ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『めまい』(1958) アルフレッド・ヒッチコック:監督

 この作品はよく知られる通り、近年「世界の映画批評家が選ぶ偉大な映画50選」の第1位に選ばれている作品である。
 「公開当時はあまり評価されなかった」と聞いて、日本ではどうだったのだろうと「キネマ旬報ベストテン」のアーカイヴを閲覧してみると、1位ではないどころか、ベストテンにも選出されてはいない。
 これはもう、ヒッチコックの他の作品にもいえることで、なぜか唐突に1947年に『断崖』が1位に選ばれていることを例外的に、あとは1963年に『鳥』が4位に選出されているだけ。『見知らぬ乗客』も『裏窓』も、あの『サイコ』すらベストテンの中にすら入っていない。日本においては長いこと、ヒッチコック作品はまさに「娯楽作品」で、作品として評価するとかそういうものではないのだ、という空気にあったわけだろう(これはトリュフォーヌーヴェルヴァーグの監督らがヒッチコックを賞賛するまでは、海外でも同じようなものだったようだが)。

 しかし今観ても、この『めまい』はとんでもない作品であって、それまでのヒッチコック作品との乖離もめちゃ大きい。たしかにこの作品までのヒッチコックは良質の「サスペンス/ミステリー」の作者だっただろうけれど、この『めまい』では突然に、ヒッチコックデヴィッド・リンチになってしまったみたいだ。
 というか、デヴィッド・リンチのある種の作品は、この『めまい』という映画が先行していたからこそ撮られたというか、理解されたという側面もあるだろう(まさに『マルホランド・ドライブ』などは『めまい』のように1人の女性が2人を演じるという作品ではあった)。
 この『めまい』の原作はフランスの2人組、ボワロー=ナルスジャックによるもの。わたしは彼らの作品を読んだこともないけれど、彼らの作品で映画化されたものに『悪魔のような女』、『顔のない眼』というカルト的な心理映画があるところから、この『めまい』のそういう「変態的」部分というのは、原作に内包されていたものではないかと思う。原作からの脚本はアレック・コッペルという人物とサミュエル・テイラーという人物が担当しているが、アレック・コッペルは『泥棒貴族』でも脚本を担当していたし、サミュエル・テイラーはこの後もヒッチコック作品の手助けをし続けたらしい。
 ヒッチコックはこの『めまい』のあと、『サイコ』、『鳥』というぶっ飛んだ作品も撮りはしたが、もうあとの彼のフィルム・キャリアがそんなに長くはなかったことは残念だ。

 さて、この『めまい』という作品、表面的には、古い友人のエルスターに「高所恐怖症」という弱点・フォビアを利用されて彼の「妻殺し」に加担してしまった元刑事のスコティ(ジェームズ・ステュアート)が、そのあと事件の真相を暴くという展開ではあるけれども、映画として狂っているのは、先に「死んだ」と思っていたマデリン(キム・ノヴァク)という女性にそっくりなジュディ(もちろんこちらもキム・ノヴァク)という女性に出会い、そのジュディを何もかもマデリンそっくりに<改造>するという、狂気じみた展開にあるだろう。その過程で偶然にもスコティは「事の真相」を知り、そのことでまたもや、というか、こんどは本当に、ジュディを「死」に追い込んでしまうのである。

 スコティは、さいしょのエルスターの計画で「高所恐怖症」であることから教会の鐘楼に登ることが出来ないだろうと読まれていて、実はジュディが扮していたマデリンが鐘楼に登り、上で待っていたエルスターによって本物のマデリンと入れ替わって、すでに死んでいた本物のマデリンが鐘楼から落とされた、というトリックを看破出来なかったわけだけれども、「真相をたしかめる」というよりは「自分の高所恐怖症を克服するために」、ラストでジュディと共に鐘楼の上まで登り、偶然あらわれた修道女に驚いたジュディが、エルスターの「犯罪」のときのマデリンのように、下へと落下してしまうのである。

 ここで修道女があらわれてジュディが落下したのは「偶然の事故」のようだが、先にマデリンに扮してスコティを誘惑しておきながら、ラストには入れ替わって実際には死ななかったジュディが、ここで「真実を暴きたい」とするスコティの意志で「前回は本当は死んでいなかった」のが「死」に追いやられるのは必然であり、スコティは「真実」と「自らの高所恐怖症克服」のために、ジュディを殺したのである。
 そもそも、実際にはデパートの店員に過ぎなかったジュディに、マデリンと同じ服装をさせ、同じ髪型にして「死んだマデリン」を再現させたというのは、生きた人間に「死に装束」をさせる以外の意味があるだろうか。スコティはジュディの中に「生身の人間」を見てはいない「異常者」であり、この時点でもう、スコティはジュディを殺しにかかっているのであろう(ヒッチコックは、スコティがジュディをマデリンに仕立て上げる行為を「屍姦」と呼んでいたそうだ)。

 この映画の撮影にあたって、ヒッチコックはマデリン/ジュディ役には先に『間違えられた男』に出演したヴェラ・マイルズを考えていたらしいが、ヴェラ・マイルズが妊娠で出演出来なくなり、キム・ノヴァクが出演することになったらしい。
 わたしなどはこの映画の「妖艶な」キム・ノヴァクこそがマデリン/ジュディ役にふさわしかったと思ってしまうが、けっこうヒッチコックキム・ノヴァクに不満があり、彼女が嫌いだと言っていたグレイの衣装を着せるとか、泳げない彼女を海に飛び込ませるとか、ヒッチコック得意の「嫌がらせ」をやったそうなのだが、そうやって無理矢理に女性が嫌いな服装をさせるなどと言うのは、この映画の中でスコティがやったことと同一ではあり、そうするとここでスコティがやったことは、「映画監督が女優を変身させる」という行為の比喩でもあるのかと思ってしまう(ヒッチコックが意識的だったかどうかは知らないが)。

 そういうわけでこの作品、ヒッチコック流のミステリーとしての「謎解き」映画であると同時に、「愛した女性に死なれた男の抱いた<歪んだ愛>の結路」を描いた映画とも取れる。そこに「高所恐怖症」という克服すべきフォビアが絡むのだけれども、わたしはこの映画でもう一点、スコティの「歪んだ愛」を補完するような、ミッジという女性のことが気になってならない。

 ミッジという女性はこの映画のオープニングにスコティと共に登場し、そのシーンはまるで『裏窓』を思い起こさせられるものだったが、この二人の関係は何だか複雑というか、ミッジは「わたしが愛するのは一人だけよ」と語り、それはスコティのようなのだが、学生時代からスコティとミッジは知り合いで、一度は婚約をしていたらしい。ところがミッジの方からその婚約は破棄したという。
 デザイナーらしいミッジは、スコティが美術館の「カルロッタ・バルデスの肖像」に似た女性に夢中になってると思い、その「カルロッタ・バルデスの肖像」の顔を自分に挿げ替えた絵を描いてスコティに見せる。それを見たスコティは「笑えないね」と不機嫌にミッジの部屋を出て行き、ミッジは「わたしは何てバカなの!」と絵を破棄する。これは男として考えても(そうでなくっても)めっちゃ「悪趣味」な行為で、絶交されても仕方がない行為ではないかと思う。
 さらにそのあと、「マデリンが死んだ」と思ったスコティが精神を病んで入院しているときに見舞いに行き、音楽療法モーツアルトを聴かせるのだけれども、そこでスコティに「がんばって。ママはここにいる」などと語りかける。今度は母親代わりにスコティを庇護しようというのだろうけれども、どうもわたしには彼女の存在が不愉快でならない。まともな女性のすること、言うことではないと思うのだ。
 ヒッチコックにはヒロインの女性を賛美する半面、ミソジニー的な描写もやってのける人でもあるし、ヒッチコックはやはり「否定的存在」として彼女を描き、ある意味スコティが「歪んだ愛」に横滑りして行く一因ともなった存在ではないか、とも思うのだ。

 まだまだ、この映画は観るたびに何か新しい発見もあることだろうが、今日はこのくらいで(ウチにDVDもあることだし、きっとまた観よう)。