ワニ狩り連絡帳2

前世のワニ狩りの楽しい思い出。ネコのニェネントとの暮らし。

『鳥の巣』シャーリイ・ジャクスン:著 北川依子:訳

エリザベス・リッチモンドは内気でおとなしい23歳、友もなく親もなく、博物館での退屈な仕事を日々こなしながら、偏屈で口うるさい叔母と暮らしていた。ある日、止まらない頭痛と奇妙な行動に悩んだすえ医師の元を訪れる。診療の結果、原因はなんとエリザベスの内にある、彼女の多重人格だった。ベス、ベッツィ、ベティと名付けられた別人格たちは徐々に自己主張をし始め、エリザベスの存在を揺るがしていく……〈孤高の異色作家〉ジャクスンの、研ぎ澄まされた精緻な描写が静かに炸裂する、黒い笑いに満ちた傑作長篇がついに登場!(1954年作)

 上は出版社のこの本紹介のページより。
 この前のシャーリイ・ジャクスンの作品『絞首人』も二重人格のヒロインのストーリーだったが、この作品は「四重人格」である(ザ・フーのアルバム『四重人格』が、この小説の影響でつくられたかどうかは知らない)。
 前の『絞首人』では、終盤にヒロインと行動を共にする女性が「二重人格」ゆえの、ヒロインと同一人物だということはしかとは書かれていなかったのだけれども、この『鳥の巣』では明らかに「多重人格」である。ライト医師の診察のとき、エリザベスの人格は瞬時に他の三人に入れ替わる。これがエリザベスの住むモーゲン叔母の家での人格の「入れ替わり」は、ほとんどジョークに近いものにもなる。

 この作品はほとんど、その四重人格のエリザベスという女性と、その叔母のモーゲン、そして彼女の担当医のライト医師の三人だけで進むが、いちおうその背後には、三年前に亡くなったというエリザベスの母の存在が大きな影を投げかけている。
 その、エリザベスの母のことをよく知っていたのがモーゲン叔母なのだけれども、彼女にとってエリザベスの母は「とんでもない」女性ではあった。そのことが娘のエリザベスに影響を与えているのだろうが、その分岐した彼女の人格のうち、ベティにもっともこの母親への思慕がみられ、じっさいには三年前に亡くなっている母親を「三週間前に亡くなった」と認識し、母親の生活の軌跡を求めてニューヨークへと「家出」してのけたりして、このベティのニューヨーク行きがこの小説のひとつのアクセントになっている。

 しかし実はこの小説、そういう症例としてのヒロインの「多重人格」からの治癒を「最終目標」として書かれているわけではない。ここに彼女を二年以上にわたって、催眠療法などで診察したライト医師の存在があるわけで、この小説では「第四章」でそのライト医師の執筆した「臨床記録」が載せられていて、これが面白い。
 ライト医師は自分の書いた「臨床記録」をひとつの「作品」と認識し、自分のことを「作家」だとしている。その章を読んでも、かなり自意識過剰なライト医師の認識には「客観性」が欠けているのではないかと、誰もが思うことだろう。エリザベスの四つの人格のうち、金銭への執着の強いベティをあからさまに嫌悪し、いちばんおとなしいベスのことが「お気に入り」である。また、エリザベスが共に暮らすモーゲン叔母に対しても強い敵愾心を持っている。

 しかし、ライト医師はついにはモーゲン叔母の家を訪れ、モーゲン叔母との(まさに)「対決」を行う。ここで驚かされるのはその相手のモーゲン叔母の豹変というか、ライト医師の前でとつぜんにすっくと立ち上がり、大声で「私の話を聞くがいい」と、まるで冥界の魔王のように、もしくは映画『へレディタリー/継承』の中のトニ・コレットのように、すべてをひれ伏せさせようとするのである。ビックリである。

 さらに驚くのは最終章、おそらくは人格の分裂も治まったようなエリザベスを、そのライト医師とモーゲン叔母とが二人で、「まるで仲のいい家族のように」知人宅を訪れることで、ここで医師は「我々はひどく老夫婦めいてきたよ。邪悪な魔法使いは最後には竜と結婚して、末永く幸せに暮らしましたとさ」などと語り、モーゲン叔母も「私たち、最初から全部やりなおすんだよ。友だちみたいに」と言うのだ。もうあきれてしまうというか。
 このとき、エリザベスは「人格分裂」の危機はなくなったのだが、実はその人格が「誰なのか」というのは「空っぽ」の状態にあると思われる。その「空っぽ」の彼女を、ライト医師とモーゲン叔母とが二人いっしょにつくりあげて行こうというのだ。

 これはまさに「黒い笑い」で、読み始めたときの「この小説は<多重人格>モノ」という期待というか予測は、ガラリと裏切られてしまうのだ。
 むむ、やはりいちばんのくせ者はモーゲン叔母で、ライト医師はかんたんに彼女に丸め込まれてしまったね、という気もする。いやいや、というか、いちばんのくせ者は作者のシャーリイ・ジャクスン、ではあろうことよ。まあ読み返せばまたその印象はすっかり変わってしまいそうで、これはかなり「奥深い」作品ではないかと思うのであった。