ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『映画の授業 映画美学校の教室から』黒沢清 他:著

 この本は、「映画美学校」で行われた講義のレジュメや資料、講義をもとに作成されたもの。主な章分けと著者は以下の通り。

・はじめに 黒沢清
・脚本 高橋洋 塩田明彦
・演出 黒沢清 万田邦敏 塩田明彦
・撮影 たむらまさき 青山真治
・録音 臼井勝
・編集 筒井武文

 というわけで、この本は「これから映画をつくりたい(撮りたい)」という若い人たちに向けて語られた(書かれた)本なのだけれども、わたしなどには「なんと豪華な執筆陣!」という感覚を抱かせられる。そして、この本は「映画を撮るための指南書」であることを越え、「映画を観るための指南書」としても役立ち、わたしのような単なる「観客」にとっても、非常に示唆に富む本ではあった。

 前半の「脚本」「演出」の項は、リミュエールの短い映像から『ジョーズ』『ダーティハリー』『西鶴一代女』『ゴジラ』など、今誰でもが観ることの出来る作品を引き合いに出しながらその構造、構成を探り、「映画とはどのようなものか」という問いに答えようとするものと読める。一般の「映画評」から離れ、「映画をつくる側」から見られた既製の「映画」というものへの言及として、新鮮なものでもあると思う。

 たむらまさき氏のレジュメと、たむら氏、青山真治氏との対談だけは、ちょっとばかり内容が「初心者向け」ではないというか、あまりに「踏み込み過ぎている」という感想はあり、じっさいわたしはたむら氏の長いレジュメは読み飛ばしてしまった。ごめんなさい。

 しかし、わたしにとってもっとも刺激的だったのは、後半の「録音」と「編集」(ポスト・プロダクション)の話で、今まで映画を観ていてもまったく想像もできなかった(しなかった)「録音」の現場、そしてじっさいの「編集作業」というものを知り、「そうか、そうだったのか!」と、まさに「目からウロコが落ちる」ような感覚だった。

 今までわたしは、「編集作業」というものはつまり、映像の写されたフィルムをしかるところでブツブツと切断し、しかる箇所とつなげて行って「一本の映画」に仕上げる作業だと思っていたのだけれども、そんな「編集」における「映像」と「音」の問題は、まったく別次元なのだ。
 つまりそもそもが「映像」と「音」というのは「別々に」存在するものであり、映像フィルムには「音」の記録はない。そこに別のところから持ってきた「音声」データを同期させ、さらにその音声に音楽がかぶさる場合にミキシングを施し(音楽がなくってもミキシングは必須だろうが)、そのヴォリューム、音質なども決定して行かなければいけないわけだ。
 まあ今はデジタル撮影が一般的になっているだろうとはいっても、そのデジタル撮影した映像に、同時に音声も記録するということは「不可能」だろう。そりゃあ同時録音は出来るだろうし、ドキュメンタリー映画などではけっこうそのまま「同時録音」のものを使えるだろうけれども、一般の「劇映画」では、「音」へのミキシングは不可欠で、そこでとにかくは「映像」と「音声」は分離しなければならない。
 「音」は「音」で非常にデリケートなものだから、どちらにせよ、いかに撮影がデジタル化されたとしても、「映像」と「音声」はさいしょっから「別データ」として記録すべきなのだ。つまりそのことは、映画撮影において「録音」とはどういう作業か?ということにつながる。

 こういうことはつまりは「裏方」の作業というか、映画を観て、その「演出」や「撮影」ほどに映画の見方を左右するものではないだろうが、わたしにとって「映像」と「音」とはそもそも「別次元」のもの、ということは「ちょっとした驚愕」に値する認識ではあった。この認識は、これから映画を観る上で、何らかの影響を与えてくれるかもしれないと思う。

 あと、この本に出てこないことで「照明」の問題があるかな。ちょっとでいいから、撮影時のプラクティカルな照明の問題を教えてくれれば、申し分なかったことと思う。