ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『風にそよぐ草』(2009) クリスチャン・ガイイ:原作 アラン・レネ:監督

 原作は、日本でも何冊か邦訳の出ているクリスチャン・ガイイによる「L'incident(事件)」で、この原作も映画と同じ「風にそよぐ草」のタイトルで邦訳が出ていて、わたしも持っている(いちど読んでいるはずだが、内容はまるで記憶していない)。
 映画の原題は「Les Herbes Folles」で、これはアラン・レネが、この映画には「L'incident」というタイトルはうまく機能しないと考えたためにつけたものだという。

 ちょっと面白いのは、その「Les Herbes Folles」の意味についてGoogleで「Les Herbes Folles 意味」と検索をかけてみると、まずまっ先に「AIによる概要」というのが表示される。以下の通り。

「Les Herbes folles」はフランス語で「野草、雑草」を意味します。直訳すると「野生の草」となります。

これはフランス映画「Les Herbes folles」のタイトルとしても使われており、日本語では「風にそよぐ草」と邦題が付けられています。この映画は、主人公の女性が、幼い頃に知り合った男性に再会し、過去と向き合う物語です。

「Les Herbes folles」は、生命力や、制御不能な自然の力、あるいは、人生の偶然性を象徴する言葉としても使われることがあります。

 ここで、この映画の内容としてAIが書いていることは間違っている。デタラメである。まるでそういう映画ではない。AIなんてアテになりはしないという好例だろう。
 しかし、このタイトルを「生命力や、制御不能な自然の力、あるいは、人生の偶然性を象徴する言葉」と紹介しているのは、この映画を考える上ではとても参考になるものだ(AIの言っていることが<正しい>としてのことだが)。

 アラン・レネはクリスチャン・ガイイの小説を映画化することを決めたが、実はアラン・レネの長いキャリアで原作のある映画を撮るのはこれが初めてのことだった。彼はこの小説の映画化にあたって、小説の語り口、リズム、文体を気に入り、それを映画に活かそうと、撮影や美術、そして音楽にも原作の精神を取り入れることを目指した。2009年にこの作品が公開されたとき、アラン・レネは87歳ではあった。

 ‥‥いちど、この映画のストーリーを書き始めたのだけれども、「これでは伝わらない」と、どんどん長くなってしまったし、そもそもいくらストーリーを詳しく書いても、この映画の面白さは伝わらない。そう思って全部消して、どこかの映画紹介ページからの短かい「あらすじ」を載せるだけにした。

 歯科医のマルグリット(サビーヌ・アゼマ)はある日、引ったくりにあいバッグを持ち去られてしまう。駐車場の片隅に捨てられたバッグを拾った初老の紳士ジョルジュ(アンドレ・デュソリエ)は、その中にあったマルグリットの小型飛行機操縦免許の写真を見てなにかを感じる。そうして知り合った2人はすれ違いを繰り返しながらも周囲を巻き込んで、思わぬ方向へ転がり始めるのであった。以上。

 ま、正直なところ、ジョルジュは「ストーカー気質」のようで、過去に犯罪歴もあるようなことが語られる。フランスの選挙権も持っていないというのはどういうことなんだろう。仕事はやっていないようだが、妻もいて娘は結婚しているし、まだ学生っぽい息子もいる。表面的には「幸せな家庭」に見える。あと、彼自身も若い頃は「飛行機」が好きで、映画のなかで『トコリの橋』という、空軍パイロットが主役の古い映画を観に行ったりするのだった。

 マルグリットの「飛行機好き」は筋金入りのようで、なんと第二次世界大戦時のイギリスの名戦闘機「スピットファイア」を自分で購入し、奇妙な5人の整備師の力を借りて修理して、飛行場にしまってあるのだ。映画のなかでスピットファイアは操縦しないが、練習用小型機で「遊覧飛行」のパイロットもたまにやっているようで、これが映画のラストに結びつくことになる。

 映画には独特の語り口のナレーションが入り、このナレーションがまた、もう一人の登場人物のような主張をしている。
 これは「カメラ」にも言えることで、映画のなかでカメラはズームイン、移動、クレーン撮影(時には家の屋根を越えて行きもする)と、実に自在な動きを見せてくれ、これまた「もう一人の登場人物」的でもある。そして美術、照明も美しく、原色を活かした夜のシーンは見飽きない(映画中の「映画館」周辺の場面は、すべてセットを組んでの撮影だったということだ)。

 さて、映画は終盤のある一点まではけっこうノーマルなストーリー展開というか、ある分別盛りであるはずの年齢だろう男女が、それこそすれ違いながら、分別を捨てながらも仲を深めて行くという展開。 これは冒頭でAIが説明したタイトルの意味、「制御不能な力、あるいは、人生の偶然性」ということの具現化、と考えることは出来ると思う。また、マルグリットがジョルジュへの手紙に書くように、「誤解はわたしたち人間の宿命ですから」ということでもあるだろう。

 しかし、その映画の終盤のある一点で、まさにマルグリットとジョルジュとの互いの想いが最高潮になったときに、二人は偶然出くわしてしまい、互いのこみ上がる想いのなかで、まさに「映画のラストシーン」のように、言葉も交わさずにしっかりと抱き合ってしまうのだ。ふふ、このシーンで「20世紀フォックス映画」でおなじみのファンファーレ音楽が鳴り響き、画面には「Fin」の文字が躍るのだ。
 たいていの観客は「この場面」で面食らい、「なんだこの映画は!」となってしまうのだろう。って、これは「このシーンこそ映画のクライマックスであり、終わりでもあるのだ」という表明であろう。じっさい、主人公二人の「愛」のストーリーは、まさにこの場面で「Fin」ではあるだろう。
 そして、このあとのシーンは、そんな「クライマックス」の余波であって、終わり切れなかった「Fin」をどうやって終わらせるか、ということだ、と言ってしまっていいんじゃないだろうか。
 ひとつ真面目に書けば、このエンディングは「人の心は自分では制御できないモノ」という比喩なのだと言えるのかもしれない。そして「どうやって終わらせるか?」というところを、この映画は「ハッピーエンド」ではなく演劇でいう「ファルス(現実には起こりそうもない突飛なシチュエーション)」として、かなり強引に終わらせたのだと思う。この「ファルス劇」は、ごく短時間のあいだに、カメラの高速移動と共に立て続けにやってのけられ、笑いは倍加される。
 そう、わたしはこの日映画を観終わったあとも、映画のラストの少女のセリフを思い出すたびに、大笑いしたくなるのであった(今書いていても、思い出して吹き出してしまった)。そんなラストだけでなく、綿密な意思で撮られたそれまでのドラマの演出も見飽きることはなく、この映画、わたしにとって「最高」の映画の一本ではあるだろう。