こうやって再度観てみるとこの作品、同じ黒沢清監督の『蛇の道』(旧作の哀川翔主演の方)にいろいろと似ているな、とは思う。『蛇の道』はかんたんに言うと主人公が自分の娘を誘拐、惨殺した犯人を拉致監禁、ついには殺害するストーリーなわけだが、この『Cloud』では主人公の菅田将暉こそが拉致されて殺されそうになる。
「廃工場の中での銃撃戦」、「雑木林の中の疾走」とかの共通する要素もあるし、「ビニールのカーテン」、「倉庫内のような警察署」とかいうのは黒沢清映画に何度も登場するわけでもある。
今回観て思ったのは、主人公の吉井良介(菅田将暉)を狙う男らの抱いている「得体の知れない憎悪」のこととかで、何人かはじっさいに吉井のことを知っていて、まあ言ってみれば吉井の「被害者」とは言えるのかもしれないけれども、それが「命を奪う」ほどの憎悪なのかということ。何人かは吉井に会ったこともない連中だし、どれだけ「被害者ヅラ」出来るのかもあやしい。このあたりは今の日本でのSNSで増殖する「憎悪」、「誹謗中傷」というものの視覚化された姿が見てとれるようで、けっこう興味深い。「被害者」だという連中がグループ化して、自分たちが攻撃しやすいと思われるターゲットに向かって憎悪を向け攻撃するという構図は今の日本のSNSで散見されるもので、たとえば川口でのクルドの人たちへの攻撃も好例だといえると思う。「ネット社会」の行く末を考えるとき、考慮すべき点だとは思う。
この映画の場合、そもそもが吉井を襲撃する前に妻子を殺して来たらしい、工場社長の滝本(荒川良々)が「狂気のサイコパス」的に残りメンバーの「憎悪」をまとめ上げ、けん引してやって来たようではあるけれども、誰かが一線を越えるとき、賛同してフォローする群衆があらわれる。
ここで吉井をサポートしつづける佐野(奥平大兼)は、「ただ事では終わらない」ことを見通して、組織から銃を受け取っているわけで、彼こそ「タダモノではない」ということにはなるだろう。映画後半の佐野の行動は、この映画を「リアルさ」から一気に突き抜ける力を持っている。吉井は佐野の度を超えた干渉を嫌って、まずは彼を解雇しているわけだが、佐野はそれでもなお吉井をサポートし、武器まで調達して来るわけだ。ま、吉井が「佐野という悪魔に魅入られた」男だということではあるのだろう。佐野は「世界を破滅させるもの」だって手に入れられると吉井に語るわけだ。
先日『アントニオ・ダス・モルテス』を観て、クライマックスでの「義賊ランピオンの地獄詣」のバラッド(物語歌)が強く印象に残ったのだが、ランピオンのような男は、言ってみれば「悪魔と契約した」人物だったのだろうと思う。
その、「悪魔との契約」について描いたのがこの映画、という見方が出来るかと思った。だから終盤の銃撃戦に「迫真のリアリティ」などは不要だろう。これは『アントニオ・ダス・モルテス』の終盤の銃撃戦と同じなのだ。アントニオ・ダス・モルテスもまた、終盤にはランピオンの側につき、そこに「悪魔との契約」があったのだろう。だから彼は「守護聖人に見捨てられた」と歌われるのだ。
同じことが、もうすぐ読み終わる『万延元年のフットボール』でもあてはまるところがあって、物語をけん引するトリックスターである「鷹四」もまた、悪魔と契約をした人物と言える。
何でもかんでも「悪魔と契約した」ですませてしまうのは、まったく正しい観方、読み方ではないのだけれども、見通しが良くなるということはあるだろう。
映画『Cloud』のラストで、吉井は「これが地獄の入り口か」と語るわけだけれども、彼を待っているのは『万延元年のフットボール』の鷹四のような運命だろうか、とは思う。
実は吉井に差し伸べられたさいごの「救いの手」は、恋人の秋子(古川琴音)だったのかもしれない。秋子もまた卑俗な物欲にとらわれてしまっていたが、吉井も秋子と同じ程度の卑俗さを持てば、佐野を振り切って「現世」に残れたのかもしれない。そ~んなことを考えた。