ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ニンゲン合格』(1999) 黒沢清:脚本・監督

 黒沢清監督が『CURE』のあとに撮った作品。主演は西島秀俊で、『CURE』に引きつづいて役所広司も出演。黒沢監督のVシネの常連であった哀川翔菅田俊、そして大杉漣洞口依子麻生久美子、りりぃなどが出演している。撮影は『リング』の林淳一郎で、この人は黒沢監督の『カリスマ』、『回路』でも撮影を担当した。そして音楽は『CURE』につづいてゲイリー芦屋が担当している(BGMはほとんどないが)。

 映画は14歳のとき交通事故に遭い、以来昏睡状態にあった吉井豊(西島秀俊)が10年ぶりに目覚めることから始まる。まずは事故を起こした張本人の室田(大杉漣)が病院に現れ、「こちらも10年間苦労したんだからコレで終わりにしてくれ」と豊に50万円を渡して去って行く。
 10年のあいだに父親(菅田俊)は宗教活動にハマり、母親(りりぃ)とは離婚。妹の千鶴(麻生久美子)はアメリカに留学していると、家族はバラバラになっている。その家族の土地には今は、産業廃棄物の始末とかをやっているらしい藤森(役所広司)が住んでいて、そこで釣り堀屋をやっている。
 豊は藤森に連れられていっしょに暮らすことになり、自分の失われた十年間を取り戻そうとするのだろうか。父親がやって来て、豊と父子の縁を取り戻そうとするようだが、藤森に「オレはアフリカへ行く。豊のことをよろしく頼むよ」と親の責任を逃れるようなことを言い、藤森の怒りを買って家を出て行く。しばらくしてアメリカへ行っているはずの妹の千鶴が、同棲しているという加崎(哀川翔)と一緒にやって来てしばらく滞在し、加崎は藤森の釣り堀屋を手伝ったりする。しかし千鶴は親の土地財産を売り払い2人で分けようと提案して豊を怒らせ、翌日加崎と出て行く。

 あるとき、一頭の馬が敷地に迷い込んできて、豊はその馬を買い取って敷地内に牧場をつくる。それは一家がむかし「ポニー牧場」を経営していた思い出からのことである。豊は中学時代の同窓会を開き、中学時代の級友らに再開したりもする。
 豊は千鶴に聞いた母親(りりぃ)の住所を訪ね、母はしばらくして豊の住まいへ戻ってきて、しばらくいっしょに暮らす。そんなときに千鶴も加崎と戻ってきて、母と子2人でしばらく生活する。「ポニー牧場」のとなりに小さな「ミルクバー」もつくり、加崎はミルクバーを手伝う。
 藤森は産業廃棄物の不法投棄のことが役所に問題にされ、どこかに姿を消してしまう。

 ある夜、家族でテレビを囲んでいるときに「アフリカ行きの客船が沈没し、複数の日本人乗客も乗っていたらしい」というニュースが流れ、その乗客名簿に父の名前もあったのだった。
 しばらくして、奇跡的に救出されたとしてテレビにインタビューを受けるずぶ濡れの父親の姿が写り、母親も2人の子もそんな父親の映像を見つめるのだった。母はそのあと自分の家へと戻って行く。

 そしてある日、現場労働者に身を落とした室井が偶然にミルクバーを訪れ、豊に「こんな身になったのもお前のせいだ」と怒りをぶつけ、その夜になってチェーンソーを持ってやって来て、牧場の柵やミルクバーをことごとく破壊するのだった。
 千鶴と加崎はまた出て行き、入れ替わりに藤森が戻ってくる。豊は藤森のトラックに乗ってどこか別のところへ行こうとし、馬をトラックに乗せようとして積み上げてあった廃品冷蔵庫の山が崩れた下敷きになって死んでしまうのだった。
 最後に家族、知人らでポニー牧場の跡地で豊の棺を霊柩車に積み込み、皆はそれぞれがバラバラに去って行くのだった。

 豊は死ぬ前に藤森に「これって夢なの?」と聞き、「オレって存在してた?」「ちゃんと存在してた?」と聞き、藤森に「確実に存在してたぞ」という言葉を聞き、笑顔を浮かべて死んでいくのだった。

 『CURE』のあとの作品がこういう奇妙なヒューマン・ドラマだったということは意外な気もするが、どこか黒沢監督のVシネ時代の『勝手にしやがれ!』シリーズのテイストを引きずっていたようには思えた。それはやっぱり役所広司の演じる藤森という男に「わけのわからない」ところがあるせいだろうし、「ポニー牧場」だとか「ミルクバー」とかの突拍子もないところに感じるのだろう。それにこの作品、そんなVシネでおなじみだった「空き段ボールに突入」だとか「ゴミ袋で殴りまくる」とかのギャグ(?)がけっこう盛り込まれていたのだ。
 そういうのではこの時代の黒沢作品のミューズ、洞口依子が電動キックボード(昔からあったのだな)に乗ったまま、空き段ボールの山にぶち当たるシーンの「わざとらしさ」に笑ってしまったりしたのだが、この作品の中でそんなことで豊と知り合った洞口依子ライヴハウスで歌う歌手で(エンドロールで彼女の歌がたっぷり聴けるが)、豊には自分のウクレレを見せて「音楽をやっているの」と話すのだけれども、現実にこの時代、洞口依子ウクレレをフィーチャーしたバンドを組んでいたのだった。

 カメラの横移動だとか長回しだとか、黒沢作品でおなじみのカメラワークを堪能もできるけれども、この作品では特異な照明と、そのカメラ構図とが特徴的だと思った。
 まず照明だけれども、夜のシーンや室内のシーンで照明の使用を最小限にとどめ、人物はたいてい(その顔さえも)影の中に埋もれてしまっていたりした。いわば「暗さ」を引き立たせる照明の使用で、これはある意味で「リアリズム」なのだろうかと思った。
 それと「構図」だけれども、この冒頭の病室のシーンでも、奥の病室の手前の左右を壁がおおっていて、実質の画面は中央部の「ほぼ正方形」。これと同じような「正方形構図」は以後もけっこう出てきたけれども、それと同じようなかたちで画面の奥に「窓」があったりして、その窓の向こうで何かが進行する。そういう「方形の枠付き画面」をいうのは本当に頻出し、この作品のヴィジュアルを特徴づけるものだった。それはやはり、「映画のスクリーンの方形」を意識させるものだったろうか。

 そして一本の映画として、そもそも「非現実」ではないかと思える映画の中で、「しっかり存在する」というのはどういうことなのか、普遍的に人々に訴えるテーマであったと同時に、「映画」としての挑戦でもあったのではないか。そういうふうには思うのだった。