ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『スパイの妻』黒沢清:監督

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 こうやって本編を観る前に予告を観たり、黒沢監督や主演二人のインタヴューを観たりもしていたのだけれども、これはまったく予想外の作品だった。脚本は先日観た『寝ても覚めても』で脚本と監督をやっていた濱口竜介と、野原位という人物。もちろん黒沢清監督も脚本に加わっているが、この二人は共に東京芸術大学院映像研究科で黒沢清に学んだ方だという。それで、もともとがNHKのテレビドラマとして制作されたことから撮影や照明はNHKの人だが(黒沢清監督作品の常連撮影監督の芦澤明子は参加していない)、美術の担当は黒沢清監督と組むことの多い安宅紀史である。

 いきなり眼を隠す仮面をつけて登場する聡子(蒼井優)。金庫のダイヤルを回して金庫を開けようとするのだけれども、その彼女の腕をつかむ手‥‥。実はこれは会社社長で裕福な聡子の夫、福原優作(高橋一生)が道楽でつくった映画が会社の忘年会(1939年?)で上映されているというシーンなのだけれども、これ以降この「映画内映画」という存在は重要な意味を持つわけで、もちろんここでの仮面をつけて金庫を開ける聡子の映画は、これ以降の物語展開を暗示するものでもある。
 もう一つの「映画内映画」は、優作が満州で撮影してきた「国家機密」を含む映画であり、このあたりの古びた映像(というか、時代的には「古びた」ものではない、その時代であればアクチュアルなものなわけだけれども)からはどうしても、黒沢清監督の傑作『CURE』を想起してしまう(そして、この二つの「映画内映画」はそのフィルムの存在と共に繰り返し登場し、重要な役割を負うことになる)。

 先に書いておけば、その『CURE』を想起させるものとしては、後半に登場する廃墟の建物もあるだろうし、『CURE』に限らず黒沢清監督の作品には頻出する「浮遊するような乗り物」というのもあるだろうか(この作品では、聡子と優作がいっしょに乗る、なぜか窓の外が白く曇って見えない神戸の市電)。このあたりは言ってみれば黒沢清監督作品のトレードマークのようなものだろうか(もう一つの最近の黒沢清監督のトレードマーク、「風でゆれるカーテン」は確認できなかったけど、どこかで使われていたのかもしれない)。

 脱線してしまったけれども、この『スパイの妻』に戻って。映画はほぼ全篇が聡子を中心にして描かれ、優作がその背後でいったいどのように行動していたのかはわからない。優作は「謎」なのである。優作は満州へ行って「偶然」国家機密を目撃したというけれども、わざわざ映画撮影機材まで持ち込んで、ちゃんと撮影しておいて、はたしてそれは本当に「偶然」なのか。そしてその後に起こる「殺人」を含むミステリー的展開に優作がかかわっていることには間違いはない。優作は「わたしは(スパイではなく)コスモポリタンなのだ」と語るが、聡子の前には謎の行動を取る「スパイ」としての優作が存在する。
 聡子は優作に「あなたがスパイなら、わたしはスパイの妻になります!」というわけだけれども、それはたんじゅんに優作に寄り添い、守ろうとするところの「妻」というだけのことではなかった。これはこの映画を観てわたしのいちばん驚いたところで、もっと能動的な、「攻め」といえるような態度、行動を起こすことだった(当たり前だが、「予告編」を観てもそんなことまで読み取ることはできないのだ)。

 決定的なシーンがある。それは優作が自分の会社の奥の「鉄の扉」(これも黒沢清映画的なアイテムだ)を開け、その殺風景な倉庫の中に聡子を連れ込み、二人が対峙する長い長い長回しのシーン。二人は部屋の中を動きながら長セリフの応酬をし、聡子が決定的な態度をみせるわけだけれども(わたしはそこでの聡子のセリフに驚き、「うっ」とうめいてしまった)、ここではその二人の動きと共に、カメラもまた止まることなく、自らも重要な登場要素として、その閉ざされた倉庫の中で聡子と優作を追って(時にリードして)自己主張するように動き回るだろう。
 ここでわたしはまた脱線したくなるのだが、このシーンを観てわたしが思い出したのは、溝口健二監督の1951年の作品『お遊さま』のことで、谷崎潤一郎の『葦苅』を原作としたこの作品は、一般の評価は溝口作品としてはそんなに高くはないのだけれども、この映画の中にやはり、夫(堀雄二)と新妻(乙羽信子)とが二人だけで屋内で対峙する決定的な長回しのシーンがある。ここでの撮影は宮川一夫なのだけれども、これが室内での夫と妻との動きを追ってどこまでも、ノーカットで移動していく(多分5分以上あったと思う)。わたしにとってはまさに「強烈な映画体験」だったシーンで、このシーンがあるがゆえに、この『お遊さま』は溝口監督作品の中でもわたしの中で特別な位置を占めているのだが、つまり『スパイの妻』でのこの聡子と優作との対峙する長回しシーンは、それに匹敵する、いや、勝るとも劣らない強烈なシーンだった(どちらも妻と夫の「対決」的ではあるし、どちらにもつまり夫には「秘密」があるのだ)。こんなシーン、よほどの綿密なリハーサルを経なければ撮ることもできるはずはない。このシーンだけでも、「ヴェネツィア国際映画祭・最優秀監督賞」受賞の理由になるのではないのか。

 脱線ついでもう一つ、溝口作品で思い出したシーンのことを先に書いておきたいのだけれども、映画のラスト近く、1945年になって、聡子が収容されている収容所周辺が空襲を受け、壊れた壁から聡子が外に出てみると、そこには炎と、破壊された建物の残骸が拡がっていたのだけれども、わたしがこのシーンで思い出したのは溝口監督の『夜の女たち』の空襲後の教会だったかの廃墟の美術セットで、この映画での美術は水谷浩。わたしはこの『スパイの妻』のこのシーン、水谷浩へのパスティーシュなのではないかしらん、などと思って観ていた。そう、映画の中で溝口健二の映画について語られる場面もあったのだった。
 もちろん、過去の邦画とのことで考えれば、真っ先に増村保造監督が若尾文子主演で撮った『妻は告発する』や『清作の妻』のことも考えなければならないのだけれども、ちょっとそれらの作品のことを忘れかけているので、今はどうのこうのと言うことはできないわたしではある。でもやはり、蒼井優若尾文子とを比較してみたいという誘惑から逃れるのはむずかしい。

 とにかくはまだ確認したいことがあれこれあって、もう一度近いうちに観に行きたいと思っている。つまり、映画館で映画を観るということは「ん?待てよ、あのシーンをもう一度確認してみよう」ということができないのだと、改めて今さらのように気がついた。
 今の時点でまとめておけば、ポイントは聡子の「わたしはスパイの妻だから!」という決意、行動と、優作の「おまえはスパイの妻なのだ」という期待、行動とのせめぎ合いなのだろうか(終盤に去って行く船の上からこちらに向けて挨拶をする優作!)。優作も「非情」であり、聡子もまた「非情」なのだった。この作品、黒沢清監督らしい、「非情」な映画だとは思った。言うまでもなく「傑作」だし、監督の「新しい地平」でもあるだろう。今後の黒沢清監督には、今まで以上に注目するしかない。