ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『舞台恐怖症』(1950) アルフレッド・ヒッチコック:監督

 ヒッチコックの前作の『ロープ』、『山羊座のもとに』、そしてこの次に撮られる『見知らぬ乗客』とは「トランスアトランティック・ピクチャーズ」によるプロデュースの作品なのだけれども、この『舞台恐怖症』はヒッチコックが自ら単独でプロデュースも行った作品。
 1948年にアカデミー主演女優賞を受賞して、当時トップスターだったジェーン・ワイマンが主演し、ヒッチコックは相変わらずそのときの「旬」の俳優さんをよく使う。その相手の刑事役には、やはりイギリスで人気のあった、『山羊座のもとに』でもいい役で出演していたマイケル・ワイルディングが出演。ジェーン・ワイマンの元恋人役にリチャード・トッドが出演し、「別格扱い」でマレーネ・ディートリッヒが出演している。
 『山羊座のもとに』ではイングリッド・バーグマンに自分の演出法に従わせようとして衝突したヒッチコック、はたしてマレーネ・ディートリッヒにはどのように対したのだろうかと気になるところだが、ディートリッヒとの仕事について尋ねられたヒッチコックは、「すべて順調です。ディートリッヒ嬢がすべてを手配してくれました。どこに照明を当て、どのように撮影するかを彼女が正確に教えてくれました。」と答えたというから、もうディートリッヒの言うがままに進行したと考えていいのだろうか。
 ヒッチコックはのちにディートリッヒについて「マレーネはプロのスターだった。彼女はプロのカメラマン、アートディレクター、編集者、衣装デザイナー、美容師、メイクアップウーマン、作曲家、プロデューサー、監督でもあった」と語ったという。じっさい彼女は過去に複数の巨匠の作品に出演し、その経験から多くの撮影技術を学んでいたのだった。ちなみに、この作品でのディートリッヒの衣装デザイナーはクリスチャン・ディオールなのだった。

 この映画、ジョナサン・クーパー(リチャード・トッド)という俳優が、ジョナサンが愛していた女優で歌手のシャーロット・インウッド(マレーネ・ディートリッヒ)の関わったシャーロットの夫の殺人事件に巻き込まれ、ロンドンの演劇学校に通う女優志望のイヴ・ギル(ジェーン・ワイマン)のところに逃げてくることから始まる。イヴはジョナサンのことが好きなので、海岸にあるイヴの父親の家にかくまおうとする。
 イヴは、シャーロットがジョナサンを陥れたものと考え、無実であろうジョナサンを救うためにも、イヴが真犯人だと思っているシャーロットの周辺を自分で調べようとする。イヴはパブでシャーロットの夫の殺人事件を調べているウィルフレッド・スミス警部と出会い、ヒッチコック映画らしくも親密になる。

 さらにイヴはシャーロットに近づくため、シャーロットのメイドのネリーを買収して2、3日仕事を休ませ、そのあいだ自分が「ドリス」という名前でシャーロットのメイドを勤めることにする。ここからイヴはウィルフレッド警部らの前では「イヴ」としてふるまい、シャーロットの前では「ドリス」としてふるまうことになり、イヴの父親もイヴを手助けし、ちょっと喜劇的展開になって行く。

 そのあいだもジョナサンは重要容疑者として警察に追われていたのだけれども、シャーロットが出演している、そのときは誰もいない劇場の中に逃げ込む。
 イヴは自分の正体をウィルフレッド警部に話し、シャーロットの犯罪を暴くためにカーテンの影にマイクを立てて、シャーロットに事件のことを話させる。
 たしかに夫殺しを計画したのはシャーロットだったが、イヴの考えに反して、じっさいに殺しに手を下したのはジョナサンだった。追い詰められたジョナサンは、無人の劇場の中を逃げ回るのだが‥‥(このストーリーは、ちょっと簡略化して書きました)。

 (これは書いてしまうと大きな「ネタバレ」になってしまうのだが)映画の冒頭でイヴと話すジョナサンの、事件を回想するシーンがあるのだけれども、その回想ではシャーロットが夫を刺し殺してジョナサンのところへやって来て、つまりは殺害現場に戻って証拠を隠滅してほしいと頼むのである(じっさいはちょっと違うけど、簡略化)。
 しかし映画の終盤で、このジョナサンの「回想シーン」は「嘘」だったことがわかる。これがちょっと問題で、映画で映像として描かれる展開が回想する人物の主観で、実は「嘘」だったというのは、ちょっと「ルール違反」ではないのかということ。
 ヒッチコックも最終版を観て、このシーンが誤解を生む可能性があることに気づいたけれど、もう変更は出来なかったという。彼はこのことは「自分の最大の過ちだった」と語っているという。

 たしかに映像で描かれたジョナサンの回想は、それが「冒頭」だったということもあって、映像の力としても「それは真実」と観るものに思わせる力があり、たいていの観客にミスリードさせることだろう。ヒッチコックが、自分の作劇方法として「過ちだった」と語るのはわかる気がする(こういう映画はあってもいいだろうとは思うが)。

 そのことを抜きにしてこの作品を観て、ヒッチコックお得意の「巻き込まれ型」作品、「犯人に間違えられて追われる人物と、その人物の無罪を知って助けようとする人物」との物語のヴァリエーションではあると思う。
 この作品では、観客へのサーヴィス的にマレーネ・ディートリッヒが舞台で歌うなどのパフォーマンスの姿が挿入されているし、ジェーン・ワイマンとその父親役のアラステア・シムとのコミカル(といっていいのだろう)な演技で、喜劇的要素が強くなってもいたと思う。ただ、わたしの感想ではそんなコミカルなシーンはそれぞれ単独のもので、わたしが『逃走迷路』で感じた脚本の問題が、ここでも繰り返されているようには思ってしまった(『逃走迷路』のように多くの脚本家が関わった、ということではないようだが)。