ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『嘘をつく男』(1968) アラン・ロブ=グリエ:脚本・監督

嘘をつく男〈HDレストア版〉 [DVD]

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  • ジャン=ルイ・トランティニャン
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 ロブ=グリエの前作『ヨーロッパ横断特急』はベルギーとの共同製作だったが、この『嘘をつく男』は当時のチェコスロヴァキアとの共同製作。これはチェコスロヴァキアの映画製作者がロブ=グリエの『不滅の女』を観て絶賛し、自国で監督に制約を加えることなく映画を撮らせようとしてのことだったという。観た感じでも、この作品は全篇チェコスロヴァキアでのロケで撮られたのだろう。
 それまで芸術性の高い映画作品を製作しつづけていたチェコスロヴァキアだけれども、実は1968年の「プラハの春」以降映画人たちは逆に沈黙を強いられ、それまでのチェコスロヴァキアの映画製作の伝統は終焉を迎えたのだった。そういう意味でも1968年に公開されたこの『嘘をつく男』、けっこうギリギリの時代背景でつくられたみたいだ。

 この作品はボルヘスの短篇集『伝奇集』の中の「裏切り者と英雄のテーマ」にヒントを得て製作されたというが、その「裏切り者と英雄のテーマ」はわたしも読んでいる(実は今は内容は忘れてしまっていたが)。それはある軍隊で「英雄」と讃えられていたリーダーが実は敵と取引していた「裏切り者」だったとわかるのだが、軍はそのことを隠ぺいしてそのリーダーが暗殺されるというストーリーを考え、リーダーもそのストーリーを受け入れて「英雄」として死んで行く、というものだった。

 主演は『ヨーロッパ横断特急』につづいてジャン=ルイ・トランティニャンで、彼は1970年にはベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』にも主演しているのだが、そのベルトリッチはその前に『暗殺のオペラ』という作品を撮っていて、その作品もまたボルヘスの「裏切り者と英雄のテーマ」を原作としているのだった(この映画、観ているはずだけれどももう何も記憶していない)。
 オープニング・クレジットをみても、チェコ人らしいスペルのキャストやスタッフの名が並んでいるのだが、例によって(?)ロブ=グリエの夫人のカトリーヌ・ロブ=グリエが今回も出演している。

 物語はおそらく第二次世界大戦中のことで、ナチス軍と思われる軍隊に追われる一人の男(ジャン=ルイ・トランティニャン)から始まる。彼は瞬間、撃たれたような動作で倒れるのだが、すぐに起き上がってまた逃げつづける。想像していたことだけれども、「嘘をついている」のはこの主人公だけでなく、ロブ=グリエによる映画演出も「嘘」を含んでいるだろう。
 主人公の声のナレーションで「僕の名はジャン・ロバン」「僕の話をしよう」と語られるが、すぐに「せめてそう努めたい」などという。

 追手から逃げおおせて歩く主人公はとある占領されている村に着くが、そのとき「僕の名はボリスだ ジャンともウクライナ人とも呼ばれたりする」と語ることになる。
 男は村の宿屋の食堂で食事をとるが、そこではおおぜいの村人らが「ジャンはいつ帰ってくるのか」などと話をしている。ジャンはレジスタンスの英雄らしいし、戦争はすでに終わっているようだ。
 「ジャンの屋敷にはジャンの妻とその妹、そして使用人とが待っている」という話を聞き、男はその屋敷へ行って3人の女性に会う(この3人が目隠しをして遊び戯れている断片的な映像は、もっと前から映画の中に挿入されていたのだが)。
 屋敷の壁にはジャンの写真が多数掛けられている。男は「僕はボリス・ヴァリサ、ジャンの使いだ」と語り、「ジャンはいちど捕まって、僕が彼を収容所からの脱走を手伝った。ジャンは今隠れている。」という。

 男は村と屋敷を行き来しながら、「村の男たちは僕のことを知っているはずなのに知らないフリをしている。僕のことを知っているといえばジャンが裏切り者であることがバレてしまうからだ」と話し、だんだんと屋敷の3人の女に取り入って行く。男は自分の嘘が露見しそうになるとごまかし、話も変えていく。ついにはジャンは死んだことにされる。男は「僕も死んでいるのだ」と。
 さいごにはジャンが姿をあらわして男を拳銃で撃ち、消えて行く。倒れた男はよみがえって立ち上がり、カメラに向かって「今から僕の真実を話そう」と話し、横を向いて「せめてそう努めたい」と語って振り向くと、男はジャンになっている。
 彼は「戦時中の名はジャン・ロバン、だが本当の名はボリス・ヴァリサ」と語る。
 画面は誰かに追われるように屋敷を逃げ出し、森の中をさまよう男の姿になって映画は終わる。

 さまざまな映像を時間軸もさだかのないままに編集していて(過去のロブ=グリエの映画のように、同じシーンが繰り返されたりもする)、それが男の虚構性を際立たせるようでもあるし、この男の存在がこの映画の背後の「真実」を解体しているようにも思える。
 男は「英雄」とされているジャンのイメージを抹殺するためにこの村にきていて、3人の女のいるジャンの屋敷では、ジャンに成り替わってしまおうとしているようだ。しかし男は、その「英雄」ジャンのイメージに抹殺されるか、そのイメージから逃走しようとすることになる。

 男の語る話をイメージ化する映像も多用されているのだが、そのイメージは先に語られたイメージを裏切るかたちでも進行し、まあ「嘘をつく男」の抱くイメージなのだからみ~んな「嘘」ともいえるのだけれども、わたしには男の嘘の本質は「言葉」だと思え、そういう意味でも、「小説的」な映画だとの感想を持った。
 そう、この映画に音楽担当のクレジットはないのだけれども、前作『ヨーロッパ横断特急』で街のノイズなどが増幅されて使われていた延長か、モノがぶっつかるような音(ノイズ)が画面とは関係なく連続して流され、それがほとんど「ミュージック・コンクレート」のように聞こえた。わたしにはこの「音」(ノイズ)がとっても良かった。