ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『断頭台への招待』ウラジーミル・ナボコフ:著 富士川義之:訳

 亡命ナボコフのパリ時代、「シーリン」のペンネームで1938年に発表された作品(当然、ロシア語による作品)。この作品の次は『賜物』で、1940年にはアメリカに渡ることになる。この富士川義之氏による翻訳は、1959年になってナボコフ自身が英訳したものからの翻訳で、おそらくはさいしょのロシア語版からナボコフ自身による改変、書き換えも多くあることだろう。

 後年、ナボコフはこの作品への愛着を語っていたというが、読んだ感じでも他のナボコフの作品と異なる印象を受ける。そのことがナボコフのこの作品への愛着と関係あるのかわからないが。

 この作品、シンシナトウスという主人公(30歳)が収監され、刑(斬首刑)の執行日までのことが書かれているのだけれども、「架空」の国であるだろうこの舞台で、シンシナトゥスの有罪とされた罪状はよくわからないし、主人公のシンシナトゥス自身、いったいいつ自分への刑執行がなされるのかわからないわけで、それが彼のいちばんの不安ではある。
 いちおう全20章、終末部を除いて1章が1日として進行し、小説は3週間近い期間のことが書かれているのだけれども、けっこうその内容は「非現実的」というか「不条理」というか、シュルレアルなぶっ飛んだ話が次々とつづき、「妻や家族の面会」とか「首切り役人」の登場とか、全体の構成はあるとはいえども、一面で「脱線に次ぐ脱線」というところで、そういう1日1章の話をいくらでも書き継ぐことも出来そうに思う(これは、かつてのテレビ全盛時代のゴールデンタイムのバラエティ・ドラマとかがやっていた手法ではないか?)。

 ナボコフは渡米したあとに、『プニン』という愛すべき作品を書いているのだけれども、ロシアから亡命してアメリカの大学でロシア語(ロシア文学)を教えるプニンという人物が、ついにはその大学を解雇されて住んでいた町を去って行くまでの話だったけど、この『プニン』だってその「最終回」というかプニン氏が大学を去るまで、いくらでも逸話というか挿話を足しても行けるわけで、そういうところではわたしは、この『断頭台への招待』と『プニン』との形式は似通っているのではないかと思った。

 ‥‥よくわからない罪状で告発され、それ以降も淡々とした日常がつづくものの、ついには不意に処刑されてしまうというとカフカの『審判』との類似性、近似性を思い浮かべるのが文学研究者、文学ファンの宿命なのだろうが、ナボコフ自身はこの作品の英語版の「まえがき」で、当時ナボコフ自身はカフカの作品をまったく読んでいなかったと書いている。

 ナボコフはその「まえがき」でこの作品のことを「虚空で奏でられるヴァイオリン」と語り、「俗物はこれを悪ふざけと見做すかもしれない」としている。
 じっさい、この作品はいわゆる「リアリズム」から遠く遠く離れているというか、主人公のシンシナトゥスは夜に服を脱いだあとに自分の頭を取り外し、鎖骨も両足もバラバラにしたりするし、独房から勝手に外に出て行き、自分の家へと帰るのだが、その自宅のドアを開けるとそこは元の独房だったりもする。シンシナトゥスの妻や家族が面会に来るが、そのとき家の家具も全部監獄へ持ち込んだりもする。エミーという監獄長の幼い娘はいつも勝手に独房に出入りする。
 そのような「虚」とも「実」ともつきかねる記述のおかげで、このラストにはたしてシンシナトゥスは処刑されたのか、それとも彼は「別の次元」へと移行してしまうのか、まるで判断はつきかねることにはなる。わたしとしては、独房でシンシナトゥスの孤独を癒すような「蜘蛛」の存在が気に入った。

 実はちょっと自分的にこの本は読みづらく感じたというか、それが「翻訳」のせいではないかという気もしていて、近年刊行されたロシア語版からの翻訳『処刑への誘い』の方も読んでみたいと思っている。