先日まで黒沢清監督の『贖罪』を観ていたこともあって、観始めてすぐに「こ~んなストーリーならば、黒沢清に撮ってほしかった!」って思うのだった。そしてその思いは映画のラストまで消えることはなかった。
ただ、映画の冒頭から主演のレオナルド・ディカプリオの額に「絆創膏」が貼られているのを見て、それもあって「あ、こりゃあ<そういう映画>なのだ」と気づいてしまった。ありがとう、マーティン・スコセッシ監督。
しかし観ていてまずは、ここでの「レオナルド・ディカプリオ」はミスキャストではないかと思ってしまう。コレはやはりクリスチャン・ベールとかでないと、などと思うのだが、でも主演がクリスチャン・ベールだったとしたら、その時点で「ネタバレ」になってしまうか(というか、スコセッシ監督では演出し切れないか)。
もちろん黒沢清監督が撮れば主演は役所広司だったろうと思ってしまうが、そのくらいこの作品のコンセプトは『CURE』だとか『叫』などの黒沢清監督を思わせられるものがあり、それだけに「あああああ、こ~んなシーンは黒沢清監督だったらぜったい、こ~んな撮り方はしないだろうに!」と、くやしい思いを抱かされてしまう。
だいたいここでスコセッシ監督は「何から何まで撮ってしまおう」としたのか、「敢えて撮らない」とか「省略する」などという演出をやらないし、特に終盤のほとんどは「やらなくっていい」場面が多い。そして何より、黒沢清監督のような「撮影のクールさ」が、この作品にはまったくない。
スコセッシ監督にも「いい撮影だね」という作品もなかったわけでもないとは思うけれども、この作品、これだけ面白い景観に囲まれた「場」での演出だというのに、その「ホラー・ミステリー」としての不穏さの演出、撮影がま~ったく出来ていない。そういう意味ではいろいろと金をかけた撮影ではありそうだけれども、はっきり言って「凡庸」である。
この作品のひとつのポイントは、主人公の「兵士」としての戦争体験と、死んだ妻(ミシェル・ウィリアムズ)との過去の回想ではあり、その「回想」を思いっきり「回想」として演出し、主人公の生活の中にその死んだ妻が「幻想」として登場して来たりするのだけれども、そこでのこの映画内での主人公の「主観描写」をどう描くか、ということに思いっ切り失敗していると思う。というか、「主観描写」と「客観描写」との対立をどう始末するのか、ということをいい加減にすませ、だからこそ「真実(らしきもの)」がわかったあとになってから、映画として「蛇足」でしかない「説明」を、いつまでもやらかさなければならなくなっている。
ちょっと前に「フランスでは黒沢清監督の人気が高い」と書いたが、だからフランスが素晴らしかったり黒沢清監督が素晴らしいということではなくしても、フランスではスコセッシ監督のこの作品は評価されなかっただろうと思う(まあ日本でもそうだろうが)。こういう演出はやはり、今のアメリカ人のものなのだろう(そんなことを書きながらも、わたしもスコセッシ監督の『グッドフェローズ』とか大好きではあるが)。