」として処理されるが、メリンダはヴィックを疑う。
 次にヴィックは新しいメリンダの男を車で渓谷に連れて行き、撲殺して浮かばないように彼の身体に重しの岩をつけ、渓谷の川に沈める。
 あとでヴィックが渓谷に行くと、死体が浮かび上がってしまっていた。死体を沈め直そうとするとき、プールの件のときにもヴィックを疑っていた町の男が渓谷に来ていて、そんなヴィックのことを目撃し、車で町へ帰ろうとする。
 ヴィックは乗って来たマウンテンバイクで男の車を追跡し、雑木林の中をショートカットして車に先回りする。車は運転を誤り、崖から川に転落するのだった。

 ヴィックが家に帰ると、アマンダは心を入れ替えてヴィックに惚れ直したかのように、ヴィックに愛情深く接して来るのであった。

 この映画の結末は、小説版とは異なっていて、それまでの展開はほとんど同じだと思うのだが、小説では渓谷での殺人が露見したあとに帰宅して、優しく迫って来るメリンダに激怒して絞殺し、そこに警察がやって来るというエンディング。
 要するに映画版はヴィックは捕まることなく、「これからアマンダとやり直すぜ」とでもいうようなラストなのだけれども、小説版のラストではヴィックは自分の殺人哲学を語るのだが、それはヒッチコックの『ロープ』で犯人が語っていた理論に似ていたのだ。
 つまり、同じハイスミスの『太陽がいっぱい』では、小説ではリプリーは「完全犯罪」を果たすのだが、映画ではリプリーの犯罪は露見してしまうのと、小説と映画が逆になった形というか。

 ていうか、この映画でのラストが「果たしてヴィックの犯罪は露見しないということなのか」というと、ちょっと微妙なところがあると思う。アマンダはヴィックの行動を知っていて、このあと警察に告発しないとも限らないみたいだし、「あいまい」なエンディングではないかとわたしは思った。
 こういうエンディングでもいいのだけれども、そこまでの演出でヴィックは犯罪を隠すためにおどおどしていたり、必死になっていたり、原作にある「オレは普通のヤツと同じじゃないのだ」と超然としたところが失せてしまう。ラストに苦しめられながらも愛していたアマンダを、無慈悲に絞殺してしまうところにヴィックという男があり、この「Deep Water」という作品なのだ、というところが失せてしまった気がする(特に、さいしょのプールでの殺人のあと、ヴィックが犯行を回想するシーンも「どんなものか?」って思った)。

 あと、こういうサスペンス/ミステリーっぽい作品を観て思うのだが、やはりヒッチコック作品は素晴らしいというか、それは脚本のセリフの中とかに作品の精神を活かす手腕というか、単純に「原作小説を脚本に置き換えて」みたいなことはやらないことの偉大さはあると思った。

 この作品にも「ヒッチコックの影響」というのはあって、特に室内で階段を使った演出というのは「ヒッチコックだな~」って思った。
 アナ・デ・アルマスもベン・アフレックも良かったけれども、ただヴィックの性格付けにわたしは疑問があったので、「こういう演技でない方が良かった」とは思ったものだけれども。