ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『日時計』シャーリイ・ジャクスン:著 渡辺庸子:訳

 1958年発表の、シャーリイ・ジャクスンの長篇小説第4作。このあとは『山荘綺談』、『ずっとお城で暮らしてる』と、「(世界から隔離された)屋敷モノ」がつづくけれども、この『日時計』もまた「(世界から隔離された)屋敷モノ」ではあり、登場人物らはその屋敷で、「世界から隔離された」状況下で生きることになる。

 シャーリイ・ジャクスンの小説は登場人物が少ないのが基本だけれども、この『日時計』は例外的に登場人物が大ぜい。舞台の「屋敷」の中で共に暮らす人々も10人以上いるし、終盤のクライマックスともいえる、町民を招いての屋敷芝庭での(この世の終わりの)大パーティーには、もっともっと大ぜいの町民も登場し、それぞれ短かいながらも「いい味」を出してくれる。
 しかし、「さすがにシャーリイ・ジャクスン」というか、屋敷に住む基本登場人物はほとんど女性で、いわゆる「男性原理」というものの外の世界なのではある(中心人物といえる「ハロラン夫人」は「男性原理」を屋敷に持ち込もうとしているようにも思えるけれども、それでもやはり「女帝」という言葉がお似合いである)。屋敷の主人のリチャード(ハロラン夫人の夫)は車椅子生活の半病人で、認知症の気配もあるし、屋敷の執事(図書室係)のエセックスは、姑息で強いものにへつらうだけで、シニカルなことを語ったりはするけれども中身は空っぽみたい。「あまりに屋敷に男がいないので」ということで連れて来られる放浪者のキャプテンは、わたしの読んだ限りではこの作品で唯一の「ノーマル」な存在に思われたが弱い(彼が「屋敷を出て行く」と希望してハロラン夫人と交わすやりとりには大笑いした)。

 物語は、この屋敷の所有者であるハロラン家の跡継ぎ、ライオネルが屋敷の階段から転げ落ちて死亡したあとから始まる。ライオネルの父リチャードの後妻、オリアナ・ハロラン夫人が屋敷全体の実権をにぎることになり、図書室係のエセックスや家庭教師のミス・オグルビーらに暇を出し、ライオネルの妻のメリージェーン、その娘のファンシーら、残る家族を屋敷の奥の部屋に追いやろうとし、「女帝」として屋敷に君臨しようとする。しかし実は屋敷内では「ライオネルはオリアナに階段で後ろから突き落とされて死んだのだ」と皆がうわさしているのだ。
 ところがそんなとき、当主リチャードの妹、48歳にして未婚、独身の「ファニーおばさま」が屋敷の庭を散策中、庭の中央の「日時計」の付近で濃い霧に包まれて道に迷い、そこに彼女のお父さま(当主のリチャードの父でもあり、この屋敷を造った人物)があらわれ、「世界は滅亡するであろう。しかし、この屋敷に残るものだけが生き残るであろう」と告げたのだ、と彼女は言う。
 そんな異常体験から回帰したファニーおばさんが屋敷の皆に自分の体験を語るのだが、屋敷の全員がその話をすっかり信用し、本気にするのだった。特にハロラン夫人がその「世界滅亡話」に入れ込み、屋敷の女帝として屋敷のメンバーのサヴァイヴァル計画を指揮することになるのだ。まあエセックスなんかはそんな話は信じていないフシもあるのだけれども、「ココは信じたフリをして行動すれば自分の利になるだろう」との狡猾な考えもあるようであった。
 折しも、ハロラン夫人の旧友のウィロー夫人が二人の娘のアラベラとジュリアを連れて屋敷を訪れてくるし、ハロラン夫人の親戚のグロリアという娘もやって来て、それぞれがファニーおばさまの「ハルマゲドン」話を信用するのだ。しかも、グロリアは鏡を使った「霊視」も出来るということで未来を透視し、さらに「ハルマゲドン」は確かなことになり、その最終期日もだんだんとわかってくるのであった。

 「生き残るため」のサヴァイヴァル計画は進み、ハロラン夫人の許可を受けてファニーおばさんとミス・オグルビーが町に「生き残りのための物資」を買い出しに行く。トラック満載の荷物を屋敷に運び、入りきらないので図書室の書物をぜんぶ焼き払い、空いたスペースに荷物を入れるのだ。
 言うまでもないが、屋敷の全員が一種の「狂態」を示し、作品はコメディー色を強めていくのだけれども、そこはシャーリイ・ジャクスンのこと、スラップスティックにはおちいらず、登場人物の性格に裏付けされた会話の妙で読ませてくれる。

 それで、予定された「ハルマゲドン」の前夜、町の人たちを招いての「最後の」パーティーのあと、じっさいに外世界では強風が荒れ始め、「もはやこのまま世界は終末を迎えるのか?」ということになる。
 けっきょく読み終えてみると、ストーリーの中心だったハロラン夫人こそ、「何もかもお見とおし」だったのではないのか、ファニーおばさんのクレイジーな話を利用して「自分の終末」をこそ演出したのではないのか、という読み方も可能なように思えたりした。

 SFともファンタジーとも、あるいはコメディとも人間ドラマとも読める作品だが、それらの複合された産物として、楽しく読めた小説だった。