ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『不滅の女』(1963) アラン・ロブ=グリエ:脚本・監督

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 監督のアラン・ロブ=グリエはそもそも小説家であり、ミシェル・ビュトールナタリー・サロートらと共に「ヌーヴォー・ロマン」の作家などといわれていて、彼はその代表的な作家だった。
 Wikipediaの彼の項をみると彼は9本の映画を撮っているようだが、映画ファンにいちばん彼の名が知られているのは、アラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』(1961)の脚本家としてだろう。

 この『不滅の女』はアラン・ロブ=グリエの第1回監督作品になるのだが、彼は『去年マリエンバートで』で映画の詳細な撮影脚本も書いていて、彼の中では『去年マリエンバートで』こそが彼の映画の第1作という認識らしい。
 ロブ=グリエは『去年マリエンバートで』のあと、長編映画の監督になることを熱望していたのだが、支援者がなかなか現れず、最終的にベルギーのプロデューサーが「トルコで映画を撮影すること」を条件に彼を支援することになる。よってこの作品、全篇トルコ(イスタンブール)でのロケである。
 つまり、ロブ=グリエは「トルコで撮る」という条件に合わせてこの脚本を書いたわけだが、脚本は『去年マリエンバートで』のように撮影プランまで細かく指示したものだったらしい。

 日本タイトルは『不滅の女』だが、原題の「L'Immortelle」は、「不死」と解釈した方が良いらしい。
 この映画では「映画の中でいったい何が<事実>だったのか」が意識的にわからないようにあいまいに描かれていて、時間経過もあいまい。さらにヒロインの女性(ラーレ? 名前からしてウソらしい)を含めて、主人公男性の周囲に登場する人物は誰もが「ウソ」をついているみたいであり、最終的には「この主人公だって本当のことを語っているのか」という疑念も生まれる。というのも、この作品に「主観描写」はなく、すべて「客観描写」なわけで、そこで主人公のこともまた他の登場人物のように「信用ならない」ということになる(映画の中でただ一人、「この人の言うことがいちばん信用できるのではないか」という人物もいるが、そのことはまたあとで)。映画には「こういうシーン、『去年マリエンバートで』で観たなあ」というような、『去年マリエンバートで』を継承するようなシーンも頻出し、『去年マリエンバートで』との関連で考えるべきところもあるみたいだ。

 主人公はトルコに1~2年派遣されている教師だということで、今は1ヶ月ほどの休暇にあるという(これだって信用できるわけではなく、ひょっとしたら彼はフランスから来た「探偵」なのかもしれない、などという突拍子もない想像だって可能だろう)。イスタンブールの埠頭で犬を連れた男(これまたいろいろと怪しい)といっしょにいた女と出会い、家まで彼女の車で送ってもらい、以後彼女との親密な交際が始まるわけだ。
 しかし彼女はトルコの人たちとコミュニケーションをとっていながら、男には「観光客程度のトルコ語しかできない」というし、男が出会うトルコの男たちも、トルコ語しか話せないふりをしながらもフランス語も理解しているようだ。

 どんどん女に惹かれて行く男が彼女のことを知ろうとすればするほど、彼女のことはすべて「謎」に包まれているように思えるし、彼女は姿を消してしまったりもする。
 彼女は何かから逃げるように男を自分の車に乗せて夜道を走り、とつぜん道の真ん中にあらわれた犬を避けようとして車は木にぶつかり、女は死んでしまうのだ。
 彼女の死後も彼女の記憶に囚われている男はさらに女のことを知ろうと、過去に女と訪れたイスタンブールのモスクや廃墟などを彼女を求めて奔走する。彼女に会っているはずの人物に彼女のことを聴いても「そんな人物はいなかった」との答えが返ってくる。
 修理された彼女の車が売られているのを見つけた男はその車を購入し、あの夜道を一人で走り、やはり木に激突して死ぬのである。

 男が彼女と会っていっしょにドライヴしたとき、彼女は男に「(イスタンブールは)想像の世界よ」と語る。
 映画の冒頭で男は自分の部屋の窓のブラインド越しに外の世界を眺めるのだが、部屋の中は夜のようなのに窓の外は昼だし、男は映画時制的にもっと先に起こることをも幻視しているようでもある。このシーンでは窓から外を盗み見するように見ているのは主人公の男だが、別のシーンでは、建物の窓から男と女を覗き見している人の姿が散見される。

 映画は、提示された事象をもとにして「この女は何者なのか」という「謎」を観客が想像することで成り立つようでもあるし、そこにあるのは「ひと通り」の解釈ではなく、いくつもの解釈が可能なようである(その中に、そもそもこの男は「誰」なのか、という「謎」も含まれてくるだろう)。
 パーティーで出会った彼女の知り合いのフランス人カトリーヌは、「ここでは誘拐、秘密の監獄、人身売買される女たちがいて、外国人相手に怪しげな商売をしている」という。とすると女は拉致されてイスタンブールにいて高級娼婦をやらされている女で、女は組織の男たちから逃げようとしていた、ということになるし、何のことはない、男はそんな高級娼婦にのぼせてしまった客だったということになる。
 しかし、そのカトリーヌは交通事故死した女の死因について、「いっしょに乗っていた男が横からハンドルをつかみ、車を木に激突させたせいだ」ともいう。もしもそれが真実だとすれば、男は単に「女を追い求める男」ではなく、「女を殺した男」になってしまう。

 このように「登場人物は誰も信用できない」という映画みたいだが、わたしは観ていてその「客観描写」の上からも、カトリーヌだけは「本当のこと」を語っていたのではないかと思う(だからといってすべて解決するわけではなく、今度は「男の行動」が謎になるわけだが)。

 わたしはナボコフの小説にしてもそうなのだが、こういう「信用できない語り手による信用できない物語」というのが大っ好きで、この映画を観ていても、楽しくって神経がしびれてしまうのだった(そういえば最近何かで、ナボコフアラン・ロブ=グリエの小説を気に入っていたというのを読んだばかりだった。さもありなん)。大好きな映画である。

 さて、映画の中でカトリーヌという重要な役で出演しているのはカトリーヌ・ロブ=グリエという人で、俳優が本業ではなく、名のようにアラン・ロブ=グリエの夫人という人である。しかもこのお方、1956年に「ジャン・ド・ベルグ」の筆名で『イマージュ』という(日本でも翻訳が出て文庫本にまでなった)エロティック小説を書いた作者その人だったのだ。
 この映画で彼女のことを目にしても、やはり非常に理知的ながらも独特の冷たい美しさを持った人という印象で、その才能を推しはかることもできる思いだった。

 あと、やっぱりイスタンブールには街なかにネコがいたね。