アラン・ドロン主演により日本でも大ヒットした映画で、もうアラン・ドロンといえばこの映画、というぐらいに彼の代表作ともみなされていた(「あと一作を」と挙げれば、メルヴィル監督の『サムライ』だろうか)。
彼は1959年に『お嬢さん、お手やわらかに!』というコメディに出演し、それを見たルネ・クレマン監督がこの『太陽がいっぱい』の主役に抜擢、さらに『太陽がいっぱい』を見たヴィスコンティ監督が『若者のすべて』にアラン・ドロンを使うのだった。ルネ・クレマン監督もまた、この作品以後しばらくはアラン・ドロン主演の映画を撮りつづけることになる。
この映画はニーノ・ロータによる甘美な主題曲でも有名だけれども、ニーノ・ロータはこの映画に不満で、ルネ・クレマンは自分の曲の勝手な使い方をしたと語ったと何かで読んだ記憶がある。「主題曲を何度も何度も繰り返し使った」と読んだ気もしていたが、今回映画を観てみると、主題曲はヴァージョン違いで2、3度使っているだけで、そんなに言うこともないじゃないかとは思った。
わたしにとっては、この映画の原作がパトリシア・ハイスミスだということでも特別なものがあるのだけれども、原作「The Talented Mr. Ripley」が日本で邦訳が出たのは映画公開の十年近くのちのことになり、邦訳タイトルも『太陽がいっぱい』になってしまった。
わたしは今、そのハイスミスの「リプリー・シリーズ」を順に読んでいるのだけれども、やはり主人公のトム・リプリーのイメージは、どうしてもアラン・ドロンになってしまうのであった。ハイスミス自身も、このアラン・ドロンの演じたトム・リプリーを「Excellent」と評したらしいが、映画のラストが原作とは異なっていたことを批判した。映画のプロデューサー(ロベール&レイモン・アキム)は「社会通念上やむを得ないことだった」と語ったという。
この映画として、ハイスミスの原作から改変されているところも多いわけで、例えば原作の冒頭ではトムがフィリップの父親に会って「フィリップをアメリカに連れ戻すこと」を依頼されるところなどをバッサリ切り捨て、映画冒頭からトムはフィリップとつるんでいたりして、そのいきさつはすべてセリフで説明される。これはとってもうまく行っていたと思う。
原作でトムがフィリップを殺害するのはヨット上ではなく、ヨットから降りたのちに2人でボートを借りて乗り、そのボート上での殺害だったが、このあたりも映画ではヨットとボートとをうまく使い、トムがボートで置き去りにされる展開も良かった。
そして原作ではフィリップの恋人のマルジュがトムを「同性愛っぽい」と嫌い、トムの方もラスト近くではマルジュを殺してしまいそうになるほど嫌っていたのだが、映画でのマルジュはヨットの「ボート事件」からトムに同情的になっているし、トムは偽造したフィリップの遺書でフィリップの財産をマルジュに寄贈するわけで、それを「自分のモノ」にするため、マルジュをも落とそうとするわけである。
こういうところはトムの「パスポート偽造」のシーン、「偽サインの練習」と合わせて、「原作よりもいいんじゃないか」と思うぐらいである。この作品の脚色はルネ・クレマンとポール・ジェゴフという人物によるもので、このポール・ジェゴフという人、クロード・シャブロルの多くの作品の脚本も書いているし、エリック・ロメールの作品にも関わっておられた方。いわば、「ヌーヴェル・ヴァーグ」との接点も持っておられた方と言えるのだろうか。あとで撮影のアンリ・ドカエのことも書くつもりだけれども、そういう意味でこの『太陽がいっぱい』、「ヌーヴェル・ヴァーグ」色も抱え持っている作品と言えるのではないだろうか。ルネ・クレマン監督は「商業主義監督」と認識されていたわけだけれども。
原作にある、トムがフィリップに抱く「同性愛的な感情」が、映画には希薄だったのではないかという意見もあったようだけれども、淀川長治氏が「コレは同性愛の映画です」と言ったように、ちゃんとポイントは押さえて表現されていたと思うし、前半のヨット上とかでやたらとアラン・ドロンが上半身裸になるところなど、ルネ・クレマン監督自身もアラン・ドロンにそういう感情を持っていたのでは?とも思ってしまったりする。映画全体をみても、アラン・ドロンのちょっとした上目遣いの表情だとか仕草などには、観ていてもゾワッとさせられるところがあった。
その、前半のヨット上でのシーンなど、わたしはポランスキー監督の『水の中のナイフ』を思わせられるなあと思っていて、『水の中のナイフ』はこの『太陽がいっぱい』より前の作品だと思い込んでいたのだけれども、実は『水の中のナイフ』は1962年の作品で、わたしが思っていたのとは逆に、この『太陽がいっぱい』が『水の中のナイフ』に影響を与えていたのかもしれないのだ。
そんな、印象的なヨット上の撮影、そしてイタリアの白い壁の町の撮影が印象に残る、この作品の撮影監督は名手アンリ・ドカエなのだけれども、トリュフォーやルイ・マル、クロード・シャブロルら「ヌーヴェル・ヴァーグ」作家の撮影をよく担当していたアンリ・ドカエ、このルネ・クレマンの作品の撮影もけっこう多く担当している。
今回すっごい久しぶりにこの映画を観て、これは前から記憶に残っていたのだけれども、トムが港町の魚市場を散策するシーンの、どこかドキュメント・タッチというような場面が、映画全体の中でも異色だったし、大好きな場面であった。
映画が始まってすぐ、ローマにいるトムとフィリップがフィリップの友だちのフレディ(彼はあとでトムに殺される運命)と出会うとき、そのフレディが連れていた女友だちのひとりが、ロミー・シュナイダーだったことを確認した。多分このときアラン・ドロンと交際していたのだろう。
わたしのこの映画のもうひとつの「お楽しみ」は、わたしが大ファンだった(今でもなお、わたしのいちばん好きな女優さんである)マリー・ラフォレが出演していること。マリー・ラフォレにとってもこの作品がデビュー作だったわけで、このときはまだまだ「かわいい」という印象もある。それでもこれがすっごいしっかりした演技をみせてくれるわけだ。このあと彼女はだんだんに、「ミステリアスな美女」へと変身して行くのだけれども。