ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『マッチ工場の少女』(1990)アキ・カウリスマキ:脚本・監督

マッチ工場の少女 (字幕版)

マッチ工場の少女 (字幕版)

  • カティ・オウティネン
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 前の『パラダイスの夕暮れ』『真夜中の虹』と合わせて、カウリスマキ監督の「労働者三部作」なのだという。しかし前の二作は主人公らはカップルになり、(その先はどうであろうとも)「明日の幸せ」を目指して船に乗り込んで終わったのだったけれども、この『マッチ工場の少女』のヒロインは、そんな恋人を見つけることもかなわず、あっと驚く犯罪行為に走ることになるのだが。

 ヒロインのイリスを演じるのは、おなじみカティ・オウティネン(いつも無表情な彼女の演技がステキだ)。イリスは母とその義父と共に暮らし、マッチ工場に働きに出ているけれども、家族は彼女の収入に頼り切っているし、家事も彼女にやらせている。兄もいるのだが、兄は働かない義父を嫌ってか家を出ている。彼女の服装も地味なので、ダンスパーティーへ出かけても「壁の花」で終わってしまう。
 ある給料日、イリスは気に入ったドレスを買ってしまうが、両親は彼女をぶち、「返品して来い」と言う。しかしイリスはそのドレスを着てディスコへ行き、そこでアールネという男に誘われて、彼の部屋で一夜を過ごす。
 イリスはそのあともアールネと会おうとするが、彼は「あれは一夜の遊びだった」と彼女を拒絶する。
 その後、妊娠していたことがわかったイリスはアールネに「子どもを産みたい」と手紙を書くが、彼からは「中絶してくれ」という短かい手紙と小切手が送られて来ただけ。放心して町に出たイリスは交通事故に遭い、流産してしまう。さらに、「母に心労をかけた」と、義父から勘当を申し付けられる。
 兄のアパートに転がり込んだイリスは決意して殺鼠剤を買い、アールネ、そして両親に飲ませるのだった(ついでに、バーでイリスに言い寄って来た男にも)。
 ラスト、刑事であろう二人の男がイリスのもとに訪れ、彼女を連れて去って行くのだった。

 映画の冒頭で、「彼らは遠くの森の奥で飢え凍えて死んだのだ、そのように思えます。(ガロン伯爵夫人)」というプロローグが示される。これが解らなかったわたしは調べてみたのだけれども、これはアン・ゴロンという作家が書いた『アンジェリク』という長大な小説の一部の抜粋らしく、日本でも翻訳も出ているし、宝塚が舞台にしてもいたらしいのだ。実は映画の中でイリスが母親から誕生日祝いにもらう本がこの『アンジェリク』なわけで、字幕では「海賊物語」とされている(これはしょうがない処置だろう)。物語は17世紀フランスを舞台に、貧乏貴族の娘のアンジェリクが王家の陰謀に巻き込まれ、波乱万丈の人生を生き抜くという物語らしい。この映画の内容とどう関係があるのかは正直よくわからないけれども、イリスの母親はイリスにこういう「空想の世界」に生きることを求めていたのかもしれない。しかし、この映画でのイリスの重要な決断は、ひょっとしたらこの『アンジェリク』から得られたものかもわからない。そしてもうひとつ、「遠くの森で飢え凍えて死んだ」のは、この映画のイリスの「心」なのかもしれない、などと思ったりもした。

 そのプロローグのあと、マッチ工場でマッチがつくられて行く段階が写されるのだけれども、前に観た『パラダイスの夕暮れ』の冒頭で主人公の働く「ゴミ収集車」が車庫を出るシーンのように、実に気もちのいい撮影と編集。「カシャッ、カシャッ」とマシーンの立てる音が繰り返されて、そういうオートメーション環境での労働というものが印象付けられる。
 そして、イリスの家庭で両親が見ているテレビでは、ずっと「天安門事件」についての報道がつづいていた。まさにこの映画撮影中、そのときのリアルタイムで進行していた事件ではあった。
 いつものカウリスマキの作品のように、生バンドの演奏シーンがあって、それはダンス・パーティーの場でだけれども、そのときにバンドが歌う歌は「海の向こうには幸福の国があるという。わたしもその国へ行きたいものだ」という内容で、「天安門事件」の中国への痛烈な皮肉になっていたと思う。
 この作品はセリフが切り詰められて相当に少ないのだけれども、その代わりに劇中で流れる音楽の内容が、「その場の説明」「主人公の心理」になっている。

 映画の前半は、いつもの(わたしが今までに観た)カウリスマキの映画のように「ロクなことがない主人公」の描写だと言ってしまってもいいんだろうけれども(ちょっと「不幸」の度合いが違うけれども)、それが主人公が薬局で「殺鼠剤(ネコイラズ)」を買うわけだ。わたしはつい、「不幸つづき」の主人公が自殺しようとしているのかと思ってしまったが、世間への「復讐」だったのだ。
 このあと彼女はサボテンの花が咲く温室の中のようなところで本(その『アンジェリク』みたいだった)を読んでいて、頬には微笑も浮かんでいる。ここから映画のタッチはガラリと変わってしまい、その「影」を生かした照明と撮影、歩く主人公を正面から撮った場面とか、まさに「クライム・ミステリー」のタッチになるわけで、この「演出の変化」こそ、この映画の面白さなのではないのか、などとは思うのだった。