ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『ピアニストを撃て』(1960) フランソワ・トリュフォー:監督

       

 トリュフォーの、『大人は判ってくれない』(1959)に次ぐ第二作で、製作された1960年はゴダールが長編第一作の『勝手にしやがれ』を撮った年でもあり、この二本の作品の撮影監督はラウール・クタールだったりする。見ていても「こういうショットはラウール・クタールならではかな?」などと思ったりもした。

 いちおうデヴィッド・グーディスという作家による原作があり、彼はアメリカのハードボイルド作家として著名でもあったらしい。
 ではこの『ピアニストを撃て』がそういうハードボイルドものというかノワール映画になっているかというと、まるでそういう印象ではない。
 主人公のシャルリ(シャルル・アズナブール)は場末のカフェでピアノを弾いて生計を立てているけれども、かつては将来を注目されたクラシックのピアニストではあった。妻の自殺によって「世捨て人」的な生活をし、精神的に障害のある弟と一緒に暮らしている。そんなシャルリに、カフェのウェイトレスのレナは同情しているようだ。
 しかしシャルリにはどうしようもないやくざ者の兄がいて、ギャング間の抗争から逃れてきた兄はシャルリに助けを求めるのだ。

 まあストーリー上からは、そんなシャルリの兄弟とギャング団との抗争が前面にあって、それこそ「ノワール」な映画になりそうなものだが、そのギャング団2人も兄も「間抜け」というか、こういう部分ではシリアスなドラマとは思えず、ある意味コミカルでもある。

 わたしはこの作品でトリュフォーが「まじめに」ノワール映画を撮ろうとしたとは思えないのだが、「それではトリュフォーは何を撮ろうとしたのか?」と考えると、わたしはそれは主人公のシャルリと、彼の周辺で死んでいった二人の女性との関係をこそ撮ろうとしたのではないかと思った。
 だからこそわたしはこの映画を観ていて、シャンタル・アケルマンの映画のことを思い出してしまい、前にFacebookでそのシャンタル・アケルマンの映画に関して、ある方が「男性客よく最後まで見てたなー 敬意」と書き込まれたことで深く傷ついたことを思い出し、この日もまた、その感情がよみがえってしまったのだった。
 もちろんトリュフォーは「男性監督」であり、そんな人物の作品である意味で<ジェンダー>的なことを想起するとは思ってもいなかったので、かなりショックだった(ましてやそういう主題の映画ではないし)。
 このことはやはり、トリュフォーという監督がこの時期から、「ただストーリーを追えばいい」という映画を撮ってはいなかったのだ、という(あったりまえの)ことを思い知らされたわけだ。