わたしが、シャンタル・アケルマンという映像作家のことを意識するようになったのはけっこう最近のことで、それはつまりは2年前に、『ONE DAY PINA ASKED... / ある日、ピナが…』という1983年の彼女の作品をネット配信で観てから、ということになる。
実は当初、その『ONE DAY PINA ASKED... / ある日、ピナが…』を観たときの印象は、どちらかというと否定的なものだったけれども(2年前のこの日記にも、けっこうネガティヴなことを書いている)、今になって思い返せば、単なる「ドキュメンタリー」ではなく、ひとつの方法論にもとずく「思弁的・思索的」なドキュメンタリーだったではないかと、思い直すようになった。
機会があれば彼女の他の作品も観てみたいものだと思っていたのだが、それなりに監督作品があるとはいえ、今では手軽に観ることが出来るシャンタル・アケルマンの作品は「皆無」と言っていい。
それがこの春、東京で「シャンタル・アケルマン映画祭」なるプログラムが上映され、彼女の5作品が連続して公開されたのだった。よほど東京へ観に行こうかと思ったが、このプログラムの企画は以前「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ」をやった会社であり、それはウチのとなり駅でも時期を置いて開催されたものだったから、今回もしばらく待てばきっと、となり駅の映画館で上映してくれるだろうと予測していた。
‥‥その「予測」は的中し、その映画館でこの日から5週間、1週間に1本ずつ、シャンタル・アケルマンの作品が上映されるのだった。
その1本目、1974年の作品『わたし、あなた、彼、彼女』を観た。前情報として「どんな作品なのか」ということは一切知らずに観たのだけれども、それはまさしく「正しい選択」だったというか、ただただ素直に画面を観ることが出来、そのことが「映画を観る」体験の楽しさを味あわせてくれた、と言えるだろうか。
この作品はドキュメンタリーではなく、ちゃんと「演出」されてはいるのだけれども、その演出は、観客に何かを「解釈」させようとするものではない。ただただ観客は、スクリーン上で展開することがらを「目撃している」だけというか、「時間」を共有することこそ「すべて」と思え、そこから何らかの観念を生み出すことを求められてはいない、と思う。それは一面で、アート系の「パフォーミング・アート」に近接していると感じた。
作品は大きく3つの区切りから成立していて、さいしょのパートは、シャンタル・アケルマンが自ら演じる女性が、ただひたすら「廊下のような狭い」部屋の中、マットレスひとつだけのなかで手紙を書き、裸になり、ゴロゴロしながら紙袋に入れた砂糖をスプーンでなめるだけ。
次のパートで彼女は外に出てヒッチハイクをし、大型トラックに乗せてもらい、その運転手とバーに行ったりし、「傍観者」としてその男の話を聞きつづける。
さいごのパートで彼女は「恋人」である女性の部屋を訪れ、延々とふたりで同性愛の「からみ」をつづけるのである。
わたしは、さいしょのパートがシャンタル・アケルマン自身のナレーションだけで進行していたので、そういう映画だと思い込んでいたので、次のパートで運転手の男がとつぜんにセリフをしゃべりはじめたのに、ちょっとばかりびっくりしてしまった。
このパート、その運転手の男はけっこう長いセリフをよどみなく語るわけだし、「ひょっとしたら彼はじっさいに<運転手>で、シナリオなくして自分のことを語っているのかも?」などとは思った。
映画を観たあとで、タイトルの『わたし、あなた、彼、彼女』とはどういうことだろう?とか考えるのだが、やはり「あなた」とは、スクリーンを見つめつづける「観客」のことだろうか、とは思った。
一箇所、けっこう驚いたのは、さいしょのパートで部屋の中でダラダラする彼女のところに、その窓の外に男が立って部屋の中を覗くシーン、だったか。あの男こそが「あなた」、だったのかも知れない。