ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2024-01-24(Wed)

 この頃毎日のようにアキ・カウリスマキ監督の映画を観ていて、その使われていた音楽が「スプートニクス」なのではないかと思い(じっさいは違っていたのだけれども)、今日はそんなスプートニクスの音楽を聴いたりしていた。スプートニクスはスウェーデンのバンドだから、カウリスマキ監督のフィンランドとは違うわけだけれども、そのどこかノスタルジックな響きの音楽に癒される思いもしたし、過去の記憶がよみがえる気もした。
 昨日はノーマン・ジュイソン監督の訃報から懐かしいマリサ・トメイのことも思い出したりもしたし、いい思い出が戻ってくる思いがする。

 楽しい記憶、良い記憶というものは波打ち際の砂浜に書かれた記録のように、打ち寄せる波で簡単に消え去ってしまうけれども、いやな記憶というものはまるで岩にハンマーで刻み込まれたように、いつまでも消えないものだ。
 特にわたしの場合、多くの記憶が頭から失せてしまっているわけで、そういう楽しかったはずの思い出、今の自分をはげましてくれるようなポジティヴな思い出はまったく思い出せなくなっている。例えば自分が主宰してやっていて、けっこう成功したはずのイヴェントのこともほとんど思い出せないし、海外旅行のことも、アメリカ旅行のことはな~んにも思い出せないし、ヨーロッパ旅行も「アムステルダムマリファナを吸ったこと」ぐらいしか覚えていない。
 そのかわり、最近は過去のイヤなことばかりが鮮明に思い出され、ふとんの中でそんなイヤなことをひとつ考えていると、連鎖反応というのか、次々にイヤなことばかりが思い出されてしまう。なんで「いい思い出」ばかりが失せてしまって、思い出したくもない「イヤな思い出」ばかりがしっかり残っているのだろうと、悲しくも絶望的な気分になってしまうことが多かった。

 でもこのあいだは、昔の仕事の頃のことで、名前も知らない方とのちょっとしたやり取りが思い出され、それは自分に自信を取り戻させてくれるような「いい思い出」ではあって、このところ「イヤな思い」に囚われそうになると「あのことを思い出そう」と、そのちょっとした記憶をリピートさせ、それで気分が落ち込まないことを学んだ。自分でも、とってもいい兆候だと思う。
 そうすると自分のアンテナにマリサ・トメイスプートニクスが引っかかって来たりして、少し以前よりも明るい気分になれているような気がする。
 細かく考えて行けばやっぱり「絶望的」だということは動かないのだが、そんな「絶望的」な状態の人たちを描くカウリスマキ監督の映画にも、救われているのかもしれない。
 今日はそのカウリスマキ監督の、『コントラクト・キラー』という作品を観た。これもまた、「絶望から救われる」話だった。

 眼の具合のよろしくないニェネントくんだが、今日はまた、すっかり良くなってみえるようになった。それでも動物病院に診てもらうべきなのだろうが、前にも同じような症状になったときのように、ただ抗生物質の軟膏を処方されるだけなことはわかっている。あの軟膏はそんなに効いたわけでもなかったし。

 夕食に、今日もブロッコリーを使っての「クリームシチュー」をつくった。温まるし、栄養たっぷり。たくさんつくったので、4食分ぐらいはありそうだ。

     

 日本の大手新聞社による「難民・移民排斥キャンペーン」が続いている。しかし昨日は埼玉の県営公園での「ネロウズ」というクルド人の祭りの開催に向けて、当初公園貸し出し「不許可」という姿勢を取っていた管理者側が姿勢を一転、使用可能と伝えて謝罪したとの報道があった。「不許可」としていたのは管理者に「クルド人の公園使用に反対する声」が多く寄せられたからだったと言う。
 このニュースはその「排斥」側の大手新聞も伝えていたが、これはつまりは読者らに「もっと反対の声を上げよう」と煽る意図を持った記事だろう。じっさい、Yahoo!でのコメント欄には「公園貸し出しに反対する意見」があふれている。
 最近はSNSでの人々の発言があれこれ波紋を生み、論争も起きているみたいだ。わたしはSNSに自分の意見を書き込んだりすることはやっていないし、そういう今のSNSのあり方に言いたいこともあるのだけれども、そんなことを言い始めると自分もそんな論争に加わってしまうことにもなるだろう。