ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

2023-05-05(Fri)

 夜中にベッドに横になっていて、風のせいとかでガラス窓が「ガタッ」とか音を立てると、びっくりして目が覚めてしまう。しばらくはそのままじっとしているが、ドキドキしてなかなか気もちが治まらない。それがもう一度そういう音がすると、「そうか、風のせいなのだ」と思って落ち着ける気がする。大きな地震とかを怖れているのだろうかと思う。
 今日は昼間に、石川県でマグニチュード6.5の大きな地震があった。最大震度は能登半島で6強だったというから相当に大きい。このあたりでもつけているテレビでけたたましい地震警報が鳴ったが、さすがにこのあたりでは「揺れ」はなかったようだ。
 大きな地震だったと思うけれども、テレビの報道ではそこまでに崩壊した家屋もないようで、亡くなられたのははしごから落下された方1名だったという。被害が少なかった(といっていいのだろう)な何よりだけれども、明日からは雨になるというし、これからの余震のことも心配だ。

 地震とかの心配でなくても、このところ、朝起きるときに強い不安感に囚われる。というより、ネガティヴなことばかりが頭をよぎり、起き出して動くのがイヤになる。
 「ネガティヴなこと」というのは、自分の今までの行動、体験でイヤなこと、不愉快なことばかりが思い出されてしまい、その思考回路から抜け出せなくなってしまうのだ。
 わたしは「側頭葉てんかん」の発作で、多くの記憶を失ってしまっているのだけれども、特に「自分が楽しんだこと」「能動的に何かに取り組んだこと」などの記憶が消えてしまっている。この「消えた記憶」の中に、過去に観た映画、過去に読んだ本のことなども含まれる。
 そうすると、朝のそういうネガティヴな思考の中で、思考回路を切り替えてそういう「楽しかったこと」を思い出してやろうとしても、まったくそういうことは思い出せないのだ。

 自分の過去を、ひとつの「年譜」のように「大きな出来事」の連なりとして考えることは出来るけれども、それが具体的にどのような自分の行動によるものなのか、まったく思い出せない。
 例えば過去の仕事の上で成功したことというか、「あのときはいい仕事をした」とか、特に自分の催したイヴェントとかを漠然と考えれば、「よくあれだけのことを一人でやったものだ」みたいに思えるのだけれども、それが具体的にどのような行為によって「成功」したのか、まるで思い出せない。逆にそういう「プラス」なことを考えようとしても、「失敗したこと」とかばっかり思い出してしまうのだ。

 けっきょく考えるのは、「自分は自分の過去を押しつぶすような大きな不幸をともなう<大病>を患ったのだ」ということで、考えがここに至ると「死んでしまった方がいい」と思ってしまう。
 その思いを食い止めている大きな<力>はニェネントくんの存在で、「ニェネントがいる限り、わたしもしっかりと生きて行かなければいけない」と思うのだ。

     

 しかしこの頃は毎朝けっこうつらい思いをしているので、連休明けにでも精神科の病院を受診してみようかと思う。精神科というところを受診するにはどうしたらいいのか、実はまったくわかっていないのだが、駅の近くにそういうクリニックがあることだけは調べた。

 こういうことはこの日記には書かないようにとして来たけれども、ちょっと「圧」も強くなってきたのでいちど書いておくことにした。

 そういうわけで、起きているときには映画を観たりするのがいいようにも思うわけで、今日もデヴィッド・フィンチャー監督の『ゾディアック』を観た。この映画も何年か前にいちど観ている映画だが、もうこれっぽっちも記憶していない。そういうことを考え出すと、また「鬱」になってしまうが。